六章

第44話 煩悶



 夕食も済ませて、すっかりと寝支度も終わっているというのに、螢月けいげつは眠れぬ夜を過ごしていた。寝台に入る気分にもなれない。

 こういう気分のときは、釜を磨いたり、繕い物をすると気が紛れていいのだが、残念ながらそういうことが出来る場所ではない。

 手許には朧玉ろうぎょくから借りた本があるが、それを読めるような心地でもない。何度か開いてみたが、字が頭の中に入って来ないので、与えられた課題を熟せそうになかった。


 そわそわと浮かない表情で座り込んでいる様子に、虹児こうじも他の女官達も、同じように落ち着かない視線を向けていた。

「そろそろお休みになりませんと、お身体によくありません」

 控えめに就寝を促されるが、螢月は溜め息と共に首を振る。

「螢月様がお休みになってくれませんと、女官達も休まりません」

 その言葉にハッと顔を上げ、部屋の中で控えてくれている女官達へと目を向けた。彼女達は一様に心配そうな表情でいて、僅かに眠そうな顔をしてもいる。

 職務上、主人である螢月より先に床に就くことが出来ないのだ。そして、朝は螢月よりも早く起きて支度を整えて待っていてくれている。やたらと早起きの螢月に合わせてのことだから、以前よりも睡眠時間が削られているのかも知れない。

 ごめんなさい、と螢月は謝り、急いで寝台へと向かった。


「無理に眠らなくてもいいですから。ここを閉めて横になっていてくだされば、お眠りになったものとして判断致しますので」

 螢月が気にすると思ってか、虹児はそんな助言をくれた。申し訳なく思いながら頷き、天蓋の薄絹を下ろしてもらう。

「あ、虹児さん」

 きっちりと閉じ合わされる前に慌てて呼び止めると、虹児は小首を傾げた。

「あの、お願いした伝言は……」

 躊躇いがちに尋ねると、虹児は笑顔で頷く。

「大丈夫です。兄に伝えておきました。お預かりしたお手紙も、しっかり頼んでおきましたので、責任を持ってお渡ししてくれると思います」

 その返答にホッとする。安心して礼を言い、今度こそ薄絹を下ろしてもらって横になった。


 虹児の兄である潤啓じゅんけいには、父との連絡を取り合う拠点となってもらっている。鴛翔えんしょうの計らいらしい。父にも村で別れる前に、緑厳に来たら徐家の門を叩くように、と伝えて了承を貰ってくれていて、なにかあれば潤啓と虹児を通して情報を共有出来ることになっている。

 ここは後宮といっても、王以外の男性の出入りが制限されているだけで、女官達は気軽に外へと遣いに行ったりしている。妃嬪達も護衛をつければ出かけていいことになっているらしいのだが、螢月はまだこちらに来たばかりなので、顔が馴染むまでは大人しくしておいた方がいい、と祇娘ぎじょうから助言を受け、行動を控えているところだ。存在があまり知られていないと、お仕着せを着ているわけでもなければ門番に止められたりして、出入りがとても面倒なのだという。

 そんな螢月の代わりに、虹児がよく動いてくれていた。そういう役目でここへ来たのだ、と彼女は笑って言っていたが、都でも有数の貴族の家柄に育ったお嬢様を使い走りしていることに、少し気が引けているのも事実。

 大変に申し訳なく感じているのだが、虹児は意外にもけろりとしている。面白いことや興味のあることには率先して身体を動かしたい性分なのだ、と本人は言っていたので、一応はその言葉に甘えることにしていた。


 月香げっかのことを記した手紙は潤啓に渡してくれたということなので、父が緑厳にやって来るときを待つしかない。

 父が到着したら連絡をくれることになっているのだが、その報告はまだない。

 母の葬儀を終えたあと、村で少しやることがあるから先に行ってくれ、と言って鴛翔の護衛の一人を借りていたが、いったいなにをしているのだろうか。


(早く来て、父さん……! どうすればいいのか、私じゃわからないよ)

 螢月はズキズキと妙な痛みを感じる胸に手を当てながら、静かに目を閉じる。眠れるような気分ではなかったが、少しでも眠らなければ。


 月香が見つかったというのに、あの子は螢月を無視して行ってしまった。ちゃんと顔を合わせることもしなければ、返事もしなかった。わけがわからない。

 祇娘は彼女のことを「萌梅ほうばい公主」と言った。萌梅公主というのは、生まれる前に生き別れてしまった国王の娘で、ふた月程前にようやく見つかったところなのだという。

 そんな話はおかしい。それが事実なのだとしたら、母は父以外の男性の子供を身籠ったことになる。月香が生まれたときのことは螢月が覚えているのだから、あの子が貰われ子ということもなく、母の子であることは確かなのだから。

 それに、月香は母にそっくりだ。少し金色の入った瞳の色だけが父に似ていて、両親のどちらにもあまり似ていない螢月は、どちらの特徴も持っている月香を少し羨ましく思っていた。


 思い返していた螢月はハッとする。

 あの公主様の瞳の色は、何色なのだろうか。

 月香は父の珍しい瞳と同じ色の瞳をしていて、気紛れな猫のような不思議な魅力があった。あんな色の瞳の人を、螢月は父と月香以外に知らない。

 大きな杷倫の街でいても、西方の胡人を別とすれば、だいたいが暗い色をしている。陽の光を受けると金色に光る瞳の人など、他には見たことがない。


 どうにかして近くで話が出来ないだろうか。そうしたら、瞳の色を確認出来るのに。

(……会いたいって言ったら、駄目って言われるかしら?)

 夕方にすれ違ったときの避けられっぷりを見ると、絶対に聞いてくれなさそうだ。

 それでも、なんとか傍に寄れる理由を考えて、どうにかお願いしてみなければ。そうでもしないと、あの公主様が月香かどうかの確かめようもない。


 人違いだったのならそれでいい。誤解から大変に失礼なことをしてしまった、と心から謝って許しを請おう。

 もしも螢月の見間違いでなく月香本人なのだとしたら、訊きたいことはたくさんある。

 何故なにも言わずにいなくなったのかとか、今までなにをしていたのかとか、どうして王宮で公主様などと呼ばれているのかとか。


 そうよ、と螢月は自分の中で小さく頷いた。

 聞きたいことはたくさんあるのだから、なんとしてでも月香なのか人違いなのか確認しなければならない。それは外にいる父では無理なことなのだから、螢月がやらなければならないことだ。

 あの子は昔から都合が悪くなると小さな嘘をつくことがよくあったので、言い逃れられてしまうかも知れないけれど、家出してからの月香に会ったことのある虹児と一緒に顔を確認出来れば、二対一でこちらの言い分の方がほんの少し有利だ。たぶん。

 だからやはり、どうにかして近くで顔を見られる状況を作らなければ。

(明日、虹児さんに相談してみよう。祇娘さんにも)

 公主の一行とすれ違ったあと、螢月が子供のようにしくしくと泣いていた所為か、祇娘も親身になって話を聞いてくれた。とても同情してくれたようだったので、味方になってくれるかも知れない。

 この後宮で一番偉い朧玉が信頼している祇娘が味方になってくれたら、きっととても頼もしい。

 権力者の威を借るなんとやらではないが、それでも、螢月はまだよくわからない後宮で大きな権限を持っているらしい祇娘が味方してくれるなら、それだけでとても安心だ。


 そうして安堵を得た所為か、螢月はすうっと静かな眠りの中に落ちていった。

 あんなに悶々として眠れないと思っていたのに、やはり慣れない環境での緊張と疲れは溜まっていたらしく、明け方まで深く眠れたのだった。



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