第3章 ペアレンティング・クライシス ⑧2回目の判定
空はようやく離乳食に慣れてきて、1日1回は口にするようになった。寝返りも打てるようになったので、おむつを替えている時に油断していると、おむつをつけないまま転がってしまう。
美羽が、「見て見て、空が寝返りを打ったよ!」と報告しても、流は「へえ」と聞き流すだけだ。衝突した日以来、まともに会話を交わしていない。
「話し合おうよ」と美羽が言っても、流は生返事しか返さないのだ。そのうえ、空とも全然遊ばなくなってしまった。
――私に対するあてつけなのか、空に全然興味がなくなったのか、どっちなんだろう。
美羽は、思いきって掲示板で流の行動について相談してみた。
「もうすぐ2回目が終わるのに、このままじゃ不合格になるかもしれません。どうすれば協力してもらえるんでしょう」と書き込むと、「旦那さん、不合格を狙って協力しないんじゃない?」というメッセージが返って来た。
美羽はドキリとした。流の態度を見ていると、それもあり得るかもしれない、という気がしてきたのだ。
さらに、「もう一度旦那さんと話し合ってみたら? 不合格になったら子供をつくれないんだよ、それでも本当にいいの? って聞いてみるとか。それでもいいって言うのなら、離婚を考えるしかないかも」「1回だけでもおむつを替えてほしいってお願いしてみたら? そうしたら不合格にはならないんじゃないかな」といったアドバイスが次々と書き込まれた。
その日の夜、流が帰って来たのは12時を過ぎていた。美羽は仕事で疲れているので眠かったが、何とか起きて待っていた。
寝室に入ってきた流に、「お帰り。ちょっと話がしたいんだけど」と声をかけると、「なんだ、まだ起きてたんだ」と驚かれた。お酒臭い。会社の人と飲んできたのだろう。
「ねえ、1回だけでいいから、おむつを替えてくれないかな」
美羽がお願いすると、流はうんざりした表情で、「またその話? 勘弁してよ」と言った。
「1回だけでもおむつを替えたら、合格できると思うんだ。ウンチが嫌なら、おしっこの時でいいから。私が替え方を教えるから」
「そんな話、明日にしてよ」
流は話を聞き流して、シャワーを浴びに行こうとした。
「そんなに余裕はないの。3日後には空を返さないといけないんだから」と、美羽は食い下がる。
「オレ、疲れてるんだけど」
「私も疲れてるよ? 今日も仕事があったし、空のお世話でも疲れてるし。明日も仕事はあるんだよ? でも、眠くても頑張って起きて流を待ってたんだから」
流は大げさにため息をついてから、「分かった。替えればいいんでしょ?」と着替えをベッドに放り出すと、ベビーベッドで眠っている空の服を脱がせ始めた。
「ちょっ……なにやってんの!?」
美羽が制止しようとしたが、流は聞かない。どうやら酔っぱらっているようだ。おむつを乱暴にぬがせて、そばに置いてあるカゴから新しい紙おむつをとって、お尻にあてた。空は「んっ、んっ」と低く唸ってから、火がついたように泣き出した。
「空が起きちゃったじゃん」
美羽が抱き起そうとすると、流は押し返した。今まで流に乱暴なマネをされたことはなかったので、それだけで美羽はショックで動けなくなってしまった。
流は無表情のまま紙おむつをつけようとするが、空が暴れながら泣くので、なかなかうまくいかない。舌打ちをすると、適当におむつのテープを留めた。
「ハイ、替えた」
今までしていたおむつを床に放り出し、立ち上がる。
「……そんなことしても意味ないじゃん。濡れてないんだから」
「知らね。オレ、シャワー浴びてくるわ」
流はあくびをしながら寝室を出て行ってしまった。
美羽は慌てて空を抱き起こした。今まで聞いたことのないような泣き方をしている。美羽は一瞬、虐待認定されてスイッチが切られてしまうのではないかと思った。
「ゴメンね、空。怖かったよね、ごめんね」
何度謝りながらあやしても、空はなかなか泣き止まない。あやしながら涙が出てきた。
――私、なんであんな人と一緒になったんだろ。
美羽は空を抱きしめるしかなかった。ジワジワと黒い感情が広がっていく。
「残念ながら、今回もCです」
最終日、いつもの業者の女性は気の毒そうに報告してくれた。男性は、相変わらず無言のままレンタルした荷物を片付けている。
流とは強引におむつを替えた翌日から話していない。今日も美羽が起きる前に家を出てしまった。
「今回もご主人が問題で……」
「そうですよね、やっぱり」
美羽はため息をついた。
「3日前の夜に強引におむつを替えたのは、まずかったですね。あれは支援機構でもちょっと問題になりまして……。お酒に酔っていて、今回は初めてだったから様子を見ようということになったんですけど、次にああいう問題行動があると、ペアレンティングを中断していただくことになるかもしれません。今回は、空君と一緒に遊んでいることも多かったから、ギリギリでC判定になりました」
「私も止めようとしたんですけれど……」
「そうですよね。今回はおむつを替えただけだったからよかったんですけど、もしそれ以上のことをしていたら――たとえば叩くとか、それでも庇っていなかったら、奥様も減点されていたと思います」
美羽はうなだれるしかなかった。
――どうして、あの時、流をムリにでも止めなかったんだろう。私が流を突き飛ばせばよかったんだ。
「最後のレンタルベイビーでもC判定になったら……もちろん、Dでなければ合格できるんですが、定期的にご主人には講習会を受けてもらうことになります。支援機構の担当者がご自宅に様子を伺いに来ることもありますし。そうなると時間を取られますので、最後は頑張っていただいたほうがよろしいかと」
「ハイ……そうですよね……」
美羽が落胆していると、女性は励ますように、「奥様は頑張ってらっしゃるので、評価は高いんですよ。ほとんどすべてがAですから。散歩にもよく連れて行かれてますよね。あれは支援機構でもいい行動だって評価されていました」
「ハイ、なるべく毎朝、散歩に行くようにしてたんです」
「働きながらそういう時間をつくるのは大変でしょう。そういう積極的な触れ合いが子育てでは大事なんだと思います」
女性は優しく微笑んだ。
「最後はご夫婦でよく話し合ってから、いつからスタートされるか決めることをお勧めします」
それはつまり、ここで止めるという選択肢も考えろということだな、と美羽は感じた。
空を手渡すのはやはりつらくて、美羽はしばらく抱きしめていた。
「最後までC判定だったご夫婦でも、本当の子育てが始まってから、それまでとは打って変わったように子育てに積極的になるケースもよくありますよ。なんだかんだいっても、レンタルベイビーは子育てのシミュレーションですから。実際の子育てになると、急に愛情がわいてくる方も多いんです、男性でも、女性でも。だから、レンタルベイビーの結果がすべてではないということはお伝えしておきますね」
女性は美羽を不憫に思ったのか、最後に慰めの言葉をかけてくれた。
空が去った後、リビングに戻ると、家の中ががらんとして見えた。
ベビーベッドもないし、空のはしゃぐ声も泣く声も聞こえない。
ソファには、空のために思わず買ってしまったよだれかけが置いてある。そのよだれかけは青い縁取りがしてあり、雲の刺繍がかわいくて、買い足す必要はないと分かっていながらも買ってしまったのだ。美羽はそのよだれかけを握りしめた。
――今、私は一人ぼっちだ。空がいなくなったら、私は家の中で誰も味方がいなくなるんだ。
「寂しい……」
ポツリとつぶやく。空に、また会える日が来るのだろうか。
窓から、さわやかな風が吹きこんでくる。まだ暑い日もあるが、暦の上ではもう秋だ。金木犀の甘い香りが、風に乗って運ばれて、美羽を優しく包んだ。
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