第4章 ペアレンティング・ペンディング ⑤行き止まり
「うちの弟の大、覚えてる?」
「うん、3歳下だっけ。うちの朝陽と同級生だよね、確か」
「大のところはレンタルベイビーをやって、ずっとA判定だったんだって。大は『模範的な旦那さんだ』って支援機構の人からベタ褒めされたらしいよ。でもね、実際に子育てがはじまったらさ、レンタルベイビーとは全然違うことが起きるじゃない? 2時間も3時間もギャン泣きして、何が原因か全然分かんないこともあるし。おむつを替えてる途中でウンチをすることもあるし、何度も吐いちゃうこともあるし。全然お乳を飲まない時もあるしね。レンタルベイビーと違って途中でスリープできないから、それが24時間ずっと続くんだよね。それで、お嫁さんが追い詰められちゃったみたいで。『レンタルベイビーではあんなにうまくいったのに、どうしてできないんだ』って、大も責めちゃったみたいで。A判定だっただけに、リアルな子育ても完璧にできるって自信満々だったんだよね。そんなもんじゃないよって言ってあげたんだけど。で、お嫁さんはうつ病になっちゃって、今は子供つれて実家に帰ってる。今、離婚協議中だって」
「そうなんだ……あの大君が」
「だからね、レンタルベイビーって、ホント罪深いって思う。私みたいにいきなり産んじゃったら、あれこれ考えずに必死に育てるしかないんだよね。いっぱい失敗もするけど、失敗しながら覚える感じ。二人目、三人目になったら、ちょっとは上手になってきたかなーって思うけど。レンタルベイビーをちょっとだけ育てたからって、リアルとは違うんだよね。ホント、あの制度は意味がない。早くなくしちゃえばいいのにね」
翼の言っていることはもっともだ。でも、制度として決まっている以上、やるしかない。子供が欲しいなら、合格するしかないのだ。
いつの間にか、翼の腕の中で桜は寝息を立てている。翼は起こさないように抱きかかえて、ベビーベッドに寝かした。その様子を美羽はじっと見ていた。自分がずっと望んでいた光景が、そこにある。そう思うと、何かがこみあげてきそうだ。
翼は紅茶のお代わりを入れて、クッキーを勧めてくれた。
「私の友達で、海外に移住する人が何人かいるんだよね。日本ではもう子育て出来ないって。だからさ、結局、レンタルベイビーは少子化対策になってないんだよね。お金に余裕のある人は、海外に逃げ出しちゃうんだから」
翼はクッキーを食べながら話し続ける。美羽もクッキーかじったが、味はあまり感じなかった。
「美羽はさ、美容師の資格も取って、仕事をずっと続けたいんでしょ? だったら、流君には子育てを助けてもらうしかないでしょ。うちみたいに同居するのなら、何とかなるかもしれないけど」
「うちはお母さんがお店をやってるからね」
「そうだよね。じゃあ、シッターさんに面倒見てもらうか、保育園に入れるしかないよね」
「うん。それは考えてる。うちは時間が不規則だから、シッターさんを頼むしかないかなって」
「そっか」
しばらく、二人は無言でクッキーを頬張る。
「流に、子供が本当に欲しいかどうか分からないって言われた」
美羽がポツリと言うと、翼は「そっか……」とだけ返した。
その途端、美羽の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。涙を止める間もなかった。
「ごめん、泣くつもりじゃ」
「ううん、いいって」
翼はティッシュの箱を差し出した。
「一緒になってから、初めて分かることもあるよね。こんな人だったの? って私も何度も思ったよ。今はあの人、浮気してるみたいだし」
美羽は、「え?」と翼の顔を見た。翼はティーカップを両手で包み込むように持ち、うつろな目で紅茶の水面を見ている。
「私が子供にかかりっきりで、旦那の相手をしてあげられないからみたい。でも、そんなこと言われても、私だってさ、自分のことさえできない状態なのに。旦那が帰ってくるころには疲れ果てて眠いし。仕事のグチを聞かされても、ちゃんと聞いてあげられないのを冷たいって言われてもねえ。私だって、グチを言いたいぐらいなのに。なんでこんな人と結婚しちゃったんだろって、何度思ったことか」
話しながら、翼も涙ぐんでいる。
「うちも、この先、どうなるか分かんない」
しばらく二人は静かに泣いた。桜が起きないように、声を押し殺して――。
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