第2章 力の護り:使者①

 翌日、キノが最初に目にしたのは、あのドアだった。一晩中全く頭を動かさずにいたかのように、目を閉じた時と同じ角度にドアがある。そこには誰もいない。


 キノは思い切り伸びをしてまばたき、時計に目をやった。12時5分前。カーテンの隙間から覗く空は明るい。 


 よく寝たな…こんなにぐっすり眠れたの、久しぶり。頭もすっきり。あの夢も、見なかった。でもゆうべ…。


 キノは、夜中に目を覚ました時に見た光景を思い出す。0時丁度。この部屋。ドアのところに立っていた人影。自分に近付いて来て、額に触れた指先。ささやく声。


 コウジだった。確かに…。


 キノは再びドアの方を向く。


 あれも夢だったの? でも、私だった。キユカじゃなく。それに、ここにいた。いつもの夢とは違う…。


 キノはベッドから起き上がり、スモールライトを消した。カーテンを脇に束ね、窓を開け放つ。明るい日射しとともに、新鮮な空気が部屋に流れ込んで来る。ようやく訪れた秋の気配が気持ちの良い風に乗り、キノの髪を揺らす。


 落ち着いてよく考えよう。今日は時間もあるし…。


 キッチンへ行ってコーヒーでもれようと振り返ったキノは愕然とした。ノブが回るカチャリという小さな音がし、ドアがゆっくりと向こう側から開かれようとしている。キノの耳に、早鐘のように鳴る自分の心臓の音が聞こえて来る。


 キノの脳裏に真先に浮かんだのは、逃げなくては、ということだった。


 今現在、不動産会社以外にこの部屋の合鍵を持つ者はいない。毎日帰ってから少なくても3回は確認するキノの部屋の玄関の鍵が、かけ忘れていることはありえない。

 空き巣か、強盗か、変質者か、その他の何者であろうと、呼び鈴を鳴らさずに部屋に立ち入るのは、決して歓迎されるべき客ではない。


 どうしよう! 逃げなきゃ…! 窓、ベランダから…。


 ドアが開くまで、ほんの2、3秒ほどだっただろうか。ノブに手を掛けた人物が姿を現したその時、キノはベランダに片足を踏み出したところだった。


「希音さん、大丈夫です。落ち着いてください」


 キノはその声を聞き、金縛りにあったように凍りついた。


 嘘…でしょう?


「驚かせてしまって、申し訳ありません」


 声が近付いて来る。


 恐る恐る振り向いたキノの前に、男が一人立っていた。

 中背でまだ若い、30歳になるかならないか。床まで届く、蒼い薄手のマントのような物を着ている。漆黒の髪に、黒い瞳。その顔は、キノが夢で見続けた浩司と同じだった。

 驚きで声も出せずにいるキノの視線は、男の射貫いぬいたまま動かない。


「私の話を聞いてください。あなたの知るべきこと全て説明します」


 男の視線も、キノかららされなかった。

 緊張した空気が流れる。叫び出しそうな自分を内に押し込め、キノが言った。


「ひとつだけ、今すぐに教えて」


「はい」


「…コウジなの?」


 さっきよりも緊迫した空間を、男の溜息ためいきが破る。


「厳密な意味では…違います」


「コウジの顔…声なのに?」


「はい」


「コウジじゃないの?」


 懇願こんがんするようなキノの声に、男は少し困惑するような顔をした。


「彼に…会いたいんですか?」


「会いたいよ…」


 男が目を伏せる。キノは男を見つめ続けている。


「長い話になります。あちらで、座って話しましょう」


 そう言いながら、男がキッチンの方を手で示す。


 目の前に浩司の姿をし、浩司の声を持つ男がいる。夢の中で希由香が愛している男。キノが、愛している男。けれども、現実に現れたこの男は、あの浩司ではないと言う。


 コウジだと思った。ここにいるのは、コウジだって…違うの? 別の人なの? 見間違うはずない。でも…。


「希音さん」


 男がうながす。キノの足は、地に根付いてしまったかのように動かない。男の手がキノの腕に触れる。冷たくもなく温かくもない、キノと同じ温度の手。けれども、キノの肌は一瞬にして泡立った。


「コウジなんでしょう? 私にコウジの手がわからないと思う? 違うって言うなら、あなたはいったい誰なの?」


 叫ぶようにキノが言う。


「リシールが、あなたにラシャのことを話したと聞いています。私はラシャの使いです。あなたに使命を伝え、協力する使者としてここに来ました。浩司の姿をしているのは、あなたが記憶を探り易くするためです。私には彼からの情報も多少あります。ロボットのようなものだと思ってください。浩司だと思ってもつかえありません」


 男の瞳が、静かにキノを見つめている。


 だからなの? コウジの姿、コウジの声、コウジの手の感触、それなのに、どこかにほんの少しだけ違和感を感じたのは…。このだけが、コウジと違う。色や形じゃなくその奥の闇が、ない。キユカを見る時の、あのとは違う。でも…この湧き上がるる思いは何? 夢にいる時と同じコウジへの愛しさをこの男に感じるのは、どうして? 同じ顔だからとかじゃない。姿を似せてあるだけなら、こんな気持ちにはならない…。


 キノは、放心したようにその場に立ち尽くしている。


「希音さん、どうかこちらへ。詳しいことは、これから話します」


 男が再びキノを促す。キノは無言で|頷うなずくと、ふらつく足取りでキッチンへと向かった。


「座っていてください。今、コーヒーを煎れますから」


 男の引いた椅子に素直に腰を下ろし、キノはテーブルに頬杖をついた。男は、慣れた手つきで水を注いでいる。


 夢の中の浩司が突然目の前に現れたと思ったショックが収まるにつれ、キノの頭は次第に冷静さを取り戻した。今のこの状況が見えて来る。


 湶樹ちゃんの言ってたラシャの使いが来たんだ…。


 コーヒーの香りが、キノの鼻孔を優しく満たす。


「どうぞ」


 男が湯気の立ちのぼるカップをキノの前に置き、正面の椅子に座る。


「あなたは飲まないの? えっと…名前聞いても?」


 男が初めて微笑んだ。


「いただきます。希音さんが落ち着かれてよかったです。私に名前はないので、浩司とお呼びください。よろしければ」


「でも、本人じゃないんだったら…コウジじゃなくて、コウでいい?」


「結構です」


「じゃあ、コウ。話してくれる? 私、ちゃんと聞けるから。いっぱい眠って頭もはっきりして…」


 キノはハッと息を飲む。


「夜中…部屋に来た?」


「はい。ラシャから降りて、すぐにここへ。あなたに暗示をかけました。夢を見ずに、深く眠れるように。希音さんは頑強な精神を持っていますが、無理な夢見を続けさせていましたから。その上、こうして私が来ること、話すことによって与える疲労も相当なものになるでしょう」


「ずっと見てたあの夢を今朝は見なかったから、ちょっと変だと思ったの。見続けること自体おかしいとは思ってたけど…あれを見せてるのは、あなたたちなんでしょう?」


「その前に、ひとつお聞きしたいことがあります。リシールは、あなたにどこまで話していますか?」


「ここ以外にも世界があって、ラシャというところがあること。そこの者達がほかの世界にある石を探していて、私がその場所を知ってると思ってる。そして、ラシャからの使いがここに来る。それだけよ。その使いがコウなんでしょう?」


 コウがキノを見つめる。


「ほかには何も? 石については?」


 キノは湶樹の言葉を思い出し、首を横に振った。


「昔、ラシャからなくなったってことだけ」


 キノの目も、真直ぐにコウを見つめる。


「わかりました。これから、順を追って説明します。疑問があればお聞きください。ただし、理解しておいていただきたいのは、先程言ったように私はロボットのようなものです。地上の生活についての常識的な知識と、あなたに使命を伝えるために必要な情報しか持っていません。私の知ることは全て話すことが出来ますが、与えられていない情報への疑問に答えることは出来ないのです。また、私の持たぬ情報で、今あなたが知る必要のあるものはない。それが道理です」


「わかった。始めて」


「リシールが話したように、今地上には二つの世界があります。同じ地球上の異なる次元に、全く別個の世界です。私達はそれぞれの名前の頭を取って、ヴァイとイエルと呼んでいます。あなたのいるこの世界がイエル、もうひとつがヴァイです」


「ちょっと待って。紙に書く。頭の中、ごっちゃにならないように」


 寝室へ走りペンと手帳を取って戻ると、キノは深く息をついた。その様子をコウが笑顔で見ている。


「几帳面なんですね」


「適当なところもあるけどね」


 キノは笑って煙草に火を点ける。


「煙草は平気?」


「どうぞ気になさらずに」


「続けていいよ」


「今から131年程前、ラシャから力のまもりが持ち去られました。それが護りの石です。リシールが石と呼ぶのは、地上では石のような物質に変化していると思われるからでしょう。ラシャにある時には、石ではなく紅い光を微量に放つエネルギーのかたまりで、固体と気体の間のようなものです」


「大きいの?」


「ラシャではこぶしよりひと回り小さいくらいでしたが、地上では多分もっと小さく、指の先ほどの大きさと思われています」


「誰が持って行ったの?」


「わかりません」


 考え込むこともなく、コウが答える。コウがわからないと言う場合、彼はそのことについては知らないのだと、キノはすぐに理解した。


「それで?」


「ラシャでは、力の護りは失われたと思われていました。持ち去られた時に発動されたきり、鏡に反応がなかったからです。護りは、祈りによってその力を発動します。その発動と同時に、ラシャの祈りの間にある鏡に発動した者の姿が映るのです。どこで発動されたかもわかります」


「鏡に映るの?」


「地上の鏡とは違い、それを見る者の姿は映りません。祭壇にまつられた楕円形の枠の間に水が張ってあるようなもので、護りが発動されていない時には向こう側が透けて見えるだけです。長い間沈黙を続けて来たその鏡が、新たな発動者を映しました。2002年、1月15日のことです」


「2年前ね」


「発動はヴァイにおいて、発動者は紫野しの希由香きゆかという女性です」


「え?」


 キノのペンの動きが止まる。


「キユカ?」


「あなたが夢で見ている女性です」

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