第三章 寒月に太陽
一
平泳ぎ、という言葉がふと浮かんだ。
近くにそんなものは無いのに、プールの匂いがする。
つまり、夏だ。
素晴らしき季節――それは海。それはアイスクリーム。冷房の効いた部屋。図書館。喫茶店。
祈はついに思考を放棄して目を閉じる。
カラリ、と氷がグラスの中で退屈そうに身じろぎした。
「ちょっと」
こんな時でも唯一涼やかなのが――いや、冷ややかなのはイヴの声だ。
「暇なら手伝ってくれる?」
ユーフォリアには珍しく客が入っており、イヴはアトリエテーブルで何やら箱の山に向かっている。
「何だ?それ」
恐らくは仕事道具だろうが、祈は興味半分に訊いた。
「新しく入荷した商品よ」
か細い腕で箱から何かを取り出そうとしているのを見かねた祈は仕方なく手を貸した。
「――天秤、か?」
箱から出てきたのは厳重に梱包された秤だった。
「そこの上にお願い」
イヴがカウンター近くの棚を指した。
見ると新入りを飾る為のスペースがきっちり空けられている。
「壊さないようにね」
……まったく。
祈は慎重に天秤を移動させた。
事情を知らない客は祈のことを従業員だと認識しているに違いない。
客は全部で三人。
一人は月乃と同じ制服を着た女子高生で、残る二人は地元の奥様方だ。
そうしていると女子高生の方は何も買わずに出て行き、奥様方は手編みのレースをそれぞれ購入して退店した。
ここはゆっくりと時が流れる。
祈はもう見慣れてしまった店内を眺めては
カウンター席に戻り、すっかりぬるくなったアイスコーヒーを啜っていると話し声と共に店の扉が開いた。
「こんにちは」
「よっイヴ」
祈は月乃と一緒に入って来た見知らぬ青年をぽかんと見つめた。
前髪を遊ばせたモデルのような髪型に、緩めたネクタイ。
捲ったワイシャツから少し日焼けした逞しい腕が見える。
歳は祈と同じかせいぜい三、四つ上で明瞭快活な雰囲気がどこか颯に似ている。
青年はドサッとカウンター席に座り込むと熊のように呻いた。
「あー疲れた!イヴ、何か冷たいモンくれ」
「あげないわよ。買って頂戴」
「えー」
青年は子供のように唇を突き出す。
「あっ祈さんも来てたんですね」
ようやく月乃が祈の存在に気付き、頭を下げた。
「……」
知らなかった。
月乃はこういうタイプが好みだったのか。
確かにスポーツ選手のような男らしい外見だが、何となくやんちゃそうだぞ。
その髪なんか、絶対上から黒く染めてるぞ。
男から目を離さないまま、とっくに底をついたアイスコーヒーのストローでズゴーという情けない音を立てた祈にイヴがため息をついた。
「紹介するわ、愚弟よ」
すると青年はガクッと肘を落とした。
「そりゃねぇだろイヴ!俺の方が歳上なんだから、愚兄だろ!」
逆に肘を落としかけた祈は説明を求めてイヴを見た。
「幼なじみなの。シノちゃん、こちら最近常連になった夜枯さん」
「あぁ!こないだ手伝ってくれた子か!悪い、俺仕事だったから」
「いえ……」
つまりはこの男がいつもいろは屋への運搬を手伝っているということか。
「俺は
「霜聖って……」
「私の高校です。シノちゃんさんは普通科ですけど」
月乃がバッグからやりかけの編み物セットを取り出す。
「これで現代文担当って言うんだから恐ろしいわよね。ところで何でいつも来るのが月末なの?」
イヴがグラスに水道水を注ぎ、陽太に出した。
「決まってんだろ、給料日前だからだよ」
「向こうのスーパーだって安いところもあるでしょ」
「だってあっちは学生がうようよいるし。ばったり会ったら奢らされるんだもん」
「新米教師は人気者ね」
「それでどうですか、念願の『先生』は」
月乃が瞳をきらつかせて訊くと陽太は水道水をがぶ飲みして言った。
「悪くはねぇけど……目標にはまだ届かずってトコだな」
「目標?」
陽太は月乃の前に見えない旗を掲げた。
「“初めて受け持ったクラスの生徒を全員笑わせる”」
熱血か。
学生時代も今も「笑わない方」に属する祈は内心呆れた。
けれどそれは陽太みたいな教師がいなかったからだと言われれば違うとも言い切れなかった。
「シノちゃんのギャグが面白かった試しなんて無いでしょ」
「そういう意味じゃねーよ!せっかく学校来てんだからつまんねー顔させたくねぇだろ」
祈は視線を逸らした。
至極真っ当な陽太の言い分は何故か祈の胸に突き刺さった。
「まぁ色んな子がいるでしょうし、根気強くやってみたら」
陽太は椅子にひっくり返って天を仰いだ。
「本当に色んな奴がいるよ。変わった奴かと思えば案外普通だったり、普通に見えてそうじゃなかったり……そこがもっとちゃんと見抜けたら良いんだけど」
陽太には今、それとなく様子を伺っている生徒がいた。
最初はよくいる真面目で大人しいタイプだと思っていた。
いつもつるんでいるのは
何と言うことはない、ありふれた生徒。
ところがふとした時に――それもほんの一瞬なのだが、千世は表情をゴトリと失う事があった。
何処を見ているのかその瞳はぞっとするほど鋭く凍てつき、まるで周囲の誰も気付かない時間の隙間に生きているかのようだった。
何が彼女をそうさせるのか、陽太はひどく気になった。
「何か問題でも抱えてんのかなー。でも見たとこ交友関係にも勉学にも困ってなさそうなんだけどな」
考え込む陽太を祈は横目で盗み見た。
「……」
高校生の抱える「問題」が何も学校に依るものだけではないことを、祈は知っていた。
陶器が割れる耳障りな音と共に、薄い記憶が蘇った。
藤沢が慄くように高校生の祈を見上げる。
二人の目の前には粉々になった陶器の破片が床いっぱいに散らばっていた。
藤沢が先程まで抱えていた壺だ。
玄関に飾ろうとしていたのか、権力を示すかのような趣味の悪い巨大な壺が目に入ると突然苛立ちが襲い、祈はそれを押し倒した。
『俺がやったって言っていいから』
鬱憤の篭った息を吐き出してそう言うと藤沢は哀しげな目をしたが何も言わなかった。
その事で咎められたのは二週間も後の事で、ただ一言「物を大事にしろ」と言われた。
祈と父親の関係はその程度のものだった。
「なーんか面白い事ねぇかなー」
陽太はひっくり返ったまま月乃の編み物を眺めた。
「面白い事と言えば、シノちゃんさんは透明人間の噂を知ってますか?」
「透明人間?あぁ、そういや誰かがそんな話してたな」
一ヶ月前、霜聖高校の美術科ではちょっとした騒ぎがあった。
発端はある男子生徒同士の喧嘩で、力の強い片方が相手を壁に叩き付けたというものだった。
現場に着いた教師が発見したのは壁際で縮こまっている生徒と何故か片方の靴を持って突っ立っている生徒だった。靴は乱暴した生徒の物であったが、悪因悪果かな突然背後から飛んで来て頭を直撃したらしい。
そして先週。
今度は普通科の女子生徒同士のいざこざで、複数の生徒が一人の生徒を取り囲んでの口喧嘩が起こった。
ところが、またもヘアゴムが飛んで来て囲んでいた生徒の一人を攻撃したのだ。
誰もその第三者の姿を見ていない事から、「透明人間」と噂されるようになった。
「いつの世も争い事が絶えねぇよなぁ」
釈迦みたいな事を言う陽太にイヴが小さく笑った。
「何が苦で何処が地獄かは人それぞれよ」
その週はうんざりするような暑さが続いた。
陽太は職員室の給湯室でちっとも冷たくない水を頭に被り、少しでも涼を取り入れようとしていた。
節電だかなんだか知らないが冷房はまるで効いていない。
ここらで唯一涼しい場所といえば職員室の奥にある小さな倉庫だけなのだが、生憎と清掃時くらいしか開放されない。
「……」
フン、世の中には臨機応変という言葉があるんだよ。
昼休みの終わりを報せるチャイムが鳴り、陽太は席を立った。
「ふぅ――」
壁際に追いやられるように置かれた革のソファに深く沈む。
教科書などの資料が大量に保管されているここは痛まないようにカーテンが閉じられており、室温が低い。
他の連中には悪いが、暫く涼ませてもらうとしよう。
だらしなく背もたれに腕を回した時だった。
ガチャ、と扉が開かれ、その人物は当たり前のように入って来た。
「な」
思わず声を出したのはサボっているのを見られたからではない。
「北代?」
千世は名前を呼ばれるとビクッと肩を竦めて陽太を見た。
「……先生」
「お前何やってんだこんなとこで」
自分のことを棚に上げる陽太に千世は眉をひそめた。
「何って、掃除ですけど」
陽太は口をぽけんと開けた。
そうだ。確かに千世は職員室の担当の一人だ。
その中で細かく場所分けされた結果がここなのだろう、なんと羨ましい。
「知らなかった」
「まぁ、人目につきませんからね。ここ」
千世は持参したハタキで棚をなぞる。
切り揃えられた黒髪が肩先でリズム良く跳ねる。
「……北代ってさ」
開き直って再び寛ぐ。
「悩みとか無いのか?」
千世は僅かに目を伏せたが手を止めなかった。
「……そりゃ、ありますよ」
みんなそうでしょ、と聞こえた気がした。
「えっなになに」
「言いません」
「じゃあ俺のを聞いてくれよー」
「何ですか」
人のは聞いてくれるのか。
「毎日毎日さ……あっつい」
「夏ですからね」
「あっつい!暑過ぎる!」
ふざけてジタバタと体を動かす。
「あっ吐き出したら何か涼しくなった」
突然動きを止めてとぼけた顔をした陽太に千世がクスリと笑った。
「変なの」
それから二人はよくここで会うようになった。
人のいない場所で話すことで何か掴めやしないかという当初の浅い目論みもすっかり忘れて、陽太は千世が掃除している間、何気ない事柄をダラダラと話した。
「俺は兄が頭良くてさぁー、ちょームカつくの。ホラー映画で一番情けない声出すタイプだぜ、アレ」
今日は一日中曇っている。
資料倉庫の温度はいつもより少しだけ低い。
「北代は?」
「えっ」
千世が遅れて顔を上げた。
「兄弟いんの?」
「あぁ、はい。妹が一人」
「あーそんな感じする」
「――でも私は居ないです」
「え?」
清掃終了のチャイムが鳴り、千世は音もなく出て行った。
外の雲が入り込んできたかのように重い空気が一人残された陽太を覆っていた。
シューズが床を鳴らすキュッキュという音が反響している。
放課後になっても陽太は体育館の端で考え事をしていた。
副顧問を務めるバドミントン部の活動はあまり頭に入ってこない。
『私は居ない』……?どういう意味だ?
「せんせー、邪魔」
「あ、悪い悪い」
バレー部から転がってきたボールを避けて歩く。
明日北代に聞いてみるか?……いや、これで心を閉ざされたらまた振り出しだ。
落ち着け、こういう時はこの手の事に詳しい奴に頼るのが一番だ。
「――それがどうして私なのよ」
イヴの瞳はいつでも冷たい。……ちょっと涼しい。
「え、お前得意だろ人の心見抜くの」
「人聞き悪い事言わないで」
カウンターからイヴがピシャリと否定する。
ユーフォリアは今日もいつもの
「シノちゃんさんは放っておけない性格ですもんね」
隣でアイスクリンを突つく月乃が人懐っこく微笑んだ。
最近は量の多い髪の毛をポニーテールにしている。
「まぁそれはイヴさんもですけど」
「そもそも、見抜いちゃ駄目でしょう。シノちゃんの仕事はそんな事じゃない筈よ」
「俺の仕事?」
イヴは溜め息をついた。
「彼女から発せられるのはなにも言葉だけじゃないと思うわよ」
「よし分かった!サンキュー」
「ちょっと……もう」
陽太はガタタと立ち上がり、出て行ってしまった。
「良い先生だな」
祈はアイスコーヒーを飲み干した。
「元ヤンだからか妙に情に厚いのよね」
イヴがやれやれと陽太のコップを片付ける。
「……俺は教師を信用してなかった」
祈は棚の天秤を見つめた。
あんな小さな空間で毎日顔を合わせているのに、大人はいつも大事な事には気が付かない。
助けて欲しいと言えずにいる事を――いや、言えずにいるが故に彼らは知らない。知る由もない。
それが学校生活に関係のない事柄ならば尚更だった。
本当は気付いて欲しかった、なんて――
「ガキみたいだよな」
誤魔化すような自嘲は壁時計のボーンという音に遮られた。
「いいえ。私もそうだったわ」
イヴが真っ直ぐにこちらを見ていた。
己を穿っていた
「明日は――晴れると良いわね」
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