第31話 人間の進化
〈登場人物〉
アイチ……高校2年生の女の子。
クマ……アイチが子どもの頃からそばにいる人語を解するヌイグルミ。
進歩主義者……人間が時の経過とともにより優れた状態に進化するという考えの持ち主。
進歩主義者「人間や、その社会や歴史というものは、常に前に進んでいくものです。昨日できなかったことも、今日はできるし、明日にはなおできることが多くなる。どこまでもどこまでも人間は進化していく。なんと素晴らしいことではありませんか!」
クマ「進化ねえ。本当に人間は進化しているのだろうか?」
進歩主義者「明らかにしていますよ。まあ、ヌイグルミには分からないことかもしれませんけどね」
クマ「確かに、ちょっと分からないかな。人間はサルから進化したっていう話だけど、それじゃあ、今度は、どういう生物に進化するんだい?」
進歩主義者「ちょっと、ちょっと、何を言っているんですか。わたしが言っているのは、そんな生物レベルの話じゃありませんよ。これから人間が生物としてどうなるのかなんてそんな話は生物学者の領分でしょう。わたしが言う進化というのは、人間の精神の話です!」
クマ「なるほど、人間の精神の話か」
進歩主義者「そうに決まっているでしょう、まったく……人間の精神が進化しているということは認めてくれるでしょうね」
クマ「さあ、どうだろう」
進歩主義者「どうだろうって……歴史を少しでも知っていれば、そこに進化を認めることなどたやすいことじゃないですか。古代から中世、近代、現代と、人間は思想と技術を発展させてきた。特に近代ですね。17世紀から18世紀……偉大な時代だ。人間が理性的存在であることが高らかに宣言され、自由主義のもとで王が倒され、技術の面でも革新が起こった。これを進化と呼ばずして何と呼べばいいのでしょうか!?」
クマ「『変化』じゃないの?」
進歩主義者「単なる変化ではありえないことは、明らかでしょう。それともあなたは、近代よりも中世の暗黒時代の方がよかったって言うんですか? 何もかも神に隷属していたその時代の方が」
クマ「ボクは別にどちらがいいとも言ってないよ。ところで、ちょっと聞きたいんだけれど、キミは中世を暗黒時代と言ったけど、とすると、古代よりは中世の方が退化しているということになるのかな?」
進歩主義者「つまらない揚げ足をとらないでくださいよ……まあ、でも、それは認めざるを得ないでしょうね。古代よりも中世の方が退化していますよ。だからこそ、古代の人間性を取り戻そうということで、中世の終わりに、ルネサンスという運動が起こったわけですからね。わたしが言いたいのは、まあ、途中で多少退化していることがあったとしても、トータルで見れば進化しているということです。これは認めざるを得ないでしょう?」
クマ「科学や技術が進歩しているということは認めるよ。でも、人間の精神の方は果たして進化しているんだろうか」
進歩主義者「何を言っているんですか。科学や技術の進歩によって、人間の精神は豊かになっているじゃないですか。それを進化と呼ばずしてなんと呼ぶんです?」
クマ「昔と比べて、本当に人間の精神は豊かになっているのかな」
進歩主義者「なっています!」
クマ「キミの言う、精神の豊かさというのはどういうものだい?」
進歩主義者「精神の豊かさというのは、自由な発想、正確な知識、論理的な思考……まあ、そう言ったものでしょうかね」
クマ「つまり、物事をしっかりと考えることができるということだね」
進歩主義者「そう言ってしまうと雅味に欠けるような気がしますが、簡単に言えばそういうことですね」
クマ「ところで、物事をしっかりと考えることができるということは、ある物事についてしっかりとした答えを出すことができるということだとキミは思うかな?」
進歩主義者「思うというか、そんなの当たり前でしょう。答えが出ない営みを考えるとは言いませんよ」
クマ「そうすると、人間の精神がより豊かになってきたということは、人間がより多くの物事についてしっかりとした答えを出すことができるようになったということを意味していることになるね?」
進歩主義者「そうですね。そうして、事実そうなっていますよ。科学の力によって、日々新たなことが分かるようになってきているわけだから」
クマ「なるほど、ところでキミは、物事には、重大なことと、つまらないことがあることを認めるね?」
進歩主義者「いきなり何です? ……まあ、認めますよ」
クマ「もしも人間がよりつまらない物事についてはその答えを出すことができていたとしても、より重大な物事についてその答えを出すことができていなかったとしたら、もちろん、つまらない物事でも物事ではあるわけだから、それについて答えを出すことができていたらその分だけ進化していると言ってもいいかもしれないけれど、でも、褒め称えるほどの進化はしてないということになるよね?」
進歩主義者「まあ、そうなりますけど……人間が、重大な物事については答えを出していないって言いたいんですか?」
クマ「人間にとって、もっとも重大な物事、テーマとは何だろうか?」
進歩主義者「そんなこといきなり言われても……うーん……」
クマ「キミはどう思う、アイチ?」
アイチ「『人はどう生きるべきか?』とか、『死とは何か?』とかじゃないの? わたし自身はあんまりそういうこと考えないけど」
クマ「と言っているけど、キミはどう思う?」
進歩主義者「それは、まあ、その通りかもしれません」
クマ「じゃあ、人間は、これらの重大なテーマについて、しっかりとした答えを出しているんだろうか。出しているというなら、今すぐキミにそれを示してもらいたい。人はどう生きるべきか、死とは何か」
進歩主義者「ちょ、ちょっと待ってください……何だか話の筋がおかしくありませんか?」
クマ「何もおかしくないと思うよ。人間にとって一番大事な問題が、生と死の問題であるということはキミも認めるだろう? あるいは、これ以上に大事な問題が他にあると言うなら示してもらいたいものだけど」
進歩主義者「いや……いいえ、ありませんね……」
クマ「人間は生と死にまつわることではない些末な問題は解決してきたかもしれないけれど、肝心の生死にまつわる問題は何も解決してない。ということは、進化していると言っても、大した進化じゃないって言えるんじゃないかな?」
進歩主義者「まあ、そういう言い方をしてしまえば、そうかもしれませんが……いや、しかし、人間は迷信から醒め、様々な病を克服し、民主主義社会を実現し、上は天体から下は素粒子のことまで正確に知ることができるようになったじゃないですか。どうしたって、これは進化であるように、わたしには思われますが」
クマ「科学や思想や技術の発展というのは、よりよく生きるために為されるものだね?」
進歩主義者「そうですよ。もちろんです」
クマ「でも、そもそも人はどう生きるべきかということが先に決まっていないと、よりよくも何も無いはずじゃないかな?」
進歩主義者「…………」
クマ「なるほど、人は昔よりも迷信から醒めて、長寿になったかもしれない。しかし、だからと言って、人はどう生きるべきか、死とは何か、というこの根本的な問題に関してほんの少しでも利口になったとは思えない。それが証拠に、キミが進化と呼ぶ科学技術によって、クローン、出生前診断、安楽死、脳死などなど、新たな生死に関する問題が浮上しているじゃないか。それらの問題が問題であるのは、生死についてしっかりと考えずに、技術ばかり発達させてきた証拠じゃないかな」
進歩主義者「では、人間は進化していないと、あなたはそう言うんですか?」
クマ「マイナーチェンジはあったかもしれない。でも、基本的なところは、まったく変わっていないと言っていいね。相も変わらず、生きる意味について考えず、何となく生きて、相手を見つけ、子どもを作り、社会的なことに従事して、死んでいく。それだけだろう? このどこに進化なんてあるんだい?」
進歩主義者「いや、納得できない! 人間がただそれだけの存在だなんて! 歴史は前に進んでいるんだ。あるいは、あなたの言うように、今まではまだ進化していないかもしれない。しかし、これからきっと進化していくはずです!」
クマ「そのためには、まず現状を正しく認識する必要があるだろうね。人間は、ほとんど進化していないというこのことをね。それを認識することなしには、進化なんてありえない」
進歩主義者「しかし、人間が進化していないなんて、そんなの、よっぽど寂しいことじゃありませんか?」
クマ「さあね、ボクは人間じゃないからね。アイチ、キミはどう思う?」
アイチ「うーん、別に、わたしは人間が進化していようといまいと、何とも思わないけどなあ。だって、人間が進化していようといまいと、わたしが生きて死ぬっていうことに変わりがあるわけじゃないでしょ」
進歩主義者「…………」
クマ「アイチの言った通り、人間がどうであろうと、自分が生きて死ぬっていうことに変わりがあるわけじゃない。それはつまりね、自分の生き死にについては自分で考えなくちゃいけないってことだよ。そういう認識を個々人が持つことこそが、人間全体の進化につながるんじゃないかな」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます