「ヨモツヘグイ」

トンネルにできた裂け目。

外部へと繋がる穴。


そこから覗く、

スミ子と同じマンションに住む青年。


だが、その隣から、

見知らぬ中年男性が顔を出す。


「あれれ、こんなところで何してるんだい?」


胸につけた名札には

「空間委員会 修復課 係長・曽根崎」

と書かれている。


だが、それ以上に奇妙なこと。

彼らの背後に空がある。


そこは抜けるような青空だった。


スミ子は地下のトンネルに落ちたはずである。


なのに手をついて押し広げた壁の先に青空が広がっている。

こんなこと、おかしい以外にありえない。


そこに中年男性の声がかぶさる。


「まあ、こんなところにいないで出てきなさい。

 あんまり長居するとおばあさんになっちゃうよ。」


そこで中年男性の手が伸びてきて、

スミ子は流れで手を握る。


その時、スミ子は気づく。


自分はそのまま出てきたはずなのに、

穴から出てきた時にはなぜか斜めに引き上げられている。


「ああ、向きがおかしいと思ったら、

 どうやら『空間』の縦軸と横軸もゆがんでいるな。」


中年男性の言葉の通り天と地が90度変化し、

視界が一瞬ぐらりと歪むと、

スミ子はコンクリートの上に座り込んでいた。


周りを見渡せば、

そこはスミ子のよく知るマンションの駐車場で、

一台のミニバンが止まっている以外に車の姿はない。


近くに停まったバスに一人の女性が駆込む姿が見え、

その横顔にスミ子はどこか見覚えがあった。


だが、そのことに考えを巡らす前に、

スミ子は同僚の腕をつかんでいることを思い出した。


そう、彼女は自分の後ろをついてきているので、

一緒に穴から出てくるはずだが…


その瞬間、青年が驚いたような声を上げる。


「なあ、あんた何持ってるの?」


スミ子は後ろを振り向いた。


ゴツゴツとした感触、節くれ立った体。


体は赤茶色で10本もの手足がわさわさと動き、

触覚のあいだから見える黒い瞳は顔から飛び出していて…


「ぎゃあ!」


スミ子は思わずつかんでいた手を離すと後ろに下がる。


そこにいたのは同僚ではない、

人間大のイセエビだった。


「嘘、なんで?私、崩れた社内の

 トイレにいた同僚を連れてきたはずで…」


パニックになりながらスミ子が声を上げると、

中年男性はすぐにスマホを取り出す。


「会社が崩れたって、それはどこの会社?」


スミ子が社名を伝えると、

曽根崎は急いでネット検索から電話番号にかけた。


「もしもし、あのこちら空間委員会の曽根崎と申しますが、

 代表者の方はいらっしゃいますでしょうか…」


すると、いつしか青年がスミ子の側に寄ってきて、

目の前のイセエビを指差した。


「なあ、そいつ本当に同僚だったの?」


スミ子はその言葉にガクガクとうなずく。


青年の口調がいつしかタメ口になっていたが、

そんなことには構っていられない。


…そう、確かにスミ子は同僚の手を握っていた。


昼食の後だったとか。

人が他にいなかったとか。


会話に多少の食い違いがあったものの、

確かに同僚で間違いなかった。


「…ふーん、そいつは穴に落ちた瞬間に

 食いかけのパンを飲み込んだってことか。

 じゃあ、黄泉戸喫よもつへぐいにやられたかな…?」


ヨモツヘグイ?


すると、青年は一枚の折りたたんだ紙とペンを差し出し、

スミ子に「印鑑持ってる?」と聞いてからこういった。


「実はさ『空間』内で飲食はご法度なんだ。」


「空間?」


スミ子の言葉に青年はうなずく。


「そう『空間』変な場所だったでしょ?

 物理常識の通じない異空間を総称してそう言うんだ。

 そこでは、食べられる物質が食べられないものになり、

 それを体内に入れてしまった人間も人間ではなくなる。」


…それを、『空間修理師』のあいだでは、

黄泉戸喫と呼んでいるんだ。


青年の口から突然出てきた

『空間修理師』や『黄泉戸喫』などという

耳慣れない単語にスミ子は戸惑いを隠せない。


だが、そんなスミ子に気づいていないのか、

青年は穴を見下ろしニヤリと笑った。


「そもそも『空間』は事象も変化する場所でね、

 時間も空間もめちゃくちゃになるから手に負えないんだ。

 それを直すのが『空間修理師』、俺もそれを目指してる。

 …あ、ほらほら早く書類のこの場所に書き込んじゃって、

 あんまり人目につくと困るからさ。」


そう言われると書くしかない。


スミ子は青年に勧められるまま、

なんだかよく分からない書類に判を押し、

鉛筆で囲まれていた職業や名前などの欄を記入し渡す。


すると、青年は書類の横に「叔母」と書き込み、

名前欄をじっと見てから「どうも」と短く答えた。


「実際、この中の時間とこの場所の時間は

 すでに歪んでしまっている…気づかなかった?

 スミ子さんが出てくる直前に俺はバス停に駆け込む

 前の時間軸のスミ子さんの姿を確認していたんだぜ。

 あのバス停の通りのところでさ…」

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