第3章 ペアレンティング・クライシス ③公園デビュー
休みの日、美羽は空と初めて外出することにした。
哺乳瓶や替えのおむつをビニールバッグに詰めてスタンバイする。空にボーダーの長袖のシャツを着せ、緑色のスウェットをはかせてベビーカーに乗せると、どこからどう見ても本物の赤ちゃんにしか見えない。ベージュ色の綿の帽子を頭にかぶせて、「オシャレさんだね」と美羽は微笑みかけた。空もご機嫌な様子で、歌を歌うように「あーあ」「だーだ」と声を発している。
エレベーターで一緒になった初老の女性が、「あら、かわいい。男の子? 何カ月?」と聞いてきたので、少し迷ったが「6か月です」と答えた。
「そう。動き回って大変な時期でしょ」
「はい」
「男の子は元気だからねえ」
女性はベビーカーに顔を寄せ、空に「こんにちは。お母さんとお出かけ、いいねえ」と話しかけている。今さら「レンタルベイビーです」と言えなくて、美羽は愛想笑いで濁した。
エレベーターを降りると、「バイバ~イ」と女性は空に手を振ってくれる。美羽は会釈をして、足早にその場を去った。
マンションの敷地の端に公園はあった。その一帯は防音壁で覆われ、中が見えないようになっている。ポップな色の絵が壁一面に描いてあるのは、無味乾燥にならないようにするための配慮だろう。
今は子供が遊ぶ公園と高齢者がゲートボールをする公園とに分かれていて、子供用の公園は不審者が入ってこないように高い壁で囲まれいるのだ。登録制になっているので、公園に入るには事前に予約して、門でスマフォをかざしてカギを解除する仕組みになっている。
昔は、公園は誰でも使っていいと開放されていたが、平成が終わるころから公園の使い方を巡ってトラブルが起きるようになったらしい。近所の人が、「公園で大声を上げるな」「サッカーや野球をするな」と文句をつけるので、禁止事項がどんどん増えていったという話を聞いた。
公園の遊具も事故が起きるたびに撤去されて、今は低い滑り台や鉄棒、ブランコや無菌の砂を使った砂場ぐらいしかない。昔は木登りという遊びもあったようだが、今の公園は危険だからと背の低い木や花しか植えていない。美羽が子供のころは公園に行ってもつまらないので、もっぱら家でゲームをして遊んだ。
レンタルベイビーは、最低でも3回は公園に遊びに行くというプログラムが設定されている。そこで他のママ友とコミュニケーションをとるのが目的らしい。
――どんな人がいるんだろう。
少し緊張しながら入ると、思ったよりも広く、母親と子供達があちこちで遊んでいた。子供の年齢はバラバラで、5歳ぐらいの大きな子もいれば、よちよち歩きの幼児もいる。数人の子供は鬼ごっこをして遊んでいた。
近くにいた母親達の視線が、一斉に美羽に集まる。
「こここんにちは……」
蚊の鳴くような声で挨拶をして、美羽は隅にあるベンチに向かった。
公園内は一面の芝生で、遊具は鉄棒と滑り台、ブランコと砂場、動物の形をしたスプリング遊具があった。見慣れない遊具がいくつかある。
美羽は空を抱き上げてベンチに座る。
――講習会では、公園でみんなに話しかけましょうって言われたけど……私はレンタルベイビーだけど、みんな本物の子供だし。何を話せばいいって言うの?
空がむずかりはじめた。初めて外に出たので、興奮しているのかもしれない。
美羽があやしていると、「こんにちはあ。何か月ですかあ?」と、赤ちゃんを抱いた女性が話しかけてきた。その女性は、「ニコニコ」という擬音が聞こえそうなぐらい、不自然な笑顔を浮かべている。
「こんにちは。あの、この子、レンタルベイビーで……」
「えっ、そうなんですかあ。うちの子もレンタルベイビーなんですよお」
やけにわざとらしい話し方をする。コミュニケーション関係のセミナーで、ロールプレイをしているみたいだと美羽は思った。
女性は美羽の隣に座りこんだ。赤ちゃん同士の目が合って、空も気になるのか泣き止んだ。
「男の子ですよねえ。何て名前ですかあ?」
「空、です」
「ええ~、いい名前ぇ。うちの子はまゆって言うんですぅ」
「へえ、まゆちゃん。かわいい名前ですね」
「ありがとうございますぅ。うちの子は1歳児なんですよぉ」
どのようなテンションで話せばいいのか分からず、戸惑っていると、「ホ~ラ、まゆちゃん、空君だよお。お友達だねえ、仲良くしてねって」と、女性はまゆに話しかけている。
「このマンションに住んでるんですかあ?」
「ええ、まあ」
「何号棟ですかあ」
いきなり根掘り葉掘り聞かれて、さすがに美羽は言いよどんだ。別のベンチに移動しようかと思った時、「あ、ごめんなさい、いきなりいろいろ聞いちゃって。ママ友を最低3人つくらないと合格できないって、ネットで読んで」と、普通の話し方で女性は詫びた。
「えっ、ママ友3人って、何ですかそれ。初めて聞きました」
「ホントですか? 私のいるコミュニティではそれが話題になってるんですよ。前は5人じゃないとダメだったとか」
「えー、そうなんですか?」
ママ友をつくらないといけないと必死になっているからか、その女性は変な話し方になっていたようだ。
空はまゆが気になるようで、「あー」「だー」と言いながら、手足をばたつかせている。まゆに触りたいのだろう。まゆはこちらを見ていても、何も言わないし動かない。
「女の子はおとなしいんですねえ」
「ええ、まあ……」
普通に会話をしていた時、「こんにちは~。レンタルベイビーですか?」と、3人組の母親が話しかけてきた。
「ハイ、そうなんです」
「や~、懐かし~」
「私がレンタルしたの、もう5年も前だよ」
「私なんて、10年。上の子はもう9歳だもん」
「そっかあ。初期の頃だね」
3人は、空を「うわ、あの頃よりリアルにできてる」「より本物っぽいね」と興味津々で覗き込んでいる。空は自分に視線が集まっていることを感じ取ったのか、驚いたように3人を見上げている。
「この子、6か月ですよね」
「ええ、そうです」
「今日が公園デビューですか?」
「そうなんです。初めて外出して……」
美羽は答えながら、3人が隣の女性を完全にスルーしていることに気付いた。女性は気まずそうな表情になり、「私、これで」と立ち上がって足早に公園から出ていった。
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