第2章 ペアレンティング・スタート ⑦子育てのリアル

 定休日の日、美羽は空が眠っている間に学生時代の友人の立花結衣にスカイプした。


「――もしもし?」 


 10回目のコールで、結衣はスカイプに出た。腕には赤ん坊を抱えて、背後で子供が駆け回る音が聞こえてくる。


「ごめん、忙しかった?」


「うん、スカイプくれるなら、先にLINEで連絡欲しかった」


「ゴメン。かけ直す」


 美羽が切ろうとすると、「今はチビが寝たところだからいいけど……何?」と、結衣はぶっきらぼうに聞いた。


 チビというのは、生後8か月になる長男のことだろう。確か、さそり座だからさそりという名前をつけたのだと聞いた。ちなみに長女は乙女ちゃんだ。


 久しぶりのスカイプなのに、結衣はニコリともしない。美羽は少し動揺しながら、「たいしたことじゃないんだけど……あのね、私、レンタルベイビーを借りたんだ」と言った。


「へえ、そうなんだ。やっと赤ちゃんを産む気になったの?」


 ――やっと?

 ちょっと引っかかったが、聞き流した。


「私はずっと産みたかったんだけど。流はそんなに乗り気って感じじゃないんだよね。だから、とりあえずレンタルベイビーだけでも借りてみようよって言ったら、渋々いいよって言ったって感じ」


「ふうん。まあ、うちの大和も最初は面倒だから嫌だって言ってたよ。でも、レンタルベイビーを借りてみたら、急に面白くなったみたい。子育てサイトを読んで、あれこれ言うから、ウザいなって感じだけど」


「いいなあ。レンタルベイビーを借りてまだ一週間ぐらいだけど、流は何もしてくれないよ」


「ああ~、そういう旦那さん、多いみたいね。そういう人対象のセミナーも、最近やってるでしょ?」


「そうなんだけど。今からでも参加したらって言っても、嫌がるんだよね」


 走り回る音が止み、「こらっ、そのお菓子は食べちゃダメ!」と結衣は背後に向かって叱りつけた。


「ごめん、忙しいよね」


「ううん、大丈夫。おとちゃんは食いしん坊だから、ちょっと目を離すといろんなものを食べちゃうの」


「いいなあ、私も早くレンタルベイビーを終えて、本物の赤ちゃんを産みたい」


 美羽が本音を言うと、「でも、本当の子育てのほうが、レンタルベイビーより何十倍も何百倍も大変だよ?」と結衣は言った。


「なんか私のまわりでも、レンタルベイビーを育てたぐらいで子育てできる気になってる子が結構いるんだけど、あんな短期間でちょっと体験したぐらいじゃ、あんま意味ないんだよね。だって、本当の子育ては365日しなくちゃだし、子供が巣立つまで終わりはないんだから。軽く考えないほうがいいよ」


 結衣は明らかに上から目線になっているので、美羽は内心驚いていた。思わず、「どうしたの? 性格悪くなってるよ」と言いたくなるのをグッと堪えた。 


「軽く考えてるわけじゃないけど……」と美羽が反論すると、言い過ぎたと思ったのか、結衣は気まずい表情になった。そして、「こら、そっちもダメ!」と立ち上がって画面から消えた。しばらく待っていると、「ったく、もう」とつぶやきながら結衣はソファに座った。奥から泣き声が聞こえる。


「ごめん、もう切るね」


「ううん、大丈夫。お菓子を取り上げただけだから。今日はベビーシッターさんが休んじゃったから、私が全部しなくちゃいけなくて」


 とげとげしい声。結衣は完全に苛立っている。


「何か用があったんじゃないの?」


「うん、大和君は子育てに協力的だって聞いたから、流にアドバイスをしてもらおうかなって思って」


「だったら、大和が帰ってきたら言っとくわ」


「うん、ありがと」


 結衣は自分の態度をちょっと申し訳なく思ったのか、「レンタルベイビーも最初は大変でしょ? 泣きっぱなしで眠ってくれないし」と話を振った。


「うん。着いた日に、業者の人が帰ったとたんに泣き出して、泣き止まなかったからどうしようってパニクッたよ。そうしたら、業者の人が戻ってきて哺乳瓶のスイッチを入れるって教えてくれたから、助かったんだ」


「ああ、あれね、そういう決まりになってるみたいよ」


「え? 決まり?」


「うん。業者の人が帰ってから泣き止まないってクレームが30分以内に殺到するから、業者の人が一度様子を見に行くのもマニュアル化されてるんだって。うちのいとこがレンタルベイビーの業者に勤めてるから、教えてくれた」


「なんだ。ホントに伝え忘れてたってわけじゃなかったんだ」


「そ。それに、30分以内に泣き止まないと減点になるって言うのもウソだし」


「えっ、そうなの!?」


「そうだよ。初期のころはそういう設定になってたらしいんだけど、本物の赤ちゃんはどんなにあやしても、1、2時間泣き続けることがあるからね。逆に30分で泣き止むものなんだって誤解する人が多いから、今は減点にしてないはずだよ。ただ、30分過ぎても泣き止まないと親の方が疲れちゃうから、徐々に泣き止む設定にしてあるみたい」


「そうなんだ……。じゃあ、あやし方が下手だから泣き止まないとか」


「そんなの関係ないんじゃない? だって、あのプログラムを考えてるのって、50代や60代のおじさんみたいだよ。プログラムを作ってるのは若者だけど、おじさん達があれこれ横槍入れて、なんか全然使えないプログラムになってるんだって。その年代の人達、結婚してない人が多いじゃない? その人達が若いころに結婚したくないし、子供も欲しくないって人が増えて、少子化が一気に進んだって聞いたことあるし」


 結衣は泣いている娘に構うことなく、早口で話し続ける。顔色が悪く、肌も荒れているようなので、相当疲れがたまっているのだろう。目鼻立ちがくっきりしている結衣はファッションのセンスもよく、専門学校に通っていたころ、一緒に原宿を歩いているとよくモデルにスカウトされていた。実際に、ウェブのファッションサイトのモデルもしばらくしていた。夫の大和はその時に出会ったスタイリストだ。


 その結衣が、今は髪をいつ切ったのか分からないぐらい乱れた髪型で、襟口が伸びたTシャツを着ているのだ。その変わりように、美羽は軽く衝撃を受けていた。


「その人達、子育て経験がゼロで、何も知らないみたいなんだよね。だから、私がレンタルベイビーを借りたころも、変な設定がいっぱいあったんだよ。布おむつを使うっていうのもあって」


「は!? 布おむつを使う?」


「何年か前に『子育ては布おむつでしなさい』っていう電子書籍がちょっと話題になったんだよね。そのほうが赤ちゃんのアレルギーがなくなるとか、コミュニケーション取れるとか、言われてて」


「そういえば、講習会受けに行ったとき、布おむつをさせるべきだってやたらと言ってたおばさんがいたよ。布おむつって、1回ごとに捨てるの?」


「違うの。洗うんだよ」


「えーーーーー! 何それ。ウンチがついたおむつを洗うの? あり得ない、あり得ない!」


「でしょ。それをやらされたんだよ。特殊な布を使ってて、すんごいリアルなウンチがついたおむつを洗わなきゃいけなくて……あれは泣いた。でも、クレームが殺到して、一カ月で中止になったみたい」


「そりゃそうだよねえ」


「開発費が相当ムダになったって。それも税金でやってるから、税金のムダ遣いだって、ネットでも騒がれてたよ」


「へえ、全然知らなかった……」


「そんな変な設定ばっかだったから、実際の子育てにもそんなに役に立たなかったんだよね。ただ、赤ちゃんがなかなか泣き止まないっていうのは経験しといたほうがいいかもしれないけど……あ、くちゃい。やったな」


 結衣は腕の中の息子に顔を寄せて、臭いを嗅いだ。


「ごめん、おむつ替えないと。大和には話しとくね」


「うん、忙しいのにごめんね、ありがとう」


 スカイプを切り、美羽はソファに寝転がった。


 ――なんか、結衣、かなりやつれてて余裕がなかったな。二人も子育てするのは大変で疲れてるのかもしれないけど。トゲトゲしてて嫌な感じだった。


 美羽は段々気が重くなってきた。


 ――レンタルベイビーは借りている間だけ大変だけど、本当の子育てはずっと大変なのが続くんだよね。分かってるんだけど。ああいうのを見ると、怖くなっちゃうな。


 空がぐずり出した。


「ハイハイ、起きたかな?」


 美羽はベビーベッドを覗きこんだ。


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