第2話

 全力で逃げだした。


 逃げるしかない。

 あの様子は確実に友好的じゃないだろう。意思の疎通ができるとも思えない。

 まして此方は記憶が無い。得体の知れない状況で、得体の知れないものを相手にしている余裕はない。

 走り出して直ぐに振り返って確認すると、急に逃げたのが意外だったのか、化け物は固まって此方を見ていた。


 暫く走ると目覚めた小屋に辿り着いた。肩で息をしながら小屋に入り鍵を掛け椅子に腰掛ける。

 あいつは何だったのか。あんなもの実在しないはずだ。

 思い出せないんじゃない、あれはありえない。やはりこの場所は普通じゃない。

 普通じゃないはず……だが本当に普通じゃないのは、この場所なのかそれとも記憶のない俺なのか? 

 そんな事を考えながら、テーブルの上のランプを眺めていると不意に明かりが灯った。


 胡蝶蘭に似たそのランプの明かりは淡く優しい。

 決して強くないその光はそれでも、不思議と部屋全体を明るく暖かく照らし出した。

 急に明かりが灯り驚いたが、ランプを見ていると不思議と心が落ち着いていく。

 ふと誰も座っていないもう一脚の椅子が視界に入った。

 何となくその椅子を眺めていると何故か、寂しさと懐かしさが込み上げてくる。

 もしかして記憶を無くす前、この場所に誰か他の人も居たのだろうか?

 そんな事を考えながらランプを見ているとある事に気づいた。

 

 いつからランプだと認識していた?

  最初に見た時は、只のガラス細工としか思わなかったはずだ。

  ……もしかしたら少しずつ記憶が戻っているんじゃないか?

 忘れているだけで、この場所やあの化け物を知っているんじゃないか?

 何もわからないままで、何も解決していない。

 それでも少し気が楽になった。


 扉を叩く音が聞こえてくるまでは。




 扉を乱暴に叩く音が響く。

 何故だか必ず二回叩いた後、間を空けてからまた二回叩く。

 おそらく先ほど遭遇したあの化け物だろう。

 一瞬、人間じゃないかと期待したがその可能性は限りなく低い。

 扉を叩くことはあっても声を掛けてくることが無い。

 そして扉の低い部分を叩き続けている。

 声が出せず、子供程の背丈しかないあいつが追いかけてきたのだと当たりをつける。

 極力音を立てないように窓へ近づき外を確認すると、やはり先程の化物だった。

 ただ予想とは少し違う。訂正しよう――叩いているのではなく殴り付けていた。


 どうすればいい?

 この小屋から出るには扉から出るか窓から出るしかない。

 だがあいつは扉の前に居て、窓が設置されているのは扉と同じ面。

 窓から飛び出して走れば逃げられないだろうか? 足は俺の方が速そうだ。

 しかし何処に逃げるのか?

 当ても無く、日が落ちたこの森の中を逃げ回ったところでどうにかなるとは思えない。

 他の生物に出会う可能性すらある。


 なら籠城はどうだ?

 扉か窓が破られる可能性がある。

 それにいつ諦めるかもわからない。

 破られなかったとして、食料は4枚の焼き菓子だけ。飲み水も多くはない。

 扉を見つめながら今も殴り続けているあいつの姿を思い出す。

 そういえば最初に見かけた時は、急に現れた上に暫くは動かなかった。

 もしかしたら日中は動けないか、若しくは姿を消すのではないか?

 ……荒唐無稽な様だがこの状況が既に出鱈目だ。可能性はある。

 この考えが正しければ、一晩ここで耐えることができたら俺の勝ちだ。

 だがもし消えなかったらどうする。

 それに扉と窓が一晩破られない可能性に掛けるのはかなり危険な賭けになるだろう。

 この扉を殴りつける音を聞き付けた他の化け物が来る可能性がある。

 

 一旦思考を止め改めて室内を見渡す。

 今この小屋にあるのは椅子とテーブルとランプだけ。

 そして腰には一本の無骨なナイフ。

 ナイフが眼に入った途端、今まで意識から除外しようとしていた考えがはっきりと脳裏に浮かび上がる。

 ……戦うしかないのか? 得体の知れない化け物と。

 戦うと言えば聞こえはいいが、これからやるのは唯の殺し合いだ。

 ゲームや格闘技じゃない。ルールも審判もなく、痛み分けで終わる事はないだろう。

 俺があいつを殺すか、あいつに殺されるかだ。

 何か他に手はないかゆっくりと考えたいが、今も扉を叩く音に急き立てられる。

 もう覚悟を決めるしかないだろう。




 ――これから俺はあいつを殺す。

 自らが振るう暴力を思うと、興奮と不安が綯い交ぜになり妙な緊張感が生まれた。

 身体に力が入らない。

 震える右手で、ホルスターから慎重にナイフを抜く。刃渡りは30cm程だろうか?

 ランプの優しい灯りに照らされて、鈍く光る刃とその確かな重さが頼もしい。

 だが扉に向ける足取りの重さは最悪だ。

 速く浅くなる呼吸を抑え、相変わらず殴られている扉の前に立つ。

 いつでも開けられるよう、震える左手をかんぬきへと伸ばしタイミングを計る。

 すると不意にどうでもいい事が頭を過った。

 今、俺はどんな顔をしているのだろう。


 再び扉が二回殴られた直後、閂を外して扉を蹴り飛ばした。


 勢いよく開いた扉は目論見通り標的に当たった。

 顔を押さえ俯いているのが目に入る。

 意表を突く事に成功したが決して安堵する事はできなかった。

 何も考えられない。

 気付けば、緊張して固まった腕を不格好に振り上げては、化け物の後頭部目掛け全力でナイフを叩き付けていた。

 ナイフが頭に当たる瞬間、反射的に目を瞑り顔を逸らした。

 真面な思考ができない癖に、生々しい頭の硬さはしっかりと腕を伝ってくる。

 想定したより切れ味のいいナイフは頭を掻き分けて進む。

 その感触に手から力が抜け、振り切れずにナイフを手放してしまうがそれが手を離れる事で逆に思考力が戻ってきた。

 

 ……何かがおかしい。

 薄い肉に硬い骨とその中にある軟らかいものを感じた直後、それらの手応えは硬い何かを削り取るようなものへと変わった。

 獲物を手放してしまったが幸いにも直ぐにあいつは倒れ、その拍子に頭に刺さったナイフが落ちる音が聞こえた。


 恐る恐る眼を開き倒れた筈のあいつを見ると、身動きせずうつ伏せに倒れていた。

 そして驚くべき事にナイフを叩き付けたその頭は、生き物としてあるはずのものが何もなかった。

 まるで岩の様に無機質な物資。

 生き物ではなかったのか?

 こいつが何か分からない今、死んでいるか若しくは壊れているかを明らかにしなければならない。

 

 あまり気は進まないが仰向けにする為、足を腹の下に入れて蹴り上げ仰向けに転がす。

 蹴り上げた感触は見た目通り石のように硬く、それでいてやけに軽い事がわかる。

 転がした身体は彫像の様に姿勢を崩すことはない。

 ――本当に何者なんだ?

 自分が殺した死体の顔を見る事に一瞬だけ躊躇したが、好奇心が勝った。

 死に顔は幸いな事に苦悶を浮かべてはいなかった。ただ目を見開き驚愕した様な表情で固まっていた。

 こんな風に感情を表せるこいつの存在が余計わからなくなる。

 身体の方を見てみると両手の拳が僅かに欠けていた。扉を殴った時に欠けたのだろうか。

 

 その両手が何か気にかかった。

 顔を上げてこいつの行動を振り返る。

 小屋に居た時、こいつは何度も扉を殴っていた。それも必ず二回殴り少し間を開けては再び殴る。

 何故二回殴ったのか? ――両手で殴っていたから。

 何故間を開けていたのか? ――俺の反応を待っていた? いや違う……拳が欠けるから。

 身体が欠けても殴り続ける。――それは問題がないから。ならその間は何の為に?

 息を呑む。

 はっとして化け物の手を見ると何事もなかったかの様に、欠けている部分など見当たらなかった。


「……嘘だろ?」

 

 一歩、二歩と後ずさる。そこでふと小さな音に気づいた。

 一体何の音だ? 耳を澄ます。

 もし砂時計から音が聞こえるならこんな音だろう。

 場違いなそんな感想を抱く。そして音の出所はあいつの頭だった。

 辺りが暗くて見えなかった。興奮して視野が狭くなっていた。

 失った部分は粉々になっていたのだ。灰色の身体と同じ灰色の大地の上で。

 それが少しずつ風も無いのに、大地の上から頭へと飛び結合している。

 こんな事は想定していなかった。

 

 考えろ! 何ができる?

 逃げる? いやそれは最終手段だ。なら今ここで確実にできる事は?


 ――朝が来るまで殺し続ける!


 そう決めると急いでナイフを拾い、再び殺すために額目掛けてナイフを振るう。

 だが遅かった。再生を終えたあいつは勢いよく転がる事でナイフを避けた。

 そのまま勢いを殺さずに転がり距離を取られる。

 


 初遭遇は数メートルの距離があった。その次は一枚の扉を隔てて。

 そして今度はもう間には何も無い。

 ナイフを避けた距離を取った化け物は直ぐに立ち上がった。

 今にも襲い掛かってきそうだ。にやにやと笑っていやがる。

 調子を確かめるように肩を回したりしながらも、俺から目を離したりはしない。

 扉越しだった時の覚悟など何処かへ行ってしまいそうだ。弱気になる自分を鼓舞するようにナイフを強く握る。

 

 すると特に何の予兆もなく化け物は襲いかかってきた。

 一瞬で距離を詰め、勢いそのまま右の拳を腹を目掛けて放ってくる。

 それを慌てて後ろへ下がって躱すが、直ぐに左がフック気味に飛んできた。

 化け物の右手側に不格好に飛んで回避し、カウンター気味に首をナイフで切りつけようとする。

 だが背の低い化け物はしゃがんで避けると、そのまま足払いをかけてきた。

 避けることができない。

 足を払われ倒れる瞬間、ナイフを手放してしまう。

 

 完全に舐めていた。

 一度不意をついて殺せただけなのにもう一度簡単に殺せると。

 仰向けに倒れる。痛みを堪え直ぐに立ち上がろうとするが、直ぐ様マウントを取られる。

 それと同時に視界に入った化け物の右手には、先程落としたナイフが握られていた。

 一瞬で血の気が引く。

 化物を見上げると、灰色の彫刻の様な瞳が喜びに爛々と輝いているかの様に錯覚する。

 必死に抵抗するが化け物は、殺した後に確認した時の軽さからは信じられない様な力を発揮して抑え込んでくる。

 そうして化物はナイフを高く掲げ、顔を目掛け振り下ろしてきた。

 咄嗟に両腕出し顔を守る。

 腕から鈍い音が聞こえるのと同時に、熱く激しい痛みに襲われ叫んだ。


「っがああぁぁ!」


 そこまで痛がると思っていなかったのか、化け物は一瞬呆けてから笑い出した。

 相変わらず声は出ていない。だがそれでもあいつは笑っていた。

 何とか現状を把握する。

 何故か腕は切れていない。折れているだけのようだ。

 何か手はないか考えようにも痛みと吐き気が邪魔する。

 どうにか化け物を払いのけようとするが、折れる前の腕でできなかった事が今更できるはずもなかった。

 


 記憶を無くし知らない場所で目覚め、化け物に殺される。

 記憶を無くす前の俺の行いは相当、糞だったらしい。

 俺の上にいる化け物は今も、にやにやと汚い笑みを浮かべている。

 眼が合うと再び、その腕を見せつける様にゆっくりと振り上げる。

 その腕を見ているとある事に気付いた。

 あぁ、こいつはこのナイフの刃がどこに付いているかも分からない。

 だから腕が切れなかったのかと。


 終わりか。

 

 死を覚悟した瞬間。二つの事が起きた。


 遠くから誰かの声が聞こえると化け物の頭が吹き飛んだ。

 声のした方へと顔を向ける。

 暗くて顔が見えないが少し離れた場所に誰かが立っていた。

 それを見た途端、安堵して気が緩んだのか目の前が真っ暗になった。

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