スコーピオン
羽間慧
第1話 一冊の絵本
ヒールを脱いだ後のきみは無防備な顔をさらす。ほどいた髪は汗ばんだ頬に張り付く。だから僕は、ただいまの声を待たずに言うのだ。
「優奈、今日は僕が作るから」
「帰ってたの?」
優奈は、どこかほっとした表情を浮かべた。
明日で同棲を始めて五ヶ月になる。デートのときは分からなかった小さなサインに気付くようになった。甘えたいとき、頑張りすぎているとき。
今は休養が必要な状態だ。入社二年目も全力で仕事をこなす意気込みは賞賛したいが、溜まっている疲労に気付けないのは危なっかしい。内部事務から得意先係に替わったとき、ストレスに押し潰されないか心配だ。
「お疲れ様。先にお風呂に行っておいで」
「ありがとう。徹也」
ぱたぱたと足音が遠ざかる。
僕は息を吐いた。自分用に沸かしておいて良かった。
手際よく、豚しゃぶサラダと焼きナスを拵える。もう一品、夏バテでも無理なく食べられるものがほしい。そう思い、冷蔵庫に向かったときだった。調子を取ったようにインターホンが鳴った。
立っていたのは宅配業者だった。寺本とサインする。
受け取った封筒は薄いものの、価値の重さでずしりとくる。そっと封を切り、高鳴る胸を押さえながら中身を取り出した。
「何が届いたの?」
お風呂上がりの優奈に、僕は絵本を見せた。雲の上で星空を眺める少年が描かれている。題名の『星ができるまで』の下に、僕のペンネームが綴られていた。
母校の創立記念事業の一環で、短大の美術科とコラボしたものだ。部誌に載せた短編が創作の授業担当者の目に留まり、推薦されることになった。
小学生低学年くらいの子が読めるよう、書き直さなければならなかった。だが、描き直すことに対して抵抗はなかった。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」も助言によって直されたものだから。より良いものができるよう真面目にやった。
「ねぇ。後で見ていい?」
優奈は同じサークルに所属していた。原案を読んだことがあるからか、どんな挿絵なのか待ちきれないようだ。
「皿洗いをしてくれたらね」
張り切る様子が心臓に悪い。オクラの梅和えができるまで待つことも、幸せそうに料理を口に運ぶ姿も愛おしかった。
僕が濡れた髪をタオルで拭きながら風呂場から出てくると、優奈はソファーに座って待っていた。どうやら読み聞かせを望んでいるらしい。
自作を読むのは酷だ。恥ずかしさで鼓動が早くなる。全力で回避したかったが、優奈の上目遣いに軍配が上がった。声色を確かめてページを捲る。
「星が綺麗に輝く理由を知っていますか」
それは、一人の男の子のおかげです。リノは今日も空の上でせっせと働いていました。
夜になると、雲に乗って星の近くに行きます。
リノは壺を開けて粉を掴みました。きらきら光る魔法の粉です。リノがぱっと振りかけると、星は眩しく光り始めます。
「ようし、これでお仕事は終わった」
リノが汗を拭いていると、急に強い風が吹きました。
びゅうん、びゅうん。
足下に置いていた壺はくるくると転がりました。
「危ない!」
リノが慌てて駆け寄る前に、壺は雲の上から落ちてしまいました。
ぱりんという嫌な音が響きます。
高い、高い場所から落ちた壺のかけらは、世界のどこかへ散らばったのです。リノの顔はさっと青ざめました。
粉を使うと、使った分だけ壺が生み出していました。しかし、その壺がなければ粉を生み出すことはできません。そして、粉がなければ星の光は三日後に消えてしまうのです。真っ暗な空を思うと、リノの顔は青くなりました。
壺は女神様から贈られた、世界で一つだけのものでした。リノは壺のかけらを探すために、森に行くことにしました。
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