第4章 ペアレンティング・ペンディング ⑦絆

 午前3時過ぎに手術は終わった。

 青い手術着の医師が手術室から出てきて、「手術は成功しました。容態は安定しています」と言ったので、美羽は全身の力が抜けた。流が抱き寄せてくれる。

 これからしばらくはICUで様子を見ること、経過が良好なら普通の病室に移ること、おそらく2か月ぐらいは入院することになるだろうと告げられる。

 ICUに移された萌は、たくさんの管につながれてベッドに横たわっていた。

「お母さん」と呼びかけてみたが、何も反応はない。

 ――ごめんね、早く気づいてあげられなくて。苦しかったよね。ごめんね。

 心の中で萌に語りかけ、そっと手を握る。

 その後、入院の手続きをして、病院を出たのは4時を過ぎていた。二人はタクシーで美羽の家に向かう。

 家に着いたら気が抜けて、美羽はソファに座り込んでしまった。

「ベッドで寝ようよ」

 流に促され、腕を引っ張られて3階に向かった。二人で美羽のベッドに横になった。

 久しぶりに間近で見る、流の顔。美羽はいろんな思いが込み上げてきて、また涙が出てきた。流は「大丈夫、大丈夫」と優しく抱きしめてくれる。流の胸に顔を埋めると、流の匂いがする。大好きな匂い。安心して、いつの間にか美羽は眠りにすとんと落ちた。

 8時過ぎに朝陽からの電話で起こされた。今羽田に着いたところで、こちらに寄らずに病院に直行すると言う。

 美羽は萌の店の対応が終わってから病院に行くことにした。

 寝不足なので食欲はないが、「何か口にしたほうがいいよ」と流がパンを焼き、コーヒーを淹れてくれた。

「流は、今日はどうするの?」

 聞くと、「さっき有休もらったから。今日はこっちを手伝うよ」と言ってくれた。美羽は食器を片づけている流の背中に抱きついた。

 萌と長年仕事をしている富田みどりに電話すると、ショックを受けた様子で、「とにかく店に行く」と言ってくれた。

 続けて水野に電話して事情を話すと、「分かった、こっちは何とかするから、しばらくお母さんについててあげなさい」と言われた。水野の母親は確か若くして亡くなっていた。美羽の状況を理解してくれたのだろう。

 美羽は1階の店に降り、電気をつけた。美羽が働いている青山のサロンは完全個室だが、ここは昔ながらの仕切りがないタイプだ。萌の母親の代からある美容院で、5台の椅子が並び、シャンプー台が3つある。今はすべての椅子が埋まることはめったにないが、子供のころからずっと利用してくれている近所の人は多い。

 美羽は子供のころ、美容院にいるのが好きだった。亡くなった父も美容師をしていて、萌と一緒に店に立っていた。父は美羽を邪険にすることはなく、美羽が店の片隅のテーブルで本を読んだり、宿題をしているのを温かく見守ってくれた。客も、美羽にお菓子をくれたり、声をかけてくれた。この空間が大好きだった。

 店内は古びているが、清潔感はある。鏡もピカピカに磨かれているので、萌が毎日丁寧に掃除しているのだろう。

 みどりはメイクをする間もなく、店に飛んできてくれた。流も交えて、今後のことを話し合う。

 今日は7人の客が入っているので、そこそこ忙しい。萌が担当の客が4人、みどりが3人。客に連絡をして延期してもらうこともできるが、萌がいつ退院できるか分からないので、みどりが担当したほうがいいだろう。

 みどりが一人でお得意様をすべて担当できるのか、今日はどう乗り切るのか。そんな話をしていると、ふと「萌さんは、ゆくゆくは美羽ちゃんにこの店を継いでもらいたいって考えてるんじゃないかな。言葉には出さないけどね。朝陽君は当てにならないみたいだし」とみどりは言った。

「うーん、今は青山のお店が楽しいし、そういうのは考えられなくて……」

「そうよね」

 みどりはそれ以上追及しなかった。

 結局、今日はみどりが7人を担当し、美羽がサポートとして入ることにした。萌の顧客は、みどりが当面担当することで、やっていこうという話になった。もし手伝いが必要なら、みどりが知人に声をかけてくれるらしい。

 朝陽にLINEでそれを伝えると、「了解。それじゃ、オレがお医者さんに今後の話を聞いてくるわ」と返って来た。

 10時の開店と同時に、萌が担当する予定だった客が来た。近所に住んでいる美羽の同級生の母親だ。

「あらあ、美羽ちゃん久しぶり。こっちに帰って来てるの?」

 屈託ない笑顔で挨拶してくれる。美羽が事情を話すと真剣な表情になり、「そうなの。それは大変だったわね。私はみどりさんでも全然構わないから」と言ってくれた。

 カットをしている最中も萌のことを気にかけて、「どこに入院してるの? お見舞いはいつ行けそう?」「萌さんにカットしてもらってるママ友が何人もいるから、その人たちにも知らせておくわね」と提案してくれる。美羽はありがたくて涙ぐんでしまった。

 美羽は髪を洗ったり、パーマのカーラーをまいたり、使ったタオルを回収したり、会計をしたり、アシスタント時代にしていたことを思い出しながら目まぐるしく働いた。流は客に飲み物をふるまったり、美羽とみどりのランチを用意してくれた。床に落ちた髪はお掃除ロボットが回収してくれる。

 朝陽は午後に家に着いた。

 萌の容態は安定しているものの、まだ意識は戻っていないので、実家に戻ったのだった。

 その日はあっという間に夜になり、美羽は朝陽と流とみどりと一緒に病院に向かった。ICUに入ると、昨日と変わらず、多くの管につながれた萌の姿が目に入った。

「萌さん……」

 みどりは絶句して涙ぐむ。

「お母さん、来たよ」

 美羽は萌の手を握った。

 早く目覚めてね、と念じながら。

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