空(そら)
まきや
0. プロローグ
雨の降る晩だった。
決して強くはないが、傘をささなければ濡れてしまう。その地に降っていたのは、そんな種類の雨だった。
一台の車が、出来たばかりの水たまりを踏みつけて、道を走っていた。
特徴もない銀色のセダン。四駆だったし、タイヤはそこそこのグレードの物を履いていたから、雨の中でも走りは安定していた。
車内ではボリュームを抑えた優しいオルゴール調の音楽が流れていた。
他に一定の間隔で、ゴムとガラスのこすれる音がする。雨滴を感知するワイパーが定期的に働き、フロントウィンドウの水滴を拭い去っていた。
「寒くないかい?」
運転している細身の男性が、同乗している家族に尋ねた。
「だいじょうぶ」
女の子の声が、男性のシートの後ろから返ってきた。
男性は視線を動かし、バックミラーごしに、後部座席の様子を見た。車内は薄暗かったので、彼の目には最初、何も見えなかった。まもなくやってきた対向車が、すれ違いざまにフロントライトで、後部座席の様子をひと通り、照らし出した。
彼の愛しい娘の小さな顔が、そして隣には妻の姿が見えた。
暗い中でも娘は寝ておらず、なおかつ父の視線に気づき、小さく笑いかけてきた。クッション代わりに少女が抱いていた、大きなイルカのぬいぐるみ。その片方のヒレを手で持ち上げ、いたずらっぽく、挨拶するように振ってきた。父親も歯を見せた笑顔で答えた。
娘の反対側の席には、優しい寝息をたてている妻がいた。ミラーの端に、妻の美しい寝顔が映っている。彼女の黒髪に、ときおり飛び込んでくるオレンジ色の街灯の光が反射していた。妻は眠りながらも本能的な動作で、その両の掌を、大きく膨らんだ自身のお腹に添えていた。それを見て、父親は自然と、愛おしさにあふれる、優しい笑顔になった。
再び鳴るグッというゴムの擦れる音で、男性はふたたび視線と注意を、前方へと戻した。彼はさらに音楽のボリュームを落とし、暖房のダイアルをひと目盛りだけ動かした。
今日は遅くなってしまった。彼は独り考えた。
これから帰ろうとしている、彼と家族の住んでいる家は、海に近く、とても環境が良い場所だった。その代わり、近所には大きな病院がなかった。特に産婦人科などは、海沿いの道を通って、何キロも先の市の中心まで出なければならない。
新しい家族を迎える為には、仕方のないことだ。それどころか、嬉しさの方が大きかったので、家族は誰も不平など口にしない。
道が緩い登り坂に差しかかり、父親は少しだけアクセルを踏み込んだ。タイヤのトラクションが増し、車がカーブに吸い付いて綺麗に曲がっていく。
「あ、そうそう」
娘が思い出したように言った。
「うちに着いたら、新しく買った歌を、聴かせてあげなきゃ」
忘れないようにと、つぶやいたのだろう。その声に父は微笑んだ。
「明日にすれば。ママだって眠ってるんだ。赤ちゃんもきっと一緒だよ」
「嫌よ。きっと今日、聴きたいはずだもん」
「どんな歌を買ったんだい。タイトルを見せてよ」
父親は明るく、質問した。
娘は待ってましたとばかり、返事の代わりに、ガサガサとビニール袋を触る音を返した。やがてミラーの右半分に、何か赤い物が映ったのが、感覚でわかった。
父親はもう一度バックミラーを見た。クレヨンで描かれた赤い花と、妖精の絵が見えた。
「可愛いね。ママと二人で選んだんだろ?」
「うん!」
絵が引っ込んで、代わりに娘の心からの嬉しそうな声と、小さな笑顔が見えた。
父親はさらに返事をしようと、口を開いた。
ぱあっと、不自然なぐらい明るく、車内が光に照らし出された。
ミラーに映る娘の顔から表情が消え失せ、目が見開かれていく。
怪訝に思った父親は、すぐに異変に気づいた。
父親の反応は早かった。ハンドルを握り直し、ミラーに注いでいた集中を、一瞬で前方へ引き戻す。
だが反射神経とは別の次元で、その光景は、やけにゆっくりと、そして鮮明に動いていった。
彼は声を出す事もできない。ただ傍観者のひとりとなり、起こる現実を見つめるしかできない。
ワイパーがぎゅっと鳴り、扇型に、フロントガラスに垂れる雨滴全てを、拭き取っていく。
次の瞬間、彼の目の高さに飛び込んできたのは、大型車の猛烈に輝く、フロントライトの光だった。
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