Blind I《ブラインドアイ》 ~1~
社 光
プロローグ
使命
「まむぇ」
冷めきったコーヒーの味というのは人間に不快感を与える手法の中でも割と上位に入る。どれくらいの時間がたったのだろう。店先の看板に反射していた太陽は姿を消し、店内には自分と文庫本を熟読する学生、と独りのアルバイトだけであった。時計に目をやると短針と長針はちょうど天地に真っ二つに分かれている。まぁもう11月
だ、暗くなるのも早くなぁああああ!
「6時!?もう6時かそんな!?」
ソファー席から跳ね起き自分の腕時計と裏付けをとっても壁掛け時計の無実が証明できただけだ。PEN《パーソナルエレクトロノート》の保存が終わっていることを確認するとテーブルの上に露店のごとく広げられた仕事道具をカバンに流し込み入口に駆け出した。学生は急な人の動きに驚いたようだったがバイトには見慣れた光景なのだろう。
「1560円です……」
眠そうな声を絞り出してマニュアルを守った彼に応えて端末に電子時計を押し当てて会計を済ませた。文字盤の下にある電子カウンターが残高を知らせる。自動ドアのマイペースな開閉に苛立ちながらしながら外に出るとあたりの明かりは全て街頭に切り替わっていた。
「連絡した方がいいか……いや、」
自分の提案をすぐさま本人が却下し代替案の提出をその当人が待つという無駄な時間が流れてしまった。すぐさま行動に移らなければ手遅れになる。給料日前の懐事情は当てにできずすぐさま最寄りの駅に走るのが最善策に思えたが、思い立った瞬間自分の持ち物に加わっていなかったそれの存在を思い出し店内に戻った。バイトが自分が座っていたテーブルからそれを拾い上げているのが見える。
「返してください!」
大声で彼を制止して握られていたものを取り上げる。怯えと不服の混ざった微妙な表情が視界の端に移りこんだが脇目も降らずスタート地点まで戻ると環状線の駅まで猛ダッシュした。まぁ結局、
―ゴウン―
間に合わなかったんですけど。時刻は18時32分、産民新聞広報部、サンミン新聞社、およびそのテナントビルは11月28日の業務を完全に終了したった今入り口のシャッターと閉鎖したところであった。
「あぁ、やっちゃったか」
今月では初めて、入社から7回目の資料提出遅れだ。これは明日室長に何を言われるかわかったもんじゃないな。まぁ原因は日毎に終業時刻が変わることなんだけど。
「まぁ写真一枚大したことは…あるよなぁ……」
来月発売のグルメ系雑誌のための物撮り。寄りにもよって締め切りの日の昼過ぎになって店の前の道路の画が欲しいと言われ撮って来たはいいものの…
「明日の朝一番で謝るしかないなこれは」
全くもって納得はいかないが仕方がない。明日の朝8時の始業に間に合わせるためにも早く帰りたいところであったが先ほどの睡眠による失敗で自信を失い確実な手段を求めた僕はより安全な方法で夜を明かすために歩き始める。今この時はいくらでも残業ができた時代が正直羨ましく思え、同時に自分がいかに恵まれた境遇なのかを改めて認識させられる。無論この状況では皮肉にもならないが。
冷え切ったコンクリートを踏みしめ視界の端でせわしなく行きかうフロントライトと家路に急ぐ人々を見送りながら僕はあの日を迎えようとその日を終えた。
慣れ親しんだ騒音で目を覚ます。イヤホンを外し机に突っ伏した両腕を引きはがし軽く伸びをしようと試みると無理のある姿勢で静止した時間の代償が一気に体に襲い掛かってきた!
「おぐぉぉっ……」
自分で自分とは思えないような声を出しながら静かに悶絶するも今いる場所のことを思い出し沈黙を維持しようと必死に我慢した。独占営業禁止法が出来てからも公立図書館だけは開いているのは本当にありがたい。
時刻は6時28分、図書館の最寄から本社は環状線二駅分の近さだ、シャワーを借りて表の売店でコーヒーをもらっても十分余裕をもって出社できるだろう。PENを取り出し、昨日寝る前に拵えた室長への謝罪文を見直し、今日の自分がどのようなプログラムで不快な思いをするのかのおさらいを始める。部署室の扉を4ノックだの全員の前でのミスの読み上げだのまるで昭和時代だよこれは…。
「冗談きついな全く」
ここまでやってようやく出る効果が「小言を言われる期間が二週間ほどまで減る」というものだから素晴らしい。不始末の始末のほうが本来の業務よりも時間がかかってるのではないのか?頭の中の綿埃の様な疑念が集積する前に行動に移ろう。シャワーを済ませこんな時間から空いている売店で朝食のベーコンエッグサンドを調達すると昨日と同じ轍を踏まないようにさっさと出発することにした。
「今日も早いですねぇ」
退館に必要なマイナンバーを提示した際に職員が僕に言った、今思えばなんてことはない言葉のように聞こえてくる。
「そちらも夜通しお疲れ様です」
カードを受け取った手は触れ合わずとも言葉を交わしあいお互いの温度を確かめ合う。このような交流だけが絞首台に向かう心持の自分には癒しであった。出口のガラス戸の外には冬場の澄んだ空気と明けかけた夜の残り香を感じる。
「寒いなぁ……」
ビルの間で圧縮された北風に身を裂かれながらも謝罪会見の為のリハーサルは頭の中で繰り返されていた。自分の尊厳を守るためとはいえ我ながら殊勝なことだとは思いつつも長かった案件の終わりも見えたことでウイニングランにも似た達成感も感じるのは複雑だ。駅に向かって歩を進め、僕は最後の会社員生活のスタートを切った。
時計は朝7時を指し示す。朝のニュース番組では電車の運行状況をお知らせしているであろう時間に僕は今まさにその場にいる。
「はぁ……」
吐く息の白さと足もとから吹き上げる寒風が気持ちをはやらせた。掲示板の時間は更新されずいたずらに列ばかりが伸びてゆくことに焦りを感じ始めた矢先、背後から自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「戸越さーん!戸越誠二さーん!速電のお呼び出しが入っておられます!戸越誠二さーん!」
駅の回線で呼び出しができるのは法人と役人だけだ。後者に覚えがない以上自分に用がある人間は一人しか思い浮かばない。
「仕事熱心すぎだろ野郎……」
口元で罵った相手からと思われる電送を受け取るために駅員に名乗り出る。列を外れ下層階のコンコースに戻ると改札付近の電信室に案内された。ここで説教を食らうのは二回目だ。
「5分ほどでお済ませいただけると助かります」
遅延の影響で回線が込み合っているのだろう。でも心配しないで駅員さん、多分1分ほどまくしたてられて続きは30分後♪的なオチだから。重たい受信機を引き上げて今自分にできる最大級の愛想を込めた声で第一声を発した。
「ハイお待たせいたしました!サンミン新聞広報課の、」
「戸越か?」
鼓膜を揺さぶったのは忌々しい上司ではなくどことなく懐かしさを感じる薄らぼんやりした声だった。
「俺だ木賀だ、大学の頃同じ専攻だった」
同門の先輩を名乗ったその声は息を切らし語調には焦りが感じられる。
「木賀さん、どうしたんですかいきなり電信交換なんかで連絡なんて」
昔かかってきた電話といえば出席代行の頼みか合コンの誘いくらいであった悪友から1分2000円もする駅の電信機での連絡など想定外中の想定外だ。呼びかけに対しての返答がないまま1500円分の時間が経過し向こう側の雑音はなぜか一層強くなる。
「……け……」
「えっ、なんです?」
「早く行け!」
唸るような懇願。
「……ぅきょうに、東京に向かえっ!数列をもっ-」
大きな破裂音のような音が聞こえ交信が断たれた。電子音の向こうに彼がいないことを理解しつつ自分に投げかけられた言葉に対する疑問が次々に湧き僕は受話器を離せないままだった。
「東京……?」
ブースの扉が開け放たれ吹き込んできた冷気が足もとを伝って這い上がる。退出を求める駅員の声が頭に吸収されず、もやが思考と外界とのを遮り思考側に広がってくる。
―何故自分に連絡を?-
―何故彼が突然に?-
―何故、「東京に向かえ」と?-
喉が渇く。思考のもやが蒸気となって頭を茹らせる。電信室から出てホームへと戻るその足取りは重く一歩ごとに疑問はその濃度を増していく。上から車両の到着を予告するアナウンスが聞こえてきた。分からないことばかりだがそれでも今は目の前の仕事に集中しよう。出社したら室長に謝って写真を、
―――――――――――――――――――悪寒が走る
これは何の写真だ!?
何のために僕はこれを撮りに行った?
これは何だ?
胸ポケットをまさぐると今までに感じてこなかった違和感が体を駆け巡り、全身の毛穴から脂汗が噴き出てきた。こんなものに心覚えはない。なぜこれを僕は会社に持っていこうとした?長年使っていなかった空き部屋の窓が開け放たれたかのように、頭の風通しが良くなり冷却された血液が体内を駆け巡る。そして同時に感じ始めたこの感覚は怯えにも似ていた。写真は今ジャケットの胸ポケットにある。セロファンのシールドに包まれた手のひらサイズのそれを指先でつまみ上げようとした途中でのこの長考は紛れもなく僕の意思で尚且つ無意識化に行われているものだ。今なら断言できる、これに映っているものは老舗の喫茶店の外観写真などではない。
「―――っかはぁっ……」
意識が濁る。なぜこんなものを僕は持っている?なぜこんな、時に。
――朝の通勤電車とはしばしば奴隷船に例えられる。己の意思とは関係なく労働に向かう者たちを所有者の元に送り届ける様を揶揄したものであるなら、その比喩もあながち妄言とは断言できないだろう。しかし11月28日午前7時12分着発のこの車両に関してはその例えはこれ以上にないほどに的を得ていた。運ばれる者たちに己の意思などというものは存在しない。一定の金銭と引き換えに己の自由と魂を売り渡し彼らはまるで自動人形のように己の役割を果たすだけである。車両がホームに到着し今日の身売りに向かう会社員たちを出迎えたのは硬質カーボン製アーマーとフェイスカバーで全身を覆った真っ黒な人型の集団であった。
「おぉ」
列の先頭が声を漏らす。感嘆でも驚きでもない目の前の異形に対する無意識から発せられた単なる反射。が、男の口が閉じられることは無かった。ホームの寒気を一発の爆音が切り裂き周りの者たちが一斉に源に目を向けると、男の下顎から上にあった物体は列の後ろの者に降り注いでいた。
「え?」
自身の目の前で行われた仕事に彼らが反応し次の行動をとる前に、真っ黒な人型は握った散弾銃を引き後ろの仕事仲間に告げた。
「始めろ」
開け放たれているドアから光があふれ出る。火薬と衝撃は列をなす客たちのシャツを瞬く間に赤く染め上げていき、一人また一人とホームに倒れ伏していく。叫び声など上げる余裕はない。車両から次々現れてくる武装集団たちは何かを探すかのような視線で周囲を見回すが、その手のトリガーを緩めることは一切しない。ベルト式の機関銃を腰だめに構え̠火線を横に振る度に命を刈り取っていった。
「探せ、早い者勝ちだ」――
エスカレーターの方向から聞こえた銃声と悲鳴が意識を脳内から現実に引きずり戻す。思考は中断され体の支配権を一時的に取り戻すと、自分の置かれている状況がよろしくない方向に向かい始めていることを直感的に感じ取った。であれば次の自分がとるべき最善の行動についてもすぐに思いつく。だが先ほどまでの激しい脳内会議で振り砕かれたシナプスが体の制御を安定化するにはしばらく時間がかかりそうだ。
壁に手をつきながらなんとか体を支え、構外へ逃げようとする人たちの流れに合流しようと試みるが、恐慌状態に陥った人々の流れに押され再びタイルに膝をついてしまった。間髪入れずに駅員がホームとコンコースの間のセーフティーシャッターを閉鎖する。上にいる乗客を見捨てる行為だが聞こえる銃声の数からして生き残っている者はいないだろう。
「どうすりゃいい……これは」
体に力が入りきらず足元はおぼつかない。構外へのシャッターは閉鎖されてはいなかったが、その為に危険を理解しない者たちはすぐに外に出てると降り注ぐ弾丸によって地面に倒れ伏していった。開放型のホームからは、下の出口は格好の狩場に映るだろう。相当な過激派だ、だとしたらここにいたら間違いなく命はない。金銭や帰還の要求の材料にされること無く数時間後には死体袋の中に入ることになる。
目の前の守衛室から武装した駅員たちが出て来た。だが拳銃と簡易的な防弾着だけを纏った彼らの戦意は明らかに昂っていない。
「おいどうする気だ?!」
「どうもこうもないだろ!通報システムも動かないんじゃ」
「上から降りてくる前に行こう」
人の流れと逆行して彼らはこそこそと連絡用通用口に向かう。事態は明らかに保安要員の手におえる範囲を逸脱していたがそれでも利用者の大半が避難を終えていないこの状況では間違いなく適切ではない。
「おい、ちょっと!」
声を張り上げても悲鳴にかき消されてしまう。先に外に出たものの末路を知った人々が次に行く道を決めあぐねさらなる混乱に陥ろうとしている中、武器を持つ者たちは我先に暗い安息の道に吸い込まれていった。
「税金泥棒め……」
ここまで大それたことを行う連中であればシャッターを破る物まで持っているかもしれない。
「おーい!外は危険だ!こっちから逃げろ!」
誰も呼びかけには応じない、皆自分のことで頭がいっぱいなのだろう。無論僕も例外ではなかったが。
「ああ!くそ!」
大声が頭の中に反響してくらくらする。たとえ偶然に知ったことでも助かる方法を模索せず自ら考えることをしない避難者たちに苛立ちを感じた。そして壁に手をつきながら流れの端をすり抜けて彼らに背を向けて同じく通用口に入ったのだ。後ろめたさは当然あった。だが他の者にかまけて自分が命を落とすことはその時の僕にはとても馬鹿らしいことに思えたのだ。
通用口に明かりはついていなかった。駅員たちが慌てて通ったのか備品が通路に散乱していて今の自分には通り抜けるだけで骨が折れそうだ。背後では鉄を焼き切る音が聞こえ始め、僕は急いで目の前に続く暗黒に歩を進めた。
何分ほど歩いたか。今の自分には30秒も1時間程に感じられるだろう。後ろから追いかけてくるものは今のところいない、殺人者達も、逃げる人達も。曲がったり下ったりを何度か繰り返す内に足元に光が差し込む一角が見えた。隣接するビルの廊下につながる扉だろう。防火も兼ねた非常用扉はとても重く体を預けて押し開けた。
「くっは!」
眩しさにに目がくらむと同時に鼻腔の奥に生温い匂いが広がった。足もとに転がっている先達から流れ出ている物の匂いだ。通用口から逃げていった駅員たちは皆思い思いの格好で床に転がる。収縮した瞳孔が周囲の惨状を映し出すよりも先に真横から黒い影が伸び出て僕の首を掴み体は宙に浮いた。掴んだ元に引き寄せられ次の瞬間にはそのまま壁に押し付けられる。喉にこぶしが食い込み声にならない叫びが漏れても目の前の黒い影は一切力を緩めなかった。
「……――、―――……―」
顔のような部分の奥で何かをささやきながら一呼吸間が空く。すると彼は急に苛立ち僕の胸ぐらをつかみなおすと頬に冷たい物を押し当てた。時間が止まる。終わりの間際。一瞬が一億年にも感じられるような体感で僕は己の運命の脆さと愚かさを思い知る。
!!!
衝撃音と共に左側から飛んできた何かに自分を掴む影が吹き飛ばされ、その勢いで僕は地面に転がった。あれは、扉?先程の様な防火扉が真ん中で屈折し僕を掴んでいた兵士の脇に転がっている。
「―!」
突然の横槍に不意を突かれながらも影は即座に拳銃を構えなおす。が、吹き飛ばした扉の向こうから出てきた者は影が引き金を引くよりも早くに懐に入り込むと、奴の胸に強烈な右フックを叩き込んだ。次の瞬間破裂音と共に背中から真っ赤な羽が生え、そのまま影は膝をついたまま動かなくなった。
確実な命の危機から結果的に救われてなお僕は恐怖で動けずにいた。自分が奴と同じ目に合うかもしれないという可能性が大いにあったからだ。敵の胸に風穴を開けた彼の背中には特警の様な腕章や数字の類は確認できない。向こうの息の根を止めたことを確認したような素振りをしてこちらに向き直る。
鮮血のような二つの赤がこちらを見つめた。一切の慈悲も無くそれでいて機械の様な無機質さも無いどことなく幼い瞳。体の中で唯一露出した部分はその人が人間であることの唯一の証明であった。
「これで最後?」
マスク越しのくぐもった声で自分ではない誰かにそう問いかる。答えを確認したように頷くと、己では理解していないような自信のない声で続けた。
「そうなんだ……わかった」
手元から薬きょうを吐き出しこの場を後にしようとする彼を見て咄嗟に「待って!」と、何故かそう言いかけた。だが口を動かすための力を体からかき集めるころには気付いたら自分の周りには死体しか残っていなかった。全身から力が抜ける。行き場を失った言葉が「なんてこった」と姿を変えて口から這い出て、廊下の壁にもたれかかって自分がまだ生きていることを改めて確認した。
しかし次の瞬間血の気が引いた。通ってきた連絡路から足音が響いてきたのだ。半ばパニックに陥った僕は駅員の死体から拳銃を拝借し、入り口に向ける。引き金を引こうとした矢先、
「警視総庁特殊装甲一課だ!大人しく武器を捨てて降伏しろ!」
「っはぁ、警察……」
拳銃を床に放り投げ両手を上げる。最後警告を終え先頭の隊員が廊下に侵入すると同時に最後の力を振り絞って叫んだ。
「撃たないでください!サンミン新聞のっ」
……あれ?
……何かおかしい
……頭に浮かばない
胸に衝撃が走る。
僕は一体……
「こいつをどうしろと?」「本部に移送する、詳しく聞かにゃならんことがあるそうだ」
慣れ親しんだ騒音で目が覚める。目の前には見飽きた天井が広がり、枕に染み付いた自分の匂いに顔をしかめた。ベッドから体を起こすと二度寝の誘惑よりも虚脱感が押し寄せてきた。まるで映画だった。音とか血みどろとか。特に最後のはビビった。昔あったらしい3D とかそういうみたいなやつ。資料遅れも込みで現実でなくて良かったと思ったけど寝巻は汗を吸い込んで底冷えする部屋の中で風邪をひきそうなほどだった。
「シャワーして飯だな」
ようやく一日の始まりが訪れた。浴びて、洗って、食べて、磨いて、着る。大体これ。
時間にも気を配る。現実では早々遅刻なんてするなと己に言い聞かせている。富士山にも上れそうな万全の身支度で玄関を開けるときんきんに冷やされた冷気で体がズタズタにされそうだ。
「相変わらず冷えるな……」
予報では今日も雨にはならないらしい。電車は遅れなくてもわざわざアイゼンを出すのはめんどくさいので夜にこれ以上冷えるのは勘弁してほしかった。
駅に向かう道には自分と同じような人種が集まってくる。月曜日。まる一世紀以上会社勤めに忌み嫌われている曜日に、仕事場に向かう彼らの顔はお世辞にも明るいとは言えない。まぁ言ったら僕も仕事に向かう時の気分はナーバスそのものだ。確か今日は裏表紙に載せる広告の打ち合わせで先方に会わなきゃならなかったっけ?メールが使えればこんな面倒にはならないのだろうか。そういえば名刺入れにまだ名刺入ってたっけ?
「ん?」
胸ポケットに差し込んだ指先に名刺入れではない薄い感触。一枚の紙の様な。身にとんと覚えがなく不思議に思い取り出して物を確認してみた。
なんだこれは―
黒い背景が青い数字でびっしりと埋め尽くされている。7、45、31、12、6……、不規則に均一に並んだ数字の列に時分が吸い込まれるような感じがしたが、何故か目を離すことができない。すると、
”早く!”
誰かの声がして振り向くがそこに自分を呼ぶものはいない。
”これを!”
周りを見渡す。
”逃げて!”
誰だ!?
”東京に!”
なぜ僕に?!
吐き気とめまいが押し寄せてきた。路面と青空が逆転し、視界はまるで大荒れの波間のように揺れる。不快感に
行かなきゃ。向かわなきゃ。止めなきゃ。
無意識の中の自分が応える。僕に呼びかける声に。僕に乞う声に。
体中の血液が頭に集まってきた。頭に入りこむ数列から不鮮明な風景や誰が言ったかも分からない言葉、記号のままの情報が溶け込んできた。頭はパンクする寸前だ。路地の終わりに差し掛かり通りから光が差し込む。足がほつれて何度目かもわからない転倒をしてまた聞こえてきた。
「あ、あぁ…!」
”伝えて、あずまに!”
最後の声。何故だろう?何故これが最後なのだと……僕には分からない。
「ねぇ!ちょっと!」
誰かが呼び掛けてきた。優しく元気の良い声に情報の濁流が真っ二つに裂かれる。
「大丈夫!?ケガしてない!?」
脇腹を掴まれて体が起こされる。他と比べても軽い部類の僕の体でも、掴んだその手にはめいいっぱい力が込められて震えていた。
「立てそう?」
瞼の向こう感じたのは光と人影。目の前の光景が現実そのままであることを祈りながら目を開けると確かにそこには現実があった。
肩口まで伸びた灰色の髪。子供にでも話しかけるような口調で呼びかける口。そして濃いめのグラスの向こうで自分を見つめてくる瞳はまるで鮮血に浸された水晶のように鮮やかな赤だった。
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