カンヌ

「ただいま」

「おかえりなさい」

玄関で、上着を脱ぐなり問いかける。

「さくら、リツくんって知ってる?」

「…ええ、山田さんの弟さんの?」

「うん。会ってたの?」

「お客様だから…怒ってるの?」

「怒ってる訳じゃないけど…」

はぁ。ため息をつく。

「もう会わないから大丈夫よ」

「それが会うんだよ。近々家に来る」

「え?どうして?」

「うちのコンサルになった」

「そーなんだ…おいしいもの作らなくちゃね」

嬉しそうなさくらの後ろ姿を見て、あぁ、またこの人の悪いクセが出てきちゃった…と僕は頭を抱えた。



最近は平和に過ごしていたからうっかりしていたけど、あの人は放っておくとすぐにとんでもない事を連れてくる。

レンタルおばさんのバイトも本当は反対だったけど、さくらがどうしてもって言うから…。なんか、頑なに許さないのはちょっとカッコ悪いというか、器が小さいというか…

今までいろいろあったけど、不思議なことに最後はいつも丸く納まって、さくらは必ず僕の元へ帰って来る。その後、仲間が増えていたり、生活が充実したり、なんかいい方向へ人生が向かう。


そういえば、あの時もそうだった…




「カンヌ国際映画祭に誘われたんだけど行ってみない?」

「………ん?何の話?」




幼稚園に子供を送り届けた後、「ママ友」が苦手なさくらは、少し遠くの喫茶店へ行きコーヒーを飲みながら本を読むのが日課だった。そこに週一度やってくる老紳士と言葉を交わすようになったと言う。


「おはよう、さくらくん」

「おはようございます、土方さん」

「早速だけど今日はね、お願いがあるんです」

「はい、どうされましたか?」

「カンヌ国際映画祭に一緒に行って貰えませんか?」

「えっ、カンヌですか?」

「そうです。夫婦で招待されているのですが、妻は体調が思わしくないので行けません。代わりに行ってくれる子や孫もありませんし、どうしたものか困っています。女性同伴で行くのがマナーですし…さくらくんが一緒なら、華やかでいいなぁなんて…」

老紳士は少し照れたように笑った。

「わ、私で大丈夫でしょうか?」

「もちろん。フランス語もお分かりだし適任でしょう」

「とても素敵なお誘いで嬉しいのですが、うちには小さな子がおりまして、子供を置いていくのはちょっと心配です…」

「もちろん、お子さんも一緒に。ご家族みんなで行きましょう」

「本当ですか?」

「ええ、あまり学校や会社を休むのも良くないでしょうから、3日ほどだけ付き合っていただければありがたい」

「そうですね…わかりました。主人に相談してみますね」






「土方さん?」

「そう」

「騙されてない?その人、何者なの?」

「よく知らないの。もう現役は引退していて、会社を経営されていたみたい」

「でも、カンヌに招待されるって普通の人ではないよね」

「そうね。すごく上品だし、いつも黒塗りのハイヤーでいらっしゃるの。悪い人ではないと思うけど…」

土方って、あの?まさかね…

「君は行きたいの?」

「うん、行きたい!だって、カンヌに行くチャンスなんて滅多にないよ」

そう言って嬉しそうに笑った。

僕は、この笑顔にかなり弱い。そんなに瞳をキラキラさせないでよ。

「わかったよ、有給申請する。でも、土方さんがどういう人なのかちゃんと聞いてきて」

僕はさくらに名刺を渡して、相手の名刺を貰ってくるように頼んだ。


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