第4章 ペアレンティング・ペンディング ②衝突

「オレさ、転職することにした」

 その夜、眠る前に真剣な表情をした流に打ち明けられた。美羽は布団に入って、いつレンタルベイビーの3回目のことを切り出すか迷っていたので、一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「えっ……転職?」

 ――そういえば、会社が買収されそうで大変だって言ってたっけ。

 流は布団の上に座り、目を輝かせていた。

「じゃあ、転職活動をずっと続けてたんだ」

「そっ。先輩が立ち上げた会社に行くことにしたんだけど、社内の調整がいろいろ大変でさ。それで時間がかかったって言うか」

「先輩って?」

「オレが新人の頃にお世話になってた浅田先輩。オレらの結婚式のときの映像をつくってくれた先輩だよ。美羽のことも撮影してくれたじゃん」

「ああ、あの……」と言いながら、美羽はほとんど覚えていなかった。美羽は「そういうのはいい」と拒んだのに、流のまわりが盛り上がって、まるで格闘技の選手が入場するような派手な映像の演出に合わせて、披露宴の会場に入ることになったのだ。そのために休日返上で撮影しなければならなくて、美羽は眠くて眠くて、撮影の合間はほとんど眠っていた。

「じゃあ、また映像の会社に入るんだ」

「うん。絶対眠らない車のCMって、浅田先輩がつくってたんだよ。オレ、先輩に会いに行くまで知らなくてさ。眠くなったら、座席のシートが突然倒れたり、タイヤが外れちゃうヤツ。あれ、爆笑したよね。まさか先輩がつくってるとは思ってなくて。ああいう、面白動画を専門につくってる会社なんだ。今までは国や自治体のPR動画ばっかつくって、縛りが多かったけど、これからは自由につくれるんだよ」

 流は興奮気味に語る。こういう流を見るのは久しぶりだな、と美羽は思った。

 しかし、どうも一緒に喜ぶ気になれない。

「それで、お給料はどうなるの?」

「えっ、お給料? ああ、今までよりは安くなるよ。創業して3年目のベンチャーだし」

「どれぐらい安くなるの?」

 美羽の現実的な問いに、流の表情は次第に硬くなっていった。

「どれぐらいって……200万円ぐらい」

「えっ、200万円も? 大金じゃない。そんな大事なこと、どうして事前に相談してくれなかったの?」

 流はあきらかにムッとした。

「どうしてって、美羽は空にかかりきりだったじゃん。おむつを替えろ、替えろってうるさかったし。そんな状態で、こんな大事な話、話せるわけないじゃん」

「ずっとおむつを替えろって言ってたわけじゃないでしょ? ゲームをして遊んでたことも多かったじゃない。話す時間はいくらでもあったと思うんだけど」

 美羽の言葉に、流は気まずそうな表情になり、「もういいよ」とそっぽを向いてしまった。

「もういいって、何が」

「美羽って、いつもそうやって、オレが大事なことを話しているときに水を差すよね」

「えっ? それって、どういうときのこと?」

「どういうときって……」

 流は黙り込んでしまった。

「私、別に転職するのを止めてないよ? ただ、事前に相談してほしかったって言ってるだけじゃない。お金の話は二人の問題じゃないの? 子供を産んだら、お金かかるじゃない」

「そういうことを言われると思ったから、相談しなかったんだよ」

「そういうことって?」

「子供を産んだらお金がかかるとかさ。子供を育てるって前提になってるじゃん」

 流の言葉に、美羽は困惑した。

「えっ……どういうこと? 子供が欲しくないってこと?」

 流は、「しまった」という表情になった。

 しばらく耳をいじりながら、言おうかどうしようか迷っていたようだが、「オレ、分かんないんだよね、本当に子供が欲しいのかどうか」とポツリと言った。

「レンタルベイビーをやってみたら、ちょっとは気持ちが変わるかなって思ったんだけど。そんなにかわいいとは思えないし、世話をしたいとは思えないし。まあ、ロボット相手だからかもしれないけど。でも、リアルな子育てでもそんな感じだったら、ヤバイじゃん? だから、どうすればいいのか分かんないんだよね。オレ、子育てに向いてないかもしれない」

 流は布団に目を落として、淡々と語った。

「……そんなの初めて聞いた。どうして言ってくれなかったの?」

「だって、美羽は一生懸命空の面倒見てるからさ、言えないじゃん、そんなこと」

「そうじゃなくて。結婚する前にそんな話、したことなかったよね?」

「それは……自分の気持ちがよく分からなかったし」

「このマンション選ぶ時も、将来子供が産まれた時のことを考えて、広めの間取りを選ぼうって言ってたじゃない」

「まあ、そうだけど……そこまで実感わいてなかったって言うか」

「私、その言葉を聞いて、流は子供が欲しいんだって思ったんだよ? 今さら、欲しくないかもって言われても、そんな、そんなさあ」

 美羽はそれ以上、何を言えばいいのか分からなくなった。目の前にいる流が、自分の知っている流とは別人のように思える。

「もしかして、美羽は子供が欲しいから、オレと一緒になったってこと?」

 流はかすれた声で聞いた。

「それだけじゃないけど……でも、二人の子供は欲しいって思ってるよ」

「じゃあ、オレが子供は欲しくないって言ってたら、結婚しなかったってこと?」

 美羽はしばらく考えこんだ。

「……そうかもしれない」

「そうかあ」

 流は大きなため息をついた。

「オレは、美羽と一緒にいたかったから、結婚したんだけど」

「私だってそうだよ。でも、いつまでも二人きりって思わなかった。だって、この先もずっと二人きりってことでしょ? 老後もずっと」

「オレも、そこまで考えてないけど」

「じゃあ、どういうこと? 今は欲しくないけど、将来は欲しくなるかもってこと?」

「そうかもしれないっていうか……もう少し、二人だけでいいじゃん。子供持つのは、30代の後半でよくない?」

 美羽は思わず天を仰いだ。

「年々出産できる確率は減っていくんだよ?」

「でも、うちのおふくろも、結婚したのは30代後半だし。何とかなるんじゃないの?」

「何とかって……」

 美羽は全身の力が抜けるのを感じた。反論する気にもなれない。

「じゃあ、それまで子供をつくるのは待ってってことなの?」 

「うーん、まあ、ねえ」

 流は煮え切らない態度なので、美羽は睨みつけた。

「それじゃあ、今レンタルベイビーをやっても、何の意味もないじゃん。レンタルベイビーで合格しても、5年以内に赤ちゃんを産まなかったら、出産認定証は無効になるんだよ? それに、30代後半で出産する場合は、認定証をもらえる確率は低くなるみたいだよ。高齢出産は赤ちゃんのリスクも高くなるから、出産を認められない場合もあるって……その時になって産めないってなったら、どうするの?」

「そんなの、オレに聞かれても分かんないよ」

 美羽は枕を投げつけたくなるのを、何とか堪えた。

「……なんっにも考えてないんだね、流は」

 美羽は自分でも驚くぐらいの低い声が出た。手が震えて、「怒りに震えるっていうのは、こういうことか」と、頭の隅でチラリと思った。

「美羽だって、自分のことしか考えてないじゃん」

「それは流だってそうでしょ!?」

 美羽は声を荒げた。流は顔をしかめる。

「ホラ、そうやってすぐピリピリするんだから。オレ、そういうの、やなんだよね」

「子供を欲しくないなんて大事なこと、何にも言ってくれなかったのを怒るのって、そんなにおかしい? それって、結婚前にする大切な話じゃないの? レンタルベイビーをしたいって言った時も、そこまで言わなかったじゃない。それなのにさ、今になって急に、そんなこと言い出すなんて」

 流を責めながら、段々涙声になっていった。

「もう、泣くなって」

 流はうんざりしたように言った。美羽は思わず枕を投げつけてしまった。

「私だって、泣きたくないよっ!」

 その後は言葉にならず、美羽は声をあげて泣いた。流は言葉をかけることもなく、寝室から出て行った。

 ――ホラ、また逃げた。ああ、もう、ダメなのかも私達。期待しないほうがいいって言われても、ムリだよ。そんなレベルの話じゃないよ。

 美羽は布団に顔を埋めて、涙が枯れるまで泣いた。

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