いつか、かえるところ

1章 ―黄金の微睡み―

プロローグ

頭が割れるかの様な痛みで、意識が覚醒した。


身体中の細胞を細かい気泡に作り替え、一つ一つが弾けるかの様な奇妙な感覚。耐え難い酷い吐き気。そして、頭の先から爪先まで何かの液体に沈んでいた。


叫ぼうとして気付く――声が出ない。


 口が開かず息ができない。瞼は上がらず何も見えない。


 それどころか、言う事を聞く場所が一つもない。


 暗く何もできない世界で只、漂うことしかできずにいる。


 痛みや恐怖が思考を塗り潰し、耐えきれない心は意識を手離した。






 ――どれだけの時が過ぎただろう。


 覚醒と気絶を繰り返す。


 すると少しずつ、痛みや吐き気が引いていき、いつからかこの状況にも慣れてきてしまった。


 気付けばこの場所は温かかった。それに何もしなくても生きていける。


 何故か空腹は感じない。動けないが退屈はせず、今はもう不安すら感じない。いっそ心地良くすらある。


 傘が小雨を弾くような雑音と自分のじゃない誰かの鼓動を耳が拾う。


 冗談みたいだと思い、声を出さず笑っていると眠気に襲われた。


 ゆっくりと意識を手離す瞬間、遠くで子供の泣き声が聞こえた気がした。








 目が覚める。何故か壁を背にして、ブランケットを掛けて寝ていた。身体が痛い。


 寝ぼけた頭がゆっくり再起動して現状を把握していく。


 薄暗い室内を見回すと、板張りの床に壁は丸太。正面の壁には窓があり、淡い緑色のカーテンの隙間から、薄明りが差し込んでいる。その窓の側にはかんぬき錠の扉。どうやらここは丸太小屋ログキャビンのようだ。


 部屋の中央には一本脚の丸テーブルに椅子が二脚。一脚には何か袋の様な物が置いてある。


 テーブルの上にも何か色々と置いてあるが中でも、小さなガラス細工の花が目立った。


 それだけの狭く簡素な部屋だった。


 頭が回らない。酒が残っている時のような高揚感と寝起きの頭のせいか、自分が何処に居るのか思い出せない。


 どうやら飲み過ぎたようだ。そう思い、昨夜の事を思い出そうとして唖然とする。


 そんな筈は無いと必死に思考を巡らせる。そして思いがけず、震える自分の両手を見た。




 白く、綺麗な手だ。それを見ていると鼓動が早く大きくなっていく。


 その鼓動に急き立てられ立ち上がり、自分の身体を見下ろす。


 袖の長い白のインナー。その上には緑のチェニックだろうか、太ももの半ばまであるそれをベルトで固定している。茶系統のズボンは裾を、膝下まである黒に近い色合いのブーツに入れてある。


 見慣れない、いや見た事の無い服のはずだ。急に怖くなり、乱雑に服を脱ぎ捨てた。


 荒くなった息を整えながら、自身の身体を見下ろす。その身体は余分な脂肪が無く筋肉質だが、どちらかと言えば貧相な印象を受けた。何処か他人事の様に眺めていると、右の脇腹にうっすらと傷跡がある事に気付いた。


 その瞬間、強烈な痛みがその傷跡に走った。一瞬の激痛に全身に力が入り背中を丸め傷跡を手で押さえる。


 身体が震えてしまう。何とか座り込み、壁に寄りかかった。


 手をどかし、恐る恐るその傷跡を見ても、痛みが走らなかった事に小さく息を吐く。


 薄っすらと変色したその一筋の痕を見ていると――あぁ、これは刺し傷だ――と確信してしまう。


 だが身に覚えがない。恐怖より、何故?という感情が頭を埋め尽くす。


 薄暗い部屋の中、深く心が沈んでしまいそうな時ふと、光に気づく。


 それは正面、カーテンの隙間から漏れた淡い光。その光に誘われて立ち上がる。ゆっくりと光へ向かい、カーテンに手を伸ばす。三度、深く呼吸をしてから、カーテンを開いた。






「……どこだ、ここ」






 窓の外には、一面、灰色の世界が広がっていた。


 雪ではなく灰が降り積もった様な静かな大地。触れたら崩れてしまいそうな、彫像に似た灰の木々に草花。


 それらは綺麗だが何故か、死んでいるみたいだと思った。


 暫く放心して眺めていたが、我に返り窓を開けようと手を伸ばしたが思いとどまる。


 そうしてそのまま、窓の外を眺めていた。






「……何が起きてるんだ?」




 そして




 ――俺は誰だ。

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