【42】おいしい朝ごはん
眠れた。起きて、カーテンを開けた。朝の日差しが心地よくて、心地よかったと思ったことを覚えておいた。あの人、多分、聞いてくるから。
しばらく日差しで体を温めて、あくびが出て、顔を洗いに行った。歯も磨いた。着替えはしなかった。
リビングには朝食べるようにって副会長が置いていったおにぎりが三個。半透明の入れ物に入っていたから、一個だけ取り出した。これ、タッパーって言うんだっけ。便利だな。
そばにはお湯を入れるだけで完成する味噌汁もある。湯沸かしポットを見つけて、水を入れた。小さなランプが点滅してる。少し待とう。
みんなも朝ごはんを食べてから来るって言ってた。おれを急かさないよう、気を使ってくれたんだ。みんな優しくて、おれのことを大事に思ってくれてる。心配してくれてる。
その気持ちが痛いほどわかるから、どうしても言い出せない。
本当のおれは、そんなにちゃんとした人間なんかじゃない。会長はいつもおれのこと、しっかりしてる、頼りになるって言う。でも違う。おれはのらりくらりと流されてるだけなんだ。
言葉が遅いのは、考えてるから。何を考えてるかと言えば、否定されない意見、だ。相手が何をしたいか、その場その場で流されて、ついていけるように、言葉を選んでる。
たまに、思いついたまま意見を言ったら、ほとんど通用しない。会長は話し合いに付き合ってくれるし、おれの意見を聞いてくれる。そういう時、言ってよかったなって思う時もあるけど、やっぱり会長の意見に流される方が楽だなって思う時もある。どっちつかず、のらりくらり。それなりに、やってた。
二学期に入って出会った加賀見は、そんなおれを許してくれた。
だらしのないおれの生き方。常に誰かの意見に流されてたおれを、もっと押し流してくれた。加賀見の隣にいたら、何も考えなくても、加賀見がさっさと意見を言ってくれるからすごく楽だった。
甘えてた。加賀見にも、生徒会のみんなにも甘えてた。
だから、今。おれは自分の意見を言うっていう行動が起こせないでいる。
考えても、考えても、言葉が出てこない。心配されて、気遣われて、優しさを感じて、申し訳なくて、でも、それでも、声が出せない。ずっと、ぐるぐる、堂々巡り。
甘えてた罰。これは他でもない、おれに向けられた罰なんだ。
インターホンが鳴った。まだ湯沸かしポットは点滅したまま。時計は八時過ぎを指している。予定よりずいぶん早い。
着替えもしていないけど、仕方ない。玄関に向かう。裸足で歩くとぺたぺたと情けない足音がした。
扉を開けると、会長が立ってた。一人。難しい顔。
「……おはよう。調子は、どうだ? 首を振って、でいい」
意思表示の仕方については、昨日決めたんだ。おれは首を縦に振った。
「そうか。良かった。入ってもいいか?」
難しい顔がちょっとだけ緩んだ。おれは身を引いて、会長を招き入れた。
廊下の途中で湯沸かしポットの沸騰を知らせるアラームが聞こえてきて、会長がおれの顔を見る。一回だけ頷いて、リビングまで案内した。
テーブルの上にはおにぎりと味噌汁のカップ。点滅をやめた湯沸かしポット。
「食べてたのか。邪魔をして悪かったな」
沸かしてたから大丈夫です、と言いたいのに言えない。
「誰か来る前に話をしたかったんだが、出直そうか」
「!」
せっかく来てくれたのに、いやだ。おれは何度も首を横に振って、会長の服の裾を掴んだ。
「……わかった。じゃあ、食べながら聞いてくれるか?」
そう言いながら、会長は並べてある椅子のひとつを引いた。おれはのそりとそれに座り、会長が隣に座るのも確認した。
「よし。先に味噌汁を作ってしまうか。箸は……あった。ほら」
まるで母親みたいに、甲斐甲斐しく世話を焼く会長を初めて見る。箸を受け取りながら、会長の動作を追う。
即席味噌汁と書かれたカップの蓋を開け、袋に小分けされた中身をひとつずつ確かめる。カップの側面に書かれた作り方は、袋を全部カップの中に出してお湯を注ぐだけと書いているらしい。
会長はきっと、おれが沈黙を恐れているって思っているんだ。味噌汁が出来上がるまで、作り方や具のことまで指摘して、喋り続けてくれた。
差し出された味噌汁は美味しそうで、会長に深くお辞儀をしてから手を合わせた。
「おいしいか?」
「……!」
「最近はなんでも便利なんだな。湯を注ぐだけでできるなんて」
おにぎりを頬張り、味噌汁をすする。日本らしい食事。会長の言う通りだ。
「そのおにぎりは食堂で握ってもらった特製だ。普段は機械で俵型にすると言っていた」
そうなんだ。手に持っている三角のおにぎりは角がひとつなくなって、鮭があらわになっている。
「話は食べてからだな。ゆっくり食べてくれ」
会長はもう難しい顔をしていない。おれはゆっくりおにぎりを味わった。
手を洗って戻ってきて、同じ椅子に座った。さっきはテーブルに向かっていたけど、今度は隣の会長と向き合っている。
昨日、ずっと話をしてくれた先輩のように、手を繋いで話をしようって会長が言った。嫌だと思ったら手を握る。そうしたら、話を辞めるからって。
頷いたら、手を差し出された。触れて、重ねて、あ、と思う。
昨日と全然違う。
「……横塚? どうした?」
先輩の手は小さかった。でも、強かった。寄りかかってもしっかりしていて、繋いでいるだけで安心できた。甘やかしてくれていた加賀見とは違う、安心感だった。なにをしてもいいよ、なにもしなくてもいいよ、と、おれの意思表示を待ってくれていた。
会長の手は大きいのに震えていた。そうか。手を繋ぐってこういうことなのか。先輩は自分の感情を伝えてこなかったから、おれだけが感情を渡すことができたんだ。
顔を上げると、会長は最初に扉を開けて迎え入れた時と同じ難しい顔をしていた。
「大丈夫か?」
じっと、会長の顔を見つめてしまっていたみたい。だって、会長がそんな顔してるから。
とりあえず頷いた。会長の指、多分、人差し指が、おれの手にくっとくいこんだ。
ああ、なんとなく、わかった。だっていつも隣で会長のことを見て、意見を考えてた。会長が否定しない意見。会長が今、何を考えているのか。考えて導き出す。
今の会長は緊張してる。きっと、おれのことを責めようとしてる。どうしよう。手を握る?
「……横塚、すまなかった」
しっかりと目を合わせたまま、会長はそう言った。え。意味が理解できなかった。叱責がくるかと思ったから、それ以外の言葉が入ってこなくて。
「わかったんだ。誰がお前を追い詰めたのか。でも大事なのは、今、お前が守ってくれているものだと思ってる」
何を言ってるんだろう。
「いつも横塚には助けられている。今この瞬間も、そうなんだろう。だが、もう大丈夫だ」
違うよ。会長。違う。おれはただ、甘えて、逃げて、その罰を受けてるだけなんだ。
「俺にもようやく覚悟ができた。頼りない俺をここまで耐えて、支えてくれてありがとう」
そんなことない。会長はいつもしっかりしてて、みんなのことを考えてて、その隣でその意見と一緒に動くのが、おれも、みんなも、誇らしいんだ。
「……脅迫の内容は、盗難に関するものだと聞いた。俺たちには盗めない。身の潔白は明らかだ」
「! っ!!」
手を握る。強く強く握りしめる。
「盗めない理由は、生徒会室に入れなかったから。それを証明するということは、俺たちが仕事をしていなかったことを自白するということだ」
どうして。だめだよ。
「だから、言えなかった……いや、言わなかったんだな?」
違う。
「脅迫してきたのは、高井先生だ。生徒会顧問を務める先生に言うわけにはいかなかったんだろう?」
違う、違う。
「そもそも俺が生徒会長としての責務を怠ったことが原因だ。責任は俺にある。だから」
「……ッがう!」
息を吐き出す音に、声が乗った。喉が震える。目尻が熱くなっている。
「はっ、はぁっ」
「横塚……」
「う、がう、ちがい、ます」
「すまない、言いすぎた。落ち着いてくれ」
「うっ……ううっ……」
泣きたいわけじゃないのに涙が勝手に出てくる。しゃくりあげる息が続き、うまく吐くことが出来ない。知ってる。これ、過呼吸になるやつだって、前の会長が教えてくれた。
「う、うっ……ひ、」
「大丈夫か? 息を……そうだ、息をしっかりしろ。いつも言ってるだろう?」
「ひっ……は、ひゅっ、ひっ……っう」
「大丈夫だ。大丈夫。ゆっくりでいい。はぁ、はぁ」
「はっ……はっ……はぁ……」
繋いでいた手は背中を強く撫でてくれて、その上下に合わせるよう、息を吐く。最初は早く、でもおれの呼吸を導くように、ゆっくりに変わる。
涙は止まらないけれど、一度深く息を吐くことができた。
「すまない。俺がやることはいつもこうなる」
「はぁ、はぁ。そ、な……こと……」
「無理はするな。息は続けろ」
命令口調なのに、その声音は綻んでいる。涙で滲む視界の中の会長は、ああ、笑ってた。
目が合うと、笑顔はくしゃりと歪んだ。
「悪い、お前の声が聞けて、嬉しいんだ」
「ひど……」
「ああ。俺は酷い。ごめんな」
少しづつ、会長の言葉が崩れていく。
「こんな方法で話させたってバレたら、昨日のあの、わかるか? 親衛隊のあの先輩。あの人にすごく怒られる」
「……ん」
「注意は受けてたんだけどな。でも、はは。良かった。良かった……」
そう言って、会長は背中を撫でてくれていた手でぐっと身を引き寄せてくれた。
「良かった」
「……な、かないで、ください」
「いいだろう、誰も見ていない」
「……はい」
おれと会長に体格差はない。なのに、ぎゅっと懐の中におさまって、深呼吸して、目を閉じると、小さい頃、父親にそうやって抱きしめられたことを思い出した。
やっぱり、会長は頼りがいのある人だ。優しくて、強くて、かっこいい。こうして一緒に泣いてもくれる。
うん。涙が止まったら、ちゃんと言いたいことを言おうと思った。
会長がおれの寝室に置いてある箱ティッシュを持ってきてくれて、それで鼻をかんでいるうちにキッチンでタオルを二枚濡らしてきてくれて、それを二人で赤く腫れた目に当てて、はあっと長いため息を吐いた。このあとみんな来る。この目の腫れを残しておくわけにはいかない。会長の視線はけっこう真剣だった。
「会長も怒られたくないんだなぁ」
と、思っていたことが声に出ちゃってたみたいで。ついさっきまで全然話せなかったなんて思えない。
「誰だってそうだろ」
「そ、ですねぇ……」
暗闇の中から聞こえてきた言葉には棘がないから、素直に同意できた。そうだよ。怒られるのはやだ。
でも、そうじゃない人もいる。だからおれの対応は失敗だったのかな。
「会長、さっきの話、ですけど」
「ん? 急がなくていいぞ。あ、でも、全員揃ってからだと話しづらいな」
会長は、無理はするなと念を押してから待ってくれた。
「はい。さっきの。会長が言ってた話、あれ、あってます。高井先生、が……その……」
「そうか、やっぱりか」
「でも、ですね。あの……実は……」
「言いにくいならいい」
タオルを目に当てたままのおれの手に、会長の手が触れる。暗闇の中で感じるその温かさは、おれの意思を尊重してくれる。
確かに、言いにくい。今まで言おう言おうとして言えなかったこと。どうしても、言えなかった。寄り添ってくれていたあの先輩も、言えないならいいんだよ、でも待ってるよ、と俺に伝えてくれていた。
そう。待ってくれている。おれの意思表示を待ってくれている。それは会長も同じだ。
「……言います」
「ああ、わかった。聞こう」
「実はその、脅迫……脅迫……脅迫を……」
「うん」
「……無視、してたんです」
「…………ん?」
わかる。タオルで真っ暗な視界の外側。触れている会長の手からわかる。会長の顔。きっと、うん。すごく困ってる。
「……横塚、今の」
「はい」
「もう一度いいか?」
うん、うん。一度吐いた言葉は取り消すことができないし、訂正もできない。言い訳するつもりもないから、つまり、繰り返すしかない。
「……無視、してました」
「…………無視かぁ……」
噛み締めてる。
「そうか、うん。……わかった」
「おれ、あの。いま、会長が言いたいこと、わかってる、つもりです」
「……そうだな、飲み込んだ理由もわかってるか?」
「はい」
「わかってるならいい。正直お前を問い質したいという気持ちもある、が、今やるべきは高井先生の対処だと思っている」
「……はい」
「俺に何ができるか、それは確約できない。だが、もう二度と辛い思いをさせないよう努力する。高井先生を何とかしたあと、改めて話をしよう。いいな?」
「はい。おれ、ちゃんと話します。何があったか、何をしたか……何をしなかったか」
「ああ。俺も同じだ。何をして、何をしなかったか。お互い、悪いところがあった」
「おたがい……お互い、ですか?」
タオルを外し、会長を見る。優しい顔で俺の事を見ていた。
「そうだ。俺だってお前と同じ子供なんだから、悪いこともするし、悪いことをしたら反省する。って、これは大人子供関係ないな」
笑ってる。
「悪いことをしたって気付いたんだ。あとは反省をして、どう行動で示すか。それが大事だ。お互いがんばろう。一緒だと心強いだろう?」
「……はい。ありがとう、ございます」
「よし」
「わ、わわっ」
会長の大きな手がおれの頭をぐしゃぐしゃっと撫でる。
「よくがんばったな。もう少し、がんばろうな」
その言葉はおれに向けられていると同時に、会長が自分自身に言い聞かせている台詞なんだと気付いた。
がんばろう。会長はこれから、あの高井先生と向き合うのかな。それっておれのためなんだよね。だったら、おれもしっかりがんばろう。会長もがんばるんだから。
まずおれががんばらないといけないこと。
おれのために時間を使って、おれのために寄り添ってくれたみんなに、ちゃんと自分の言葉で自分の意思を説明して、謝ることだ。大丈夫。もう甘えない。
今日もいい天気で、いい天気だからご飯も美味しい。
うん。まずは、それからでいいよね。
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