一日の始まりは一杯のコーヒーから

八百十三

インスタントのコーヒー

 人間、何かにハマる時というのは突然やってくる。


 学生時代は下戸が過ぎて、同期から酒を飲むことを止められるほどだったはずが、新卒で入社した会社の歓迎会で振る舞われた海外産のワインに魅了されるように。

 世間では随分騒がれて、人気大絶頂なアーティストを全く気にも留めなかったのに、ある時訪れた店で曲がかかっていて、それが見事にツボにハマってしまうように。

 アクションゲームなんて苦手で自分にはとても出来ないと思っていたはずが、ある時興味本位で購入した中古の狩りゲーを、寝食も忘れて遊び続けてしまうように。

 ミルクとシュガーシロップをたっぷり入れたコーヒーですら忌避するくらいだったのが、ある時喫茶店で飲んだホットコーヒーのおいしさに気付くように。


 そうして様々な要素にハマっては、興味を失っていって。

 ものによっては凄まじく興味が長続きすることもあれば、ただの数ヶ月で興味を失うようなこともあって。

 私、秋島あきしま 奈央なおの三十年ほどの人生は、そんなことの繰り返しだった。


 私は今、東京都の23区の中でも中心部に位置する千代田区の、区の中では駅間の乗り継ぎがあんまりよろしくない麹町にそびえるビルの中にて、ディスプレイに向かってキーボードを叩いている。

 私の職場は独立系のソフトウェアハウス。他の会社様向けに提供するソフトウェアの開発を行ったり、お客様からソフトウェア開発の仕事をいただいてお金を稼いでいる。

 このご時世、ソフトウェアハウスというのはどうしても大手企業の傘下に入って仕事を貰うことが多い。その方が会社としても安定して仕事を持ってこられるし、大手企業の福利厚生に与れる利点もある。

 そこを考えると独立系であるうちの会社は、どこか一つに属さないが故の安定性にこそ欠けるものの、先達の社員の努力によって勝ち取った信頼と、作り上げるソフトウェアの品質の高さに対するお客様からの評価によって、業界の中ではなかなか安定した業績を重ねていた。


 3K職場(きつい、帰れない、給料が安い)と言われるプログラマー、システムエンジニアの環境の割には、福利厚生が充実している方だし、休めるし。給料はまぁ確かに高くないけれど。

 好景気のこの頃においても新卒社員を数十人採用して、しかもその社員がほとんど辞めていかないというのだから恐れ入る。新卒の3年離職率が10%を余裕で超えるこの業界において、である。

 こないだ「創立記念日で会社が休みになる(派遣で来ているパートナーさんも例外ではない)」ことを友人に話したら驚かれた、冗談抜きで。


 麹町という区域はオフィス街のまん真ん中である割に、地下鉄が縦横無尽に交差する千代田区の中にあって、電車で移動するのが不便な地域になる。

 JRの四ツ谷駅、市ヶ谷駅、東京メトロの永田町駅が徒歩圏内であるのは事実だが、そのいずれも10分程歩いていかないとならない。

 メトロの半蔵門駅については5分程歩けば着く範囲だが、こちらも単一路線しか通っていない駅なので、微妙に不便だったりする。


 だが「歩けばいろんな駅を利用できる」というのは、悪いことばかりでもない。

座り仕事で運動不足になりがちなシステムエンジニアという仕事、片道10分でも歩けばそれがいい運動になる。

 ついでに色々な駅に行けるということは、それだけ色々なお店に行けるというわけであって、飲み歩きとカフェ巡りを(対外的に説明するための)趣味にしている私としては、何とも都合がよかった。

 麹町周辺はオフィス街らしく平日限定で営業する居酒屋やラーメン屋が多いし、四ッ谷に行けばちょっとお洒落なバーや、飲み会に便利な居酒屋があったりするし、永田町まで歩けば一気にハイソな雰囲気を味わえる。


 今日はどっちの方面に足を伸ばそうか。どうせなら、普段はあまり行かない市ヶ谷方面に足を伸ばしてみようか。

 なーんてことを考えながら、私はキーボードをガシガシ叩いていた。


「……よし、っと」


 キーボードを叩く手を止めて、私は出来上がったメールの文面に改めて目を通した。

 私が先程まで書いていたのは、社内に導入しているソフトウェアのサポート部門に送信するメールだ。

 対外的にはシステムエンジニアと説明しているし、自分でもそのように認識しているが、実質的な私の仕事は社内向けのヘルプデスクだ。

 社内で発生した問題やトラブルに適宜対処して、社内に導入しているソフトウェアについて部署内で対応できないトラブルが発生したらそれをソフトウェアのサポートにエスカレーションして、時々社内に立てているサーバーのメンテナンスをして。

 そんな、いわゆる何でも屋・・・・みたいな仕事をしている。


 メールの宛先に誤りがないことを確認して、文面に誤字脱字が無いことを確認して、メールソフトの送信ボタンを押した私は席を立った。

 部署のセクションに据えられた電気ケトルにミネラルウォーターを注ぎ、スイッチオン。愛用のマグカップにインスタントコーヒーの粉をスプーン一杯分入れる。

 このインスタントコーヒーは会社が買って社内に配分している、いわば備品だ。社員なら誰でも自由に飲んでいいことになっている。

 コーヒー党の私はその恩恵にがっつり与って、一日に2回はこのコーヒーを仕事中に飲むことにしていた。


 電気ケトルが湯気を立て、沸騰した印としてスイッチがかちりと元に戻る。

 その音を耳ざとく察知した私はケトルを手に取ると、インスタントコーヒーの粉を入れたマグカップにお湯を注いだ。

 少し高い位置から、粉を対流させるように。お湯を注いでからスプーンでかき混ぜる手間を惜しんだ私が編み出した、ズボラな注ぎ方だ。

 マグカップの中で円を描くように、お湯を注ぎ切った私はカップを両手で抱えて自席に戻る。

 そしてコーヒーの香りを楽しむように、マグカップに顔を近づけた。


「はー、いいなぁ……」


 思わず私の口から声が漏れた。ハッとして声を潜める。

 私のいる部署は人数が多くないからちょっとの声も響いてしまう。あんまり雑談や独り言を気にする人はいないのが救いだが、やはり気にしてしまうものだ。

 未だ湯気を立てるコーヒーに、そっと口をつける。砂糖もミルクも入れない。ブラックで飲むのが、私の流儀だ。

 インスタント故に、香り立ちがいいわけではない。酸味や渋味、苦味と言った味わいに厚さがあるわけでもない。何の変哲もない、安っぽいコーヒーだ。

 だがそれが、時に随分と心地よく感じることがある。


 変に気取ったところのない、肩肘張らずに飲めるコーヒー。喫茶店やカフェで飲むのとはまた違う、ありきたりさが逆に良いコーヒー。

 日常的に飲むコーヒーとして、これほどまでに適したものが他にあるだろうか。

 それを思うだけでも、インスタントコーヒーという商品が開発されたことへの感謝と、開発者への畏敬の念を感じる。


 私はもう一口、苦み走ったコーヒーを口にして、再びパソコンのディスプレイに向き直った。

 こうしている間にも何通かメールが届いてきている。

 優先順位こそ様々だが、私の仕事を求めている社員が、会社の中に確かに存在している。

 その事実を、このコーヒーが思い出させてくれる。


「ん、やるか!」


 そうして再びキーボードを叩きだす私。

 こうして一日が、また過ぎていくのだ。

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