Valentia

藍原ソラ

春の章

第1話・Primero(始まり)

 昨日までの春めいた陽気がまるで嘘のように、朝の空気はしんとは冷え込んでいた。

「……わぁ、やっぱり今日寒い……」

 小屋の戸を開けて外に出かけたウェルチは、そう小さく呟いて踵を返し、屋内に戻る。戸の横の外套掛けから厚手のショールを手に取って羽織ると、改めて外に出た。

 冬から春へと移り変わるこの季節。日々近づいてくる春の足音に浮き足立つ季節ではあるが、同時に気候が安定せず体調を崩しやすい季節でもある。

 それは町中だろうが森の中だろうが変わりない。

 豊かな自然だけが特色の小さな国。その国の中でも辺境にある町からも歩いて三十分ほどかかる森の奥にぽつんと建った小さな小屋。そこでウェルチは一人で暮らしていた。

 幼くして両親を亡くしたウェルチを引き取って育ててくれたのは、地元の領主は元より、遠方の貴族からも絶大な信頼を寄せられていた薬師の祖母だった。

 その祖母も半年前に亡くなってしまった。この小さな家とそれから自宅裏にある作業場、そして祖母から受け継いだ薬師としての技術が、ウェルチに遺されたものすべてだ。

 ウェルチは自宅の裏手にある作業場に入ると、精製した薬や薬草の在庫確認を始めた。

 こういきなり冷え込むと、体調を崩す者も少なくない。町人や領主から薬の調合依頼があるかもしれないから、備えておいた方がいいだろう。

 ふと、作業台の上に置かれた手紙に目が留まる。その宛名に書かれた『リコの森の魔女殿』の名に無意識に目を細める。

 祖母がそんな風に呼ばれるようになっていたのはいつからだろう。祖母が亡くなる数年前から薬師の仕事に関わっていたウェルチもまた、祖母と同じように呼ばれるようになっていた。

 リコの森に住む薬師の調合する薬は、まるで魔法のように効くという話からそんな二つ名がついたらしい。

 魔法なんておとぎ話の中にしか存在しないのにおかしいね、とウェルチは苦笑を零す。

 その二つ名に敬意と、それから微かな畏怖が混じっていることに気付かないほどウェルチも子供ではなかった。

 森の奥で生活していて得体が知れないところがあるのも、こんな二つ名がついてしまった原因のひとつなのだろう。けれど、そんなことがほとんど気にならないくらい、ウェルチはこの森が気に入っていた。

 自然豊かなこの国の中でも、こんなに緑あふれた森はなかなかないだろう。冬でも緑が枯れることはなく、年中薬草やハーブを手に入れることが出来る。

 薬師にとっては、宝の山のような森だ。もしこの世界に魔法があるとしたら、この森は確かにその力で満ち溢れているのだろうと思わせるほど生命力豊かな森。

 親しくしている領主からは町に住まないかと誘われたこともあるけれど、ウェルチはここから離れるつもりはなかった。生活用品だって週に一回町に買い出しに行けば事足りる。町で生活するよりも厳しい環境かもしれないが、ウェルチ自身は不満を覚えたことはない。

 そんなことを考えつつ、棚の下の方の薬草をチェックし立ち上がる。すると、不意にぐらりと視界が揺らいだ。反射的に近くのテーブルに手を付き、目を閉じて眩暈をやり過ごす。

「やだ、立ちくらみ……」

 ふうと小さく息を吐くと、ウェルチはよしと気合を入れて顔を上げる。

 薬を調合しようにも、在庫がいささか心許ない。ここよりもさらに森の奥に調達に向わなければならないから、今日は忙しくなりそうだ。

 森の奥に向かうならば準備をしなければと作業場から出たウェルチは、家の玄関前でどこかそわそわとした様子で佇む人影を目にし、数度瞬く。その人物は、ウェルチもよく知る人物だった。

「……ティオ、さま?」

 リコの森一帯も含めた近くの町を治める領主の三番目の息子の名前を呼ぶと、青年がぱっと顔を上げた。

「ウェルチ!」

 ウェルチはティオに歩み寄りながら、周囲を見回す。ティオ以外、誰の姿もない。お供もなく、ひとりで来たらしい。

「どうかしましたか? こんなところにおひとりで……気管支の薬ですか?」

 ティオは幼い頃は体が丈夫ではなく、特に気管支を患うことが多かった。そのため、祖母に連れられて薬を届けに行くことも多々あったのだ。

 だから反射的にそう尋ねていたのだけれど、ウェルチの問いかけにティオが困ったように微笑んだ。

「今は丈夫だよ。ウェルチも知ってるでしょう? それに具合が悪かったら、僕はここには来れないよ」

 それもそうだ。何だか間の抜けた質問をしてしまった。

 だが、ティオは王都近郊の貴族と比べれば質素な暮らしぶりだとはいえ、貴族の一員である。町中ならまだしも、こんな森の奥までお供も連れずに出歩くのはいささか不用心なのではないだろうか。

 そう思って伝えると、ティオは不思議そうに瞬いた。

「でも、ウェルチはひとりでここに住んでるじゃない」

「わたしとティオ様じゃ、立場が違います。こんなところにひとりで来ちゃいけませんよ。危ないじゃないですか」

「立場なんて関係ないよ。男の僕がひとりでここに来るのが危ないなら、女の子がひとりで住んでるのだって危ないよ~。それに、今日ここに来たのは僕の個人的な用事のためだしね」

「……個人的な用事?」

 ティオの言葉で一番気にかかった言葉を繰り返し、ウェルチは首を傾げた。途端に、ティオが気まずそうにふいっと顔をそむける。

「……ティオ様? あ、薬の調合依頼か何かですか?」

 個人的な用事、と言われてもウェルチは薬師だ。ティオが用事があるとなると、それくらいしか思いつかない。具合が悪くなくても、薬の調合を依頼することもあるだろう。

「ええっと……そうなような、でもそうじゃないような……」

 どうにも歯切れが悪い。ウェルチは思わず眉をしかめた。

「……ティオ様?」

 ウェルチの様子にティオは意を決したようだ。銅褐色の瞳がまっすぐにウェルチを見つめてくる。その瞳の強さに、ウェルチは思わず息を呑んでいた。

「ウェルチ!!」

「は、はいっ!!」

 ティオの勢いに気圧されて、背筋をぴっと伸ばす。

「うちの父が母にプロポーズする時に使ったという、勇気の出る薬を下さい!」

「……はい?」

 完全に予想外のその申し出に、ウェルチの目は点になったのだった。

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