第二章

第二章

「あーあ、今日もだめですねえ。これじゃあ、入院する前と大して変わらないじゃありませんか。杉ちゃんに骨髄提供してもらって、血液の成分を取り換えっこしてもらって、ああだこうだと指導してもらったそうですが、これじゃあ全く、病気は治ってないんじゃないの?」

せき込んでいる水穂に、ブッチャーは思わずそう言ってしまったが、懍に叱られてしまったことを思い出し、

「すみません。俺、今の一言、言ってはいけないことを言ってしまいました。反省します。ごめんなさい。」

と、手をついて詫びた。水穂は、軽く首を振った。

「水穂さん、優しすぎてもいけませんよ。嫌な思いをしたときは、嫌だってはっきり言って下さって結構ですよ。」

ブッチャーはそういうが、返答の代わりに返ってきたものは、咳であった。口に出して言ってはいけないが、やっぱりカウントダウンというものは、確実にやってきていると、ブッチャーはそれを改めて感じてしまう。

「ねえちょっと。大変なお客さんが来ているのよ。杉ちゃんが、変なところから連れてきちゃったの。あまりにも偉すぎる人だから、追い出すわけにもいかないし。顔を見たら帰ってくださいと言ったんだけど、そこを曲げて三十分だけでいいから、話をさせてくれないかって、あたしのほうが頭を下げられちゃった。これだけ具合が悪いから無理だって、ブッチャーも追い出すの、手伝ってくれないかしら。」

大変困った顔をして、恵子さんが部屋に入ってきた。

「大変なお客さん?誰なんですか?」

ブッチャーが思わず聞くと、

「何とも、広上麟太郎さんっていうんだって。指揮者の広上と言えば通じるって。」

と、恵子さんが答えを出したため、思わず血の気が引いてしまうブッチャーだった。

「指揮者の広上?テレビに出ている大スターじゃないですか!そんな大物がどうしてここへ来たんだ?」

「わかりました。広上さんと言えば、桐朋時代の同級生です。確か、卒業生総代だったはずです。僕も、顔は覚えてますから、お通ししてください。」

やっと、返答を返すことができた水穂だが、すぐにせき込んでしまうのであった。

「何言ってるの、水穂ちゃん。とても応答なんかできるわけないでしょ。そんな体で。あたしたち、今、断ってきてあげるから、ここで待ってて頂戴。無理して、立ったりしないでいいから。ね、無理しちゃだめよ。ほら、ブッチャー、言ってこよう。」

恵子さんが、そういったのとほぼ同時に、

「おーい、水穂。何をやっているんだ。俺、早くホテルに戻らないと、守衛がうるさいこと言うからさ、もう、まってられん。入らせてもらうぞ。すみません、お邪魔します。」

と、でかい声がして、どかどかと入ってくる音がした。

「わあ、とうとう来ちゃった!」

「そんなこと言ってないで、ブッチャー、止めに行って来て。あたしは、水穂ちゃん見てるからね。ほら、早く!ここは男の出番よ!」

恵子さんにせかされて、ブッチャーは一生懸命止める文句を頭の中で考えるが、どうしても思いつかなかった。一向に回らない頭を叩きながら、やけくそになってふすまを開けると、ちょうどそこに広上麟太郎その人が立っていたため、思わず、

「わあ!」

と叫んでしまう。

「君は、ここの住人だね。悪いけど、磯野水穂さんに会わせてもらえないだろうか。大学時代には、右城くんと言っていたはずなんだが。」

ブッチャーは、一生懸命返答を考えたが、口がへたくそすぎて、文句が何も言えないのだった。あーあ、俺も杉ちゃんみたいに、口がうまかったらなあと、劣等感ばかりが渦巻くのだった。

「そこにいるんだね。三十分だけでいいから、彼と話をさせてもらえないだろうか?」

「はい。」

もう、無血開城するのと同じような気持ちで、ブッチャーは、ふすまを開けてしまった。

「よう。久しぶりだね。大学時代より、随分やつれたじゃないか。俺だよ。覚えているか?同級生の、広上だよ。」

水穂は、かろうじて、布団の上に座り、黒の羽織を羽織った。この時はもう、銘仙の羽織というものは身に着けず、通常通り着用されている、紬の羽織に変わっていた。

「ええ、覚えてますよ。確か、忘れ物が多くて、有名でしたね。卒業式の時は、答辞の原稿を忘れて、雄弁でありながら、あれは適当にアドリブで述べただけだと明かして、大笑いさせられました。ヨーロッパで開催されたコンクールで優勝した時は、自宅に指揮棒を忘れて、素手でタクトを振っていたから、優勝できたんだと、記者団の前で豪語していたでしょ。」

「おう、よく覚えているな。最も、そのインタビューはドイツ語でしていたので、日本ではあまり知られてはいないけどな。さすがお前だな。もともと、語学の成績は抜群だったからな。」

「まあ、もし、日本語でそう発言したら、笑いものになりますよ。オリンピックの選手がそんな発言したら、間違いなく流行語になるでしょう。」

そういう会話をこなしたが、水穂は終盤で激しくせき込んでしまうのだった。

「あたし、杉ちゃんに文句言ってくる。杉ちゃんがこのこと仕組んだんだろうし。ブッチャーは、もしもの時のために、薬を出す用意してあげてよ。」

「はい!わかりました!」

恵子さんとブッチャーは、それぞれの用事を果たすため、いったん部屋を出て行った。なので、事実上、部屋の中には、水穂と麟太郎の二人となった。

「お前、いつからここで暮らしているの?」

麟太郎が水穂に聞いた。

「いつからって、よくわかりませんよ。はっきり覚えていません。ここで暮らし始めて、何年たつんでしょうか。」

勘定していないので、正直に答えを出すしかなかった。

「そうか。まあな、幸い、今は昔ほど怖い病気ではなさそうだし、入院しなくても治るらしいから、病院に通わせてもらって、疲れたらこうして休ませてもらうようにすれば、大丈夫だよ。それよりも、今日はお前に大事なお願いがあって来させてもらった。実はな、こんな音楽イベントが開催されることになっていて、、、。」

麟太郎は、音楽まつりについて、説明を始めた。とりあえず、既にベートーベンの交響曲第七番と、オープニングとして威風堂々、アンコールとして、G線状のアリアを演奏することを話して聞かせ、

「でも、これだけのプログラムでは、時間があまってしまうということが分かったので、三十分くらいの別の曲を何かやろうということになった。ありふれた曲では面白くないので、この際だからちょっと変わったものがいいということになり、この曲をやることにした。それで、お前にピアノパートをやってもらいたいんだ。どうだ、これならできるだろう?」

と言って、カバンの中から、スコアを一冊取り出した。タイトルはキリル文字ではあるけれど、水穂にはすぐに読めた。訳すと、「セルゲイ・ラフマニノフ、パガニーニの主題による狂詩曲」と読めたのである。

「無理ですよ。こんな難しい曲。」

「無理じゃないだろう。あれだけゴドフスキーの大曲ばっかり平気でやっていたお前なのに。こんなのなんて、へのかっぱだと思うのだが?」

「無理です。こんな大曲、体力的に弾けません。」

そういって、断ったつもりだったが、麟太郎はよくわからないなあ、という顔をした。

「お前なあ、明治時代じゃないんだからさあ、今は数か月くらい病院に通って、抗生物質とかちゃんと飲めばよくなると聞いているぞ。俺と同じで、ヨーロッパで演奏活動していたこともあるんなら、尚更だよ。それとも、もしかして、最近まで戦争をしていたボスニアでも行ってたのか?あの辺りならまだ不衛生な地域も多いし、そこでとばっちりを食って、もらってきちゃったのか?」

「いや、そういうわけではないのです。確かに外国には行きましたが、ボスニアは行ったことないです。」

「なんだ、それなら余計におかしいよ。ヨーロッパでは、戦争をしているところでもない限り、衛生管理も徹底してるし、治療だって、もうちょっと徹底的に治してくれるはずだよ。それに、お前が引退宣言してから、もう何年もたっているのに、こうしてまだ臥せっているなんて、どっかおかしいんじゃないの?」

「おかしいどころか、もう確実に持ちません。そんなこと自分で知っています。」

「はあ?何を言っているんだ。今だったら、日本でもヨーロッパでも、確実によくなると言われている病気にかかって、何十年も動けないでいるばかりか、もう持たないなんて、あり得ない話じゃないか。なあ、お前、本当の事を言ってみろ。俺、それについて馬鹿にしたりなんて絶対にしないから。だって、演奏者としてまだまだこれからって時に、労咳にかかったからと言って、忽然と姿を消して。俺たちは、労咳なんてすぐに何とかなると思っていたから、待っててやろうと思ってたのにさ、二度と現れなかったじゃないか。本当に、お前、何か重大なことでもあっただろ。」

「そんなことありません。ただ、もう仕方ないものは仕方ないと、あきらめただけです。」

麟太郎は、ますますわからないという顔をして、腕組みをした。

「本当にわからないなあ。お前、本当にさ、明治時代じゃないんだよ。労咳ごときで、人生を全部諦めるようなことは、全く必要ないんだけどねえ。」

返事をしようと思ったが、代わりに激しくせき込んでしまうのだった。

「おい、大丈夫か。あんまり咳ばっかりしてると、喉を傷めるから、かえって良くないそうだぞ。」

そんなことを言っても、それどころではないらしく、さらにせき込み続けるのである。

「おい、お前、しっかりしてくれ。まだ質問はあるのに、」

こっちがわけがわからなくなったぞ、という顔をして、麟太郎は水穂の背をさすってやったが、それでもせき込んだままであった。

「水穂さん、疲れたのなら、横になって休みましょうか。」

我慢できなくなったブッチャーが部屋に入ってきて、水穂を麟太郎から離し、静かに布団に寝かせてやった。それでもせき込んで治まらないので、

「仕方ないですね。薬飲んで休みますか。暫く、眠ってしまいますけど、そうしないとだめですもんね。」

と、枕元にあった吸い飲みをとって、水穂に中身を飲ませた。これを飲み干して数分後にやっと静かになり、楽になってうとうと眠り始めた。

「一回せき込むと、最終的にはいつもこれですよ。つまり、薬を飲まないと、止まらないんです。」

麟太郎は、しばし呆然としてしまったが、すぐに我に返って、

「お前、労咳じゃないな。もっともっと重大なんだろう。お前はもう、音楽業界から追放されたと思っているようだが、俺たちはまだまだお前には活躍してほしいと思っているし、それをしっかり支えようと思って、こっちに来たんだぜ。俺もお前も、まだ45で、音楽業界ではまだまだ若造だ。それなのに、もう持たないなんて、年寄りみたいなセリフは言わないでくれよ。」

と、語りかけてみたが、反応はなかった。

「おい、何か言ったらどうだ。お前、こけしみたいに、動かなくなって、、、。」

急に表情がかわって、唸る声が聞こえてきた。

「いいんですよ。眠っているんだから。たぶん薬の副作用で、怖い夢でも見ているんでしょう。以前飲んでいた睡眠薬では、寝る前に多少唸ることはありましたが、寝てしまえば、夢を見ることはありませんでした。でも、気道を縮めてしまってかえって危険だと言われたので、それは取りやめにして、今の睡眠薬に変えたんですけど、やっぱり効果としては強くないようですね。こうして途中で唸りだすこともしょっちゅうありますし、本人も目が覚めても、ぐっすり眠ったという気はしないと言ってました。まあ、俺たちは、本人に代わってやることはできませんので、何もできませんが、きっと、すごい辛いんだろうなと思います。」

しばらくすると、唸る声も止まって、また静かに眠りだすのだった。

「すみません、こんなわけですから、そっとしておいてやっていただけないでしょうか。そのパガニーニの何とかという曲、俺はまるで知らないんですけど、すごい大曲であることはわかります。そんなすごいの、この体で演奏させるのはひどすぎます。今はとにかく、楽にしてやることが一番なんだと思うので、演奏なんてそんな大変なことは、させないでください。」

自分の語彙力がないことを呪いながら、ブッチャーは手をついて懇願した。あーあ、俺がもうちょっと口がうまければいいのになあ、と思わずにはいられない。

「君は、水穂の手伝い人になって、何年になるの?」

急に矛先が自分に向けられたような気がして、ブッチャーはまた困ってしまった。

「いったい、彼がなぜこのような重体に陥ったか、教えてもらえないだろうか。」

こういうときは、杉ちゃんのほうが、上手にしゃべってくれるのになあと思いながら、ブッチャーは下手な説明を始めた。でも、肝心のことは、ブッチャーは発言できなかった。


同じころ、恵子さんは、

「つまり、広上先生と、水穂ちゃんは、大学で同級生だったの?」

と、玄関先で杉三に聞いていた。

「そうだって。たまたま、演奏会の準備でこっちに来てたんだって。」

杉三は、何の偽りもなく、すぐに答えた。

「じゃあ、どこかの海外のオーケストラでも連れてきたの?」

「いや、市民バンドだって。なんか、富士市が主催する音楽まつりがあって、そこで客員指揮者として来ているらしいよ。」

「それなら、音大の先生とかで十分じゃないの?なんで広上先生なのよ。いい、杉ちゃん、広上先生といえば、フルトヴェングラーと同じくらい有名なのよ。そんな人がどうして杉ちゃんと一緒にこっちに来るのよ。」

「しらないよ。フルヴェンさんと一緒にするなよ。ただの同級生だから、顔が見たくなって会いに来たんだよ。違う?」

恵子さんは、ちょっとため息をついた。

「まあ、もちろん、年齢的に言ったら、ただの同級生かもしれないわ。でも、桐朋っていうのは、有名人をたくさん出してるところなのよ。桐朋を出て、世界的な大スターになった人はいっぱいいるの。いい、そういう人ってのは、優しい人ってほとんどないのよ。相手を平気で叩き落したり、平気でさげすんだり馬鹿にしたり、そういうことをたくさん経験したりされたりして生きてきている人たちなのよ。時には、大金払って、わざとコンクールで優勝したりして、いわゆる八百長というのかな、そういうものを平気でしたりする。そうやって、大スターの切符をつかむの。そういう人が、水穂ちゃんに声かけてきたりすると思う?絶対何か裏があるのよ。もしかしたら、また八百長をさせようとか、そういうことをたくらんでいるのかもしれない。ある意味、曾我さんよりも、怖い手を使ってくるかもしれないわよ。だからはやく追い出さなくちゃ。杉ちゃんも勝手に信じて、すぐに連れてきちゃダメよ。」

「うーん、それはどうかなあ。そういう感じには見えなかったぞ。ドトールコーヒーで、話した時も、そんなたくらみがあるような気がしなかった。それよりも、真剣に富士市内のオーケストラについて、悩んでしょうがないって感じだった。なんか、うんと面白い曲をやりたいのに、みんなが付いてきてくれないから、優秀なソリストを探してくることが、何よりも大事なんだってさ。」

恵子さんはそう説明したが、杉三は信じられないようだった。

「そういう人を一生懸命探しているけど、今は、若手の演奏家も早くからスター扱いされるから、もう、気取った演奏家は嫌になったんだって。」

「杉ちゃん。それこそ高尚な人が平気でやるの。そういっておきながら、純粋な若い人を引っ張って、いずれは気取った人間に育て上げるの。若い人たちも、自分は認められていると信じちゃうから、その悪い空気に染まっちゃうのよ。そういうわけで、クラシックの演奏家ってのは、すごく高慢ちきで、気取っていて、プライドが高くて、感情的な人ばっかりになるのよ。水穂ちゃんだって、そういう世界に入ろうとしたけれど、あの人はそれができない身分だったから、どうしてもできなくて、ものすごく苦しんだのよ。それで体までおかしくなっちゃったんじゃないの。だから、もう一回、おんなじ世界に連れ戻すなんて、まっぴらごめんだわ。早く、追い出して来てちょうだい。おばさんからのお願いだと思って、一生のお願い!」

恵子さんは、また両手を合わせて懇願した。

「だけど、、、そんな悪そうな人じゃないよ。僕、そんな気取った人ではないと思うんだが。だって、ドトールで話してくれたけど、本当に真剣に悩んでるって感じだった。そんな人が、ここへ利用しに来るかな?」

「もう、音楽家ってのは、演技も必要なのよ。オペラ歌手なんて女優並みに演技をすることもあるの。ほら、魔笛の夜の女王のアリアを聞けばわかるでしょう?」

「そうだけど、広上さんは指揮者で、オペラ歌手ではないよ。」

「だから、音楽は分野を問わずみな同じよ。クラシックなんて、そういうものよ。邦楽もそうだけど、早くからあなたたちとは民族が違うっていう教育を受けなければいけないの、それに順応できないで、純粋に音楽を求めようとすると、水穂ちゃんみたいになっちゃうのよ。いま、こっちに来て、せっかく悪の世界から離してあげたのに、また手を出してきたのが見えているんだから、周りのあたしたちが止めなきゃだめ!ほら、早く追い出してきて!」

恵子さんの過剰な心配に、杉三も折れて、

「わかったよ。追い出してくるから、少し待っててくれ。」

渋々四畳半に向かっていった。


そのころ。静かに眠っていたと思ったが、また唸る声が聞こえてきたので、ブッチャーも麟太郎も水穂のほうを見る。

「ああ、止めなくていいです。本人はたぶん、眠っているしかわからないと思います。」

ブッチャーはそう解説するが、

「そうか。それは大変だな。そうなると、今年のパガニーニは、ソリスト不在で取りやめかあ、、、。」

と、涙を流して泣き出してしまった麟太郎であった。

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