第2章 力の護り:使命

 キノと友理は、同じ窓から違う色の空を眺めている。友理の目には朱に染まる低い空が映り、キノは、まだ若い闇がその青緑の幕を重ねて行くのを見ていた。

 二人が待ち合わせによく使うティールームは、今日も人々の語らいの声に満ちている。けれども、キノのテーブルは静かだった。灰皿のわずかな隙間に煙草を押しつけ、友理はここ数時間で何度目かの溜息ためいきをつく。


「もう決めたの」


 視線を友理に移しながら、キノが呟く。


「強制されたんじゃなくて、私がしたいからするんだよ」


「それはわかってる。でも…どうしてきみが? 希由香が出来ないことを、何できみがやるの?」


 友理が同じ質問を繰り返す。


「話した通りよ。湶樹ちゃんの言うように、コウが言うように、私の使命なの。希由香だって、きっと協力したはずよ」


「そもそも、それがおかしいよ。何で希由香が意識不明なのかわかんないんでしょう? そのラシャとかいうのが、何かしたんじゃないの? この前電話で聞いた時はとても信じる気にはなれなかったけど、今日きみの話を聞いて、信じたいとは思うよ。きみがコウって呼ぶ得体の知れない男が、本当にあるかどうかも知れないラシャってところの使いで、真実を話してるならね。でも、わかんないじゃん。何で信用出来るの?」


「あの夢を見始めて、湶樹ちゃんの話を聞いて、コウが来て…色んな意味が繋がったの。私のどこかに、それがみんなピタッと重なる感じなの。疑問も違和感もなく、自分がやるべきこと、自分じゃなきゃダメなこと、これが私の使命なんだって」


 キノの瞳に迷いはなかった。そして、友理の姉を心配する気持ちも、軽くはない。


「きみがその男を信用するのは、浩司にそっくりだからでしょう? 記憶に同調させると同じに感じるんなら、希由香の彼氏だった男を、きみも愛してるからでしょう?」


 キノが悲しげにを伏せた。逸らしたくなる視線をその場にとどめ、友理が深い息をつく。


「人間じゃないって、確かなの?」


「…わからない。本当に浩司そのものみたいなんだもん。きみの言うようにラシャの使いが全く知らない男の姿で来たら、もっと混乱してたかもしれない。でも、コウが妄想狂の変質者じゃなく、ラシャから来たことは間違いないよ。どこかに消えたり、私に記憶を思い出させたりも出来るし」


「何にしろ、正体は不明か。私が反対しても無駄だってわかってるよ。その護りとかいうのを探す気は変わらないんでしょう? でも、私がきみを思ってるってことは忘れないで。きみに何かあったら…嫌だよ」


 二人は互いのを見つめ合う。それぞれが納得するのに時間は要らなかった。キノが微笑んでうなずくと、友理の顔にも笑みが戻る。


「催眠術ってどんなの?」


「コウがやるのは、催眠療法とかで使う凝視法や言語暗示法と全然違うから、催眠術とは別物だと思う」


「あなたは今、いついつの時にいる、そこはどこですか、何が見えますかっていうやつじゃないの?」


「そういう技術じゃなくて、コウの能力で、半分夢を見せられてる感じ」


 キノは眉間みけんの間に指をあてる。


「ここにコウが触れると、目の奥の方に、希由香の記憶が見えて来るの。あの夢を見てた時と同じ、私は希由香で浩司がいて。違うのは、今は希由香の記憶を見てるっていう自覚があること。彼女と自分の感情が同じになっても、もう混乱せずにいられる」


 下ろした手で頬杖をつき、キノは視線を遠くにやった。


「だからなのか…希由香の思いがわかるような気がする時があるの。悲しいとか嬉しいとかだけじゃなく、どんなふうに浩司を思ってるのか…なんとなくね。私が今まで夢に見てたのはいつも寒い時期だったけど、段々暖かく春っぽくなって来たし。まだ、たまに冬の記憶も思い出すけど…」


「きみ自身の脳にある記憶じゃないんだもんね。精神科医には無理か」


「コウが1日1時間って言った理由がわかったよ。私はもちろんだけど、コウも疲れ果ててたもん。そういうところは人間みたい」


「会わせて欲しかったな」


「部屋の外には出ない、今の自分が他の人間に接すると、面倒なことになるからって」


「…よけい怪しいよ」


「私を信じるなら、彼のことも信用して」

「きみが洗脳されてるんじゃないことを祈ってるよ。とりあえず、きみが無事なら良しとするしかないか。でも、何でも話してよ。今日私に会うって、奴は知ってるの?」


「うん。言って来た。大事な妹だから、全部話すよって」


「そしたら?」


「『キノさんの妹なら、わかってくれると思います。気をつけて行って来てください』きみによろしくって」


「ほんのちょっとだけ…信用してあげるかな」


 キノは笑いながら、ウエイトレスが置いた3杯目のコーヒーを口に運ぶ。


「早く、見つかるといいね…」


 アイスレモネードのグラスを氷で鳴らしながら友理が言った。


 何気なさを装うその口調からでも、キノは妹の気持ちを充分に感じ取れる。自分の身に今起きていること、そして、これからまだ起きるであろう何かをも、心から案じてくれていると。


「全力を尽くすつもり。友理…本当にありがとね」


「何? 急に…」


「私、今彼氏はいないけど、きみがいるし。救いたい世界でよかったって思うよ」


 友理は照れくささを隠すように、ストローを回す手を速める。


「浩司がいるじゃん」


「この気持ちは希由香のなの。それに、もうすぐ別れるし」


「まだ、そこまでは見てないの?」


「昨日はね。そろそろかな…」


「…きみも悲しい?」


 キノはカップの中の闇から目を逸らす。


「きっとね。希由香と同じに」


「それでも、思い続けてるのかな」


「…たぶん、今でも」


「私も会ってみたいな、浩司。そんなにいい男ならさ」


「いい男…?」


「そうなんでしょう? きみと同じ魂を持つ希由香がベタ惚れなんだったら。もし、希由香も夢も全然関係ないところで浩司に出会ったら、きみも好きになると思う?」


 私が希由香と何の関係もなかったら? それでも浩司を愛する?

 あの男を…?


「どうだろう、考えてみたことなかった」


「何で別れちゃったのかね」


「言わなかったっけ、浩司は希由香を愛してないって」


 友理が肩をすくめる。


「そうだった。でも、自分を愛さない男を思い続けるなんて、私には無理。案外、希由香の方が愛想つかしたのかも」


「それはないって言える。希由香になってみたら、きみもきっとそう思うよ。ただそばにいられれば…それでよかったの」


「ちょっと引くかもね。もし、自分が思ってない女にそこまで思われたら。ほだされるのが嫌なら、逃げ出すしかないじゃん。始まりは何だったの? 少しは好きじゃなきゃ付き合わないでしょ? 聞く限りだと、女に困るふうでもなさそうだし」


「希由香は浩司に惹かれたけど、向こうはどうかな。誘った時は、欲しかったんだと思うけど…単に、飽きちゃっただけかも」


 キノが自虐的に笑う。


「希由香は束縛も要求もしなかった。そんな女は、面白味に欠けるんだよ。浩司は寂しい夜に温かいものを求めるけど、常に誰かが欲しいわけじゃない。支配したがるくせに、従順でもつまらない。難しい男。希由香はそれを承知で、でも…多くを求めなかった。自分の全てを見せられなかったのは、愛されないのを知ってたからよ」


「…切ないな」


「浩司が去るなら追わない。でも、自分から離れはしないはず…わずかでも必要なものでいられるうちは」


「いずれわかる…か。でもさ、何を祈ったんだろうね。その護りに」


 何を祈ったのか…。コウたちも断定は出来ないって言ったけど、本当に浩司のことなのかな。だとしたら…何を祈る? 彼の育った街を歩いて、何を思う? あれだけの思いを…希由香は断ち切ることなんか出来ないはず。なら、祈るのは…?


「いずれ、わかるよ」


 キノは窓に映る自分を見つめる。そして、その向こうに広がる宵の空を。刻々と濃度を増して行く、深藍しんあいの闇を。

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