第2章 ペアレンティング・スタート ④前途多難なスタート

「もしもし、終点ですよ」


 ふいに肩を軽く叩かれて、美羽は目を覚ました。見知らぬ老婆が顔を覗きこんでいる。


「浅草に着いたけれど、降りなくていいのかしら?」


「浅草?」


 自分は今電車に乗っていることを、ようやく思い出した。寝ぼけ眼で駅の表示を確認する。


「浅草」と書いてあるのを見て、「何で私、浅草にいるんだろう?」と数秒間考える。すぐに、「えっ、浅草!?」と立ち上がった。渋谷から乗って、たった一駅の間に爆睡してしまったのだ。


 電車から降りかけて、「あ、折り返しだから、そのまま乗っていればいいのか」とそのまま留まった。


「レンタルベイビーを借りてるの? 大変でしょ」


 老婆は美羽が握りしめているレンタルベイビーのマニュアルを見て、事情を察したようだ。


「あ、ハイ」


 美羽は老婆の隣に腰を下ろす。シルバーグレーの髪はきちんと整えられ、スミレ色の上品な色合いのワンピースを着ている。


「うちの孫も一年前に借りて、ボロボロになってたわよ。あんな予行演習みたいなことしないで、普通に出産できればいいのにね。二度子供を産むようなものだからねえ」


「そうですよね」


 ――本当にそうだ。赤ちゃんを産んでいないのに、こんな大変な思いをしなくちゃいけないなんて、おかしいよね。二回大変な思いをしなくちゃいけないんだから。


 しばらく老婆と話していると、スマフォが振動した。見ると、香奈からだ。


「もしもし」


 小声で出ると、「今、どこにいるの? 斎藤さん、もう来てるよ」と香奈も小声で言った。


 腕時計を見ると、すでに10時00分を過ぎていた。


 ――うわ、やばっ。完全に遅刻だ!

 美羽は小声で寝過ごして終点まで行ってしまったことを伝えて、「適当に誤魔化しておいてくれると助かる」と言うと、「分かった。具合が悪くて遅れてるって伝えておく」と香奈はすぐに理解してくれた。


 電話を切り、ため息をつく。


 ――届いた翌日からやらかしちゃうなんて。あーあ。


 老婆は銀座で降りていった。起こしてくれたお礼を言うと、「いいのよ、レンタルベイビーの子育て、頑張ってね」と優しく微笑んでくれた。最後に、窓ガラス越しに会釈した。


 朝から流とぶつかったので、人の優しさに触れて、美羽は少し救われた気分になった。


 夜中に3時間おきぐらいに空は夜泣きしたので、流は「うるさいなあ」とリビングに行ってしまった。ソファで眠ったようだ。


 朝、目覚ましをかけていたのにベルにまったく気付かずに寝ていると、流に揺り起こされた。


「もう朝だよ。後、ベイビーもさっきからずっと泣いてるよ」


 流は既に着替えている。


 寝ぼけ眼で空をあやしながら時計を見ると、8時を回っている。9時には家を出ないといけないので、そんなにゆっくりはしていられない。おむつが濡れていたので、急いで替える。朝からうんちの臭いをかぐのは、作り物とはいえげんなりした。


 泣き止んだので抱っこしてリビングに行くと、食卓の上には何も載っていなかった。


「えっ、朝ご飯は?」


 美羽が驚くと、「今日は美羽が作る番だろ? 起きないから、俺は適当に食べたけど」と流は不機嫌そうに言う。


「私の番って……私、一晩中、空をあやしてたんだよ? 寝不足で疲れてるの分かってるよね? 代わりに朝ご飯、作ってくれてもよくない?」


「オレだって、何回も泣き声で起こされて寝不足だよ」


「でも、流はあやしてないじゃない」


「そうだけど。起こされたのは同じだから。俺も眠いの」


 美羽の心の中で、何かがプチンと音を立てた。


「ねえ、昨日から、全然、面倒を見ようとしないよね。全部私がやれってこと? 自分は何もしないつもり?」


 美羽の剣幕に、流はムッとした表情になった。


「だって、あらかじめそう言っといたじゃん。忙しいから、そんなに協力できないって」


「家に帰って来てから仕事してるわけじゃないでしょ。何が忙しいの?」


 流は黙り込んだ。


「空の面倒を見られないなら、せめて代わりに家事をしてくれるぐらいのこと、してくれてもいいんじゃない?」


「こうなるのが嫌だったから、乗り気じゃなかったのに……」と、流は大げさにため息をついた。


「こうなるのが嫌って、どうなることを言ってるの?」


「いや、いいわ。時間ないから、もう行くわ」


 流は会話を強引に打ちきり、リビングを出ていった。空は不穏な空気を感じたのか、泣き出す。美羽は空をあやしながら、「ちょっと、話はまだ途中なのに」と追いかける。


「帰ってからにしてよ。もう行かなきゃ」


 流は振り返りもしないで、ドアを乱暴に閉めて出ていった。空はますます激しく泣く。


 ――何、あれ。あんなヤツだとは思わなかった。


 空をあやしてみても、怒りの感情は余計に高まっていく。空もそれを感じ取るのか、泣き止む気配がない。


 ――そうだ、こういうときはヒーリングミュージックを聞けばいいって、掲示板に出てたっけ。


 スマフォで適当にヒーリングミュージックを探して再生する。鳥のさえずりと共に、ピアノの美しい旋律が流れる。しばらく聞いているうちに、空はだんだんおとなしくなっていった。


 ――すごい、本当に効いた。流より、ぜんっぜん役に立つじゃん、ヒーリングミュージック。


「これから、夜泣きした時にもかけてみよっと」


 美羽も気分が落ち着いてきて、空にミルクを飲ませる。ふと時計を見ると、8時40分になっている。


「うわっ、やばい!!」


 だが、ミルクを飲ませているのを途中でやめるわけにはいかない。


「早く~、早く飲んで~」


 ようやく飲み終わり、空をベッドに寝かせると、急いで顔を洗い、歯磨きをして、服に着替えた。朝食を食べている時間も、メイクをしている時間もない。美羽が住んでいる横浜からお店のある表参道に出るまで、マンションから駅まで歩く時間を含めて、50分ぐらいかかる。


 ――朝ご飯は、コンビニでサンドイッチでも買って電車の中で食べるしかないな。メイクはお店についてからするか……。店長に見つかったら怒られそうだけど。


 用意をしながら、遅刻しないで済む方法を考える。


「それじゃ、行って来るね。行ってきます」


 その言葉でレンタルベイビーは1分後にスリープに入ることになっている。美羽は空の頬にキスをした。やわらかな感触が伝わる。


 泣き止んでいる時は、天使のようにかわいい。美羽は空の小さな小さな手を軽く握りしめて、「なるべく早く帰って来るから、待っててね」と声をかけた。


 それから家を飛び出したのだ。


 

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