第2話隠したいこと
「こんにちは。奇遇ですね、こんな所で」
中谷のお母さん。中谷多江さんは僕が至近距離で近付き話しかけるまで、僕の存在には全く気が付かなかった。
「あ、あら。拓真君。こんにちは」
少しびっくりしつつも年の功なのか、こんな日に駅中で僕と偶然会ってしまった現状にもかかわらず、慌てふためくことはない。さすが中谷隆聖やと言う名の大きな子どもを育てているだけはある。
普段、中谷家にお邪魔し家の中で会う多江さんと違い、今日はかなり綺麗だ。それもそうか、この後ドラゴン野郎とデートなのだから……。
「拓真君はどうしてここに? 何か用事が? 誰かと待ち合わせ? えっと、なんか今日は暑いわね……」
覚悟を決めてにこやかに対応していた僕に向けて、多江さんはチラチラと視線を逸らしながら、早口でいろいろな質問を浴びせて来た。最後の方に至ってはもはや質問ではなく独り言だったが。
僕から視線を逸らし、質問を矢継ぎ早しに言い。9月も終わり頃で、今日は十分過ごしやすい気温だと思うのだが、多江さんはいきなり手を仰ぎ出し暑いと告げる。これは……。
今、多江さんはかなり焦っていらっしゃるのではないのだろうか?
少しずつ動作がおかしくなって来た多江さんを見ながら、僕は心の中で謝罪する。ごめんなさい多江さん。数分前に僕も同じ心情になりました。いや、僕のほうが遥かに上回る程の衝撃体験を経験しました。でも、今はもう何もかも怖くないんです。何故なら……。
悟りを開いてしまったから。
そして多江さんにもう一つ謝罪せねばなりません。現状を上回る程のおっかなびっくり体験を今から経験して頂きます。申し訳ございません。言うべきか言わざるべきか。僕も悩みに悩みましたが、なんだか今の多江さんを見ていると少しばかりからかってしまいたくなって、しまったのです。ほんとうに申し訳ない。
「たしかに暑いですねー。こんな日は待ち合わせなどせずに、とっとと返ってしまいたいぐらいですよね?」
「ええ、そうね……」
「あれ、多江さんも誰かと待ち合わせを?」
「え、いや、私は別に――――その、なんとなく! なんとなく金時計を眺めていただけなのよ! ほら、地元に住んでいると、ありがたさが分からずに見ていることってあるでしょ? それってなんだか制作した方に申し訳ないと、ふと考えたのよ。だから今日暇な時間を見つけ眺めていたってわけです」
いろいろとおかしいが、つっこまずに笑顔で、多江さんに同意を表すように大きく頷く。
「あ、そうなんだ。てっきり同意して頂けたんで、多江さんも誰かと待ち合わせを」金時計の周囲を左指でぐるりと回し続けて言った。「ここでしているのかと思っていました」
「違いますからね! 素晴らしい金時計を見に来ただけですからね!」
製作者が聞いたら泣きながら、喜びそうなことを、多江さんは顔を少し赤くして力強く言った。発言に合わせ多江さんのくちびるが少し震えている。もう可哀想だから、ネタバラシしてあげよう。あれ、でもネタバラシしたら余計に傷つけてしまいかねないよな。……ごめん多江さん。そのかわり後で隆聖を好きなだけ殴っていいから。
「遅くなって申し訳ないです多江さん。いえ、あかねさん」
僕は大の大人が、漫画のように驚く姿を生まれて初めてこの目で見たのだった。
「早く死にたい、死にたいな。早く死にたい、死にたいな…………」
ワンルームの狭苦しい空間で、おどろおどろしい歌声が聞こえる。勿論歌っているのは僕ではなくあかねさん。もとい、多江さんだ。数十分前まで綺麗に整っていた顔は、涙と鼻水とあと赤いヤバめの成分が、入り混じった物により、悲惨な変貌を遂げている。シワのなかったブラウスは紙をくしゃりと潰したように、線が無数に作られている。それをまじまじとまた見てしまい、僕の心に刺さっていたノコギリがギコギコと引かれた。ごめんなさい、多江さん。
「私を殺〜してください〜!! ぶち殺してください〜!!」
「ちょっと! ただでさえ暗い歌なんですから、歌詞通りに歌ってくださいよ! 殺してください、ぶち殺してくださいではなく。生かせてください、生きたいわ。ですよね!」
元の歌詞も酷く暗いのに、多江さんはそこからアレンジを加えて、本元を超越しに行っている。流れているカラオケのミュージックビデオが、夜の海岸を歩くひとりの寂しそうな女性の映像で、多江さんのアレンジに笑えなく拍車をかけている。
「もう、おばさんね。死のうと思うの。子どもを持つ親でありながら、人に言えない仕事をしていて。世間に対して申し訳ないし、何より隆聖に申し訳ないから。だから死ぬのよ、死ぬしかないのよ……」
伴奏の途中でカラオケを停止した多江さんは、マイクを机に転がし、椅子に力なく座り込むと、深くため息のように、本日度重なる悲痛な思いを吐露した。
何度も言ってるのに何故、理解してくれないのだろうか?
おそらく一生分使い果たしてしまい、当分出てこない涙を、無理やり拭き取るように目元を何度も何度もピンクのハンケチで擦っている。自分を責める必要なんてこれっぽっちもないんですよ多江さん。僕は今日の為に、珍しく持って来た自分のハンケチを、多江さんにそっと渡すと口を開いた。
「いいですか? 多江さんは何も悪いことはしていません。世間に、ましてや隆聖に顔向けできないなんてことはないんです」
「でも、私は」
ハンケチを受け取った多江さんは、口元をハンケチで覆いながら、何かを訴えかけるように僕を見つめた。多江さんの瞳を見ながら僕は首を左右にゆっくりと振る。そして多江さんに話の主導権を握られない為に、口を再び開き続けた。
「世の中には必要ない仕事なんて存在しないんですよ。必要なければ作られた所で一年と経たずに直ぐに消えて無くなります。誰かに必要とされてるから生き残っていると言うわけです。そしてもう一つ。これはベタですが金を貰っている以上、その仕事に偉いも尊いものないんです。職業に貴賎なしってやつですね」
「言いたいことは分かったは拓真君。ありがとう。でもね。拓真君にはまだ分からないかもしれないけれど、世の中は常識の範疇を超えてかなり複雑なのよ、残念ながら」
多江さんは寂しそうにポツリと告げると、氷が溶けて消えた苦そうなブラックコーヒーをストローで吸い上げた。
駄目だ。また堂々巡りだ。一体どう言ったら多江さんは納得してくれるのだろうか……。
「あの、多江さんは世間体を気にしていましたが世間の皆さんの為に生きているんですか? おそらく、いや、違いますよね」
「……そうね。世間というより、うちの馬鹿息子の為に生きているのかもね。だから、なおさら隆聖に言えるわけないわよねこんな仕事。きっと幻滅されるに決まっているわ」
事情があり離婚歴がある多江さんは、女手一つで隆聖を立派に今まで育てあげてきた。隆聖と僕が通っている高校は授業料が安いわけでなく、それなりにする。それに高校だけでなく、何かと今まで金銭的にお金のかかる瞬間があっただろう。そんな世話をかけて、丹精育ててくれた母親に対して幻滅する隆聖だったら、僕は間違いなくアイツをぶちのめすだろう。だが生憎アイツは馬鹿だが、そんな気持ちを抱く奴ではない。付き合いが長いアイツと悪友である僕が保証する。大丈夫だ。
「大丈夫ですよ。隆聖は多江さんがどんな仕事をしていても動じないどころか、話を聞いたら逆に感謝しますって」
「でも、わからないわ。あの子最近やけに冷たいし、私に辛く当たるし」
お母さん。きっとそれは思春期という奴で間違いないです。でも、確かに今の仕事を、実の息子に知られるのはかなり気が引けてならないだろう。どうしたものか……。うん? 待てよ。多江さんがポロリと漏らしていたではないか。あれ? というより、そもそもこんな暗い話をする必要なくないか?
「多江さん、あれですね。別にバレなくないですか? 世間にも隆聖にも?」
「え、どうしてかしら?」
多江さんが珍しいモノでも見つけたような目を向けて来た。
「だってバレようがないじゃないですか。どこからバレるんですか?」
「それは……」多江さんがはっきりと僕を指差しながら言った「拓真君から?」
「はぁああああああああ! イヤイヤ。怖い怖い怖い。なになになに。何が見えてるんですか? 一体今までの僕の苦労は何だったんですかね?」
思わず立ち上がり、抗議の意思を表した。
「だってねぇー」
だってねぇー。ではないよ多江さん。付き合い長いのに普段どんな奴だと思って僕と接していたんですか? 「顔が少しあれなんじゃないですかねぇー」じゃねぇよ僕の心! 今はいらないんだよ、切り口に塩をたっぷりと塗り込む行為は。
「ほんとのほんとに言わない?」
「まだ疑うんですか。はぁー。言いませんよ。誓って言いません!」
「そっか……分かった信用します。ありがとね拓真」
「別にいいですよ。こんなことぐらい」
「ねぇ拓真君。一応指切りげんまんでもしとこっか」
年齢に見合わぬ白い小指を僕に向けて差し出し幼い少女のように無邪気に笑う。それを見て僕も小指を立てると多江さんの指に絡ませた。
「指切りげんまん。嘘ついたらハリセンボンのーます指切った」
想像していた以上の指の柔らかさに、多江さんが歌う、指切りげんまん曲が終わると、直ぐに指を解いてしまう。
「ハリセンボンだからね。頼むよ拓真君」
少しいけないことをした気分になり、多江さんの顔を見ることなく、僕は返事を小さく返した。
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