第5章 リ・チャレンジ ②義母、来たる。
1歳児は面白い。
美羽はハイハイで逃げ回る空の後を、「ホラ~、つかまえちゃうぞ~」と四つん這いで追いかけていた。空は声を上げて笑いながら逃げる。
――ああ、早くこんな風に、本物の子供と遊びたいよお。
美羽は空をつかまえて抱きしめた。暖かい。空はキャッキャッと手足をばたつかせる。途端に、大きなおならの音がした。
「あ~、やっちゃったね?」
おむつを替えていると、チャイムが鳴った。
時計を見ると、夕方の6時。流が帰ってくるのにはまだ早い。
――宅急便かな? 何か荷物を頼んでたっけ。
おむつを替え終わるまでインターフォンに出られないでいると、何回かチャイムが鳴った。
「はいはーい。ちょっと待ってくださいな」
美羽はインターフォンのボタンを押した。
「ハイ」
「あ、よかった、いたのね美羽ちゃん。お留守かと思った」
画面に映し出されたのは、ボブカットで黒いコートを着ている細身の女性だ。一瞬、「誰?」と思ったが、緑に染めている髪を見て、流の母親の朱音だと気づいた。
「えっ、お義母さんですか? 何かあったんですか?」
「ちょっと近くに寄ってね。部屋に行ってもいいかしら」
朱音は今まで聞いたこともない、柔らかな声音で言う。普段は早口でとげとげした声音で話すので、美羽は戸惑った。
「ハ・ハイ、すぐに開けますね」と、下のエントランスのロックを解除する。
朱音が部屋に来るまでの間、「まさか、流に何かあったんじゃないよね。事故に遭ったとか? でも、そんな緊迫した感じじゃなかったよね」と不安になった。
玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けると、朱音が満面の笑みを浮かべて、「こんにちは。お久しぶりね。元気?」と声をかけた。朱音の笑顔を見たのは初めてなので、美羽は固まってしまった。
「え・ええ、はい、まあ」
どうやら流は事故に巻き込まれたわけではなさそうだ。朱音の後ろには、30代ぐらいのスーツ姿の男性と女性が立っている。二人は美羽に会釈したので、美羽も頭を下げた。
「ごめんなさいね、突然押しかけて。あの子、いるかしら」
「あの子? 流はまだ会社で」
「違うわよ。流じゃなくて、ホラ、あなたの子。あの子、ホラ」
「……空のことですか?」
「そう、空君に会わせてくれるかしら」
美羽は訳が分からず、ドアを開けたまま立ち尽くしていると、朱音は不気味な笑顔をつくった
「ねえ、久しぶりに空君に会わせてちょうだい」
――久しぶり? 一回も空に会ったことないじゃん。
腑に落ちないが、仕方なく「どうぞ」と朱音を招き入れると、後ろの二人も部屋に入った。
「あらあ、空君、久しぶりぃ~。大きくなったじゃない?」
ベビーベッドに寝転んでいる空を見て、朱音は白々しいぐらいにハイテンションで声をかけた。
――今まで一度もうちにも来たことなんかなかったのに。なんなの、一体。
「抱いていいかしら?」
また不自然な笑みを向ける。その目はまったく笑っていない。それどころか、「余計なことを言わないでよね」とばかりに、美羽の目を凝視している。
「えっ……はい、どうぞ」
朱音はぎこちない手で抱き上げた。抱き上げ方が乱暴なので、空は嫌がってむずがりだした。
「あらあら、どうしたのかしら? 今日はご機嫌斜めなの?」
「いえ、そういうわけじゃなくて」
美羽は慌てて朱音から空を受け取った。
「まあ、ママのところがいいのね、きっと」
「今着ているのも、先生のつくった服ですか?」
女性が美羽の腕の中を覗き込む。
「え? 先生が作った?」
美羽が首を傾げると、「それは違うの。私が作ってあげた服、今日は着せてないのかしら?」と、朱音は口調はソフトだが、目を剥いている。どうやら、話を合わせろと促しているらしい。
「あー、あの服は、前の時でしたよね? 6か月の時の。先週から、1歳児になったんで」
「1歳の子が着られるような服も、確か渡してあったでしょ? どこかにしまっちゃった?」
「はあ」
「悪いんだけど、探してきてもらえるかしら」
「えっと……ハイ、探してみます」
美羽は空をあやしながら寝室に向かった。寝室のドアを閉め、流に電話をかける。7回コールで流は電話に出た。
「もしもし」
「ねえ、お義母さんが来てるんだけど」
「へ? 何?」
「流のお母さんが来てるの、家に」
「えっ、なんで」
「分かんない。何か聞いてない?」
「いや、何も」
「なんか、空に会いに来たって言ってるんだけど」
「は? 空に? ありえない、ありえない」
「それに、一緒に来てる人達が、空が着てる服はお母さんが作った服なのかって聞いてきて」
「何それ、意味わかんない。ちょっと、こっちから母さんに電話してみる」
「お願いね」
空の瞳には涙が光っている。
「ビックリしたね、ごめんね」
空の額に自分の額を軽く押しつけた。
――今のでマイナスポイントになってないよね? 支援機構の人に何か言われたら、義理の母が急に来て、乱暴に抱き上げたって言わないと。
「ハイ、もしもし」
朱音が電話をしながら廊下に出たようだ。相手は流だろう。
「ちょっと近くに寄ったから、空君の顔を見たくなって」と言っているのが聞こえた。
寝室のドアを開けて顔を出すと、「連絡なしに急に来て悪かったわ」と話しながら、朱音は寝室に入ってきた。
「あの人達は、通電の人なのよ」
朱音はスピーカーに切り替えて流にも聞こえるようにした。通電とは、大手の広告会社だ。
「今、うちの会社はレンタルベイビーのグッズをつくる仕事を引き受けようとしてるの。ホラ、最近、レンタルベイビーの服を作ってインスタでアップしている人が多いんだって? それをビジネスにしようって話。うちは元々、ベビー服も作ってるからね。うちの会社に作りませんかって通電が話を持ってきたの」
「それで? 空に何か関係あるの?」
流は不機嫌そうな声で尋ねる。
「だからね、うちの息子のところがレンタルベイビーをしているって言ったら、『その子の洋服も作ってるんですか?』って聞かれて、勢いでそうだって言っちゃったのよ。そしたら、見てみたいって話になって。私もついノリで、『じゃあ、今から見に行きますか?』って言っちゃったのよ」
「訳わかんね。そんな、やってもいないことをノリで言える?」
「だって、何か実績が欲しいって言われたから」
流は深いため息をついた。
「相変わらず、ハッタリだけで生きてるよね」
「失礼ね、何よ」
「だって、うちには何もないんだよ? 空の服なんて1着も作ってないんだから、うちに連れてきても意味ないでしょ?」
「だからね、私より先に部下に服を届けてもらおうとしたのよ。ベビー服のサンプルはいくらでもあるから。でも、電車が事故で止まっちゃったらしくて、私の方が先に着いちゃったの」
「それならそれで、こっちに連絡くれればいいじゃん」
「だからね、あんたには何度も電話をかけたし、LINEも送ったけど、出なかったじゃない」
「ああ、今まで打ち合わせだったから。でも、それなら美羽に連絡すれば」
「だからね、この子の連絡先を、私知らないから」
――この子。
「だったら途中で引き返せばよかったじゃんよ。いきなり来て、訳わかんないこと言われたら、美羽も混乱するだろ?」
「だからね、この仕事は大事なのよ。国の補助金が下りるプロジェクトなの。ほかの会社にとられるわけにはいかないの」
「そんなこと知らないよ。話の論点をずらすなよ」
「あのー、先生?」
廊下から声がした。朱音は一瞬固まった。
「とにかく、美羽、そんなの相手にする必要は」
流が話している途中で電話を切ってしまった。
「もういいわ。あなたはここにいて。後は私がどうにか切り抜けるから」
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