第3章 ペアレンティング・クライシス ⑤思い詰める、思い悩む
門を出て、せっかくだからマンションの敷地内を散策することにした。空は機嫌がいいらしく、「あー」「ぴうぴう」と声を上げている。
空は青く澄み渡り、海風の中にそろそろ秋の気配を感じる。
――こんな風に散歩するなんて、何年振りだろう。
空に「気持ちいいねえ」と声をかけながら、遊歩道をゆっくり歩いた。
ふと、遊歩道の脇のベンチに先ほどの女性が座っていることに気付いた。女性は疲れきった表情でまゆを抱っこしている。
気づかないフリをして通り過ぎようかと思ったが、女性が泣きそうな表情をしているので、さすがに気の毒になった。女性がこちらを見たので、美羽は軽く頭を下げた。
「さっきは、どうも」
「ああ……、私、あの人達が苦手で……」
「なんか、レンタルベイビー警察って呼ばれてるらしいですね」
「私も顔を合わせるたびにいろいろ言われました。でも、あの人達の情報ってもう古くなっていることが多くて、あんまり参考にならないんですよね」
美羽は空を抱き上げると、まゆに向かって、「ホラ、空、お友達だよ」と顔を向けさせた。まゆは眠っているのか、こちらを見ない。
「そういえば、さっきのママ友を3人つくるって話、ホントじゃないみたいですよ」
「そうなんですか? ネットでも、そんなのウソだって言っている人もいれば、ホントかどうか分からないからやってみるって人もいて。どっちの意見を信じればいいのか、分かんなくて」
女性は唇を噛んで俯いた。
「離乳食、食べました?」
美羽は女性の隣に腰を掛けて、話題を変えた。
「なんとか。今は、毎日1回は食べてくれるようになって」
「いいなあ。うちも格闘してるんですけれど、まだですよ」
「ベイビーによって、すぐに食べてくれる子もいれば、全然食べない子もいるらしいですよ。設定がバラバラみたいで」
「そうみたいですね。ベイビーを返す前日に、やっと食べた子もいるみたいだし」
「まゆはまだタッチができなくて」
女性はため息をついた。
「立たないまま終わったら、また不合格になるかも……」
「えっ、そんなことはないんじゃないですか? レンタルベイビーの設定でそうなっているのかもしれないし」
「そうだけど……何度立たせようとしても、転がっちゃって、頭を打ってギャン泣きするし」
「ムリにしなくていいって、講習会で言ってましたけど……」
「そうだけど、やっぱり、ちゃんとできるようになって合格したいじゃないですか。私、次はA取りたいんで」
――やっぱり、この人とは、あんまり仲良くしないほうがいいような気がする。
空はまゆに手を伸ばしたが、女性はそっとまゆを遠ざけた。眠っているのを邪魔されたくないのかもしれない。
「じゃあ、これで」と美羽が立ち上がりかけると、「そういえば、知り合いに公務員か官僚はいます? 政治家とか」と、急に真顔で聞かれた。
美羽は戸惑いながら、「いえ、いませんけど……」と答える。
「そうですか。お役人や政治家は、あまり泣かないベイビーを借りられるらしいですよ」
「えっ、そうなんですか? そんなの初耳」
「コミュニティで話題になってるんですよ。知り合いの官僚の家のレンタルベイビーは全然泣かなくて、ビックリしたっていう人がいて。特別仕様になってるんじゃないかってみんなで言ってるんです。簡単に合格できるみたいだし。親戚にそういう人がいたら、うちもお願いしようかと思って。今、あちこちで聞いて回ってるんです」
――そこまでしなくても、1歳児になったら泣く回数は減るはずなのに。
美羽は言いかけてやめた。おそらく聞く耳は持たないだろう。
美羽は空をベビーカーに乗せると、「ごめんなさい、お昼の時間だから、そろそろ帰らないと」と会釈した。
「もし、知り合いでお役人や政治家とつきあいのある人がいたら、紹介してもらえませんか?」
「うーん、私のまわりにそういう人はいないです」
「もしいたら、教えてください。私、3号棟の神田林です」
――いやいやいや、私、あなたのこと何も知らないのに、頼まれても困るから。もし知り合いにそういう人がいても、あなたの頼みを伝えたりしないから。
美羽は何も答えずに、急いでその場を立ち去った。一度だけそっと後ろを振り返ると、その女性はじっとこちらを見ていた。美羽が何号棟に住んでいるのか、チェックしているのかもしれない。美羽はいったんマンションの敷地の外に出ることにした。
――イヤ~、怖い怖い。あんな風に追い詰められてる人もいるんだあ。もうあの公園は行かないことにしよ。変なことに巻き込まれそう。
ふと、美羽は先ほど女性が「また不合格になるかも」と言っていたのを思い出した。
――そっか。不合格になったから、焦ってるのか……。かわいそうだけど、関わらないほうがよさそう。
美羽は30分ほど時間をつぶしてから家に戻った。空は外出している最中は大泣きしなかったが、外にいる時間が長かったせいか、その日の夕方は熱を出して、大騒ぎすることになった。
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