小うるさい右の方
文野麗
小うるさい右の方
「やべえ。俺の隣超ガリ勉なんだけど」
聞こえてるっつーの!
「なあ石川、俺の隣超頭いい人。でも話したことねえんだよなあ。どうすりゃいいの?」
「勉強教えてもらえんじゃん」
だから全部聞こえているんだけど。私が何も聞いていないとでも思っているの?
何の因果か今回の席替えでは達川とかいう男子の隣になってしまった。この人はずっとしゃべっているから苦手だ。どうやら思ったことを全部口に出さないと気が済まないらしい。思考を濾過しないなら何のために頭があるんだろう。
「勉強好き? おい聞いてんのか?」
独り言かと思ったら私に話しかけているらしい。
「嫌いじゃないかも」
「すっげモノホンだ」
達川は文字通り腹を抱えて笑い始めた。今の返答のどこがそんなに可笑しいのやら。
「おい岸川!」
「何?」
「俺ここわかんねえんだけど」
数学の練習問題を解く時間は生徒達が話をしても先生は何も言わなかった。教え合うという名目で皆雑談しながらシャーペンを動かしていた。
「どこがわからないの?」
「代入法、っていうの? 数学わかんねえよ」
私はノートに数式を書いて説明した。
「こう、xとyがあるでしょ左辺に」
「左辺って何」
「=のこっち側」
指で指し示した。
「xを右辺、つまり=の反対側に持ってくるの。そうすると-がついて」
「なんで-になんの?」
「そう決まってるんだよ覚えるしかない」
「面倒くせえ」
説明してわかるだろうかと不安になった。でも私にはこれしか説明できない。
「xを右辺にもってくるとy=-x+2になるでしょ。そうしたら」
「あーわかったわかった。このyイコールを下の式のyに換えるんだな」
急に回路が繋がるものだと感心した。教える必要はあったのかな。
「ガリ勉あざっす」
達川は不良っぽかった。他のクラスの問題児たちとつるんでいた。学ランの下にいつも赤いシャツを着ていた。夏休み明けは髪が染まっていた。
私は目立つ方ではないから、ホームルームの時なんかも黙ってクラスの中心人物の発言を聞いていた。一方達川は皆の前で意見を言える生徒だった。はっきり言えば派手だった。
他の派手な生徒達は私のことなんか全く相手にしなかったけれど、思考が口からダダ漏れの達川だけは隣の私と話したがった。
「お前彼氏いる?」
「いない」
「できたことは?」
「ない」
「っぷー。モテねえんだお前」
私は顔を逸らした。
「なあ知ってるか?」
「何を?」
「言っとくけど俺もう立派な男だから。意味わかる?」
「知らない」
嫌悪感を覚えた。普段そんなことをしているんだ。相手は誰だろう。いや考えたくもない。
「ちなみに女子でももう卒った奴いるよ。このクラスにも」
「ああそう」
「いるよっ? いるよっ?」
達川は人差し指を立てて、何かを数えるように空中をさして動かした。声の調子で、実は彼自身も気恥ずかしくなったのだとわかった。
もう中学生だもんね。半分大人なんだから、彼氏とか彼女がいたらそうなるよね。
誰にも言えないけれど、正直少しうらやましかった。
三ヶ月経って、ようやくまた席替えになった。これでもう授業中達川のおしゃべりにイライラしなくて済む。
「お別れだな岸川」
「そうだね」
「勉強教えてくれたお礼にプレゼントやるよ」
そういって達川はシャーペンの芯入れを取り出した。下に向けると中から赤い芯が出てきた。
「これ赤芯。赤い字書けんだ。お前にやるよ」
「いいの?」
「特別だからな。大事にしろよ?」
本当にくれるようだった。私はそれを自分のシャーペンの芯入れに入れて、いつまでも使わずに持っていた。たまに他の黒い芯に混じって出てくる度に引っ込めていた。
その後達川とあまり話すことなく、私は中学校を卒業して進学した。一度だけ、彼と会ったことがある。
中学校の同級生と遊んだとき、地元のカラオケ店にいた。ソーダの香りが染みついた店内に入ると、
「あ、おーいおーい岸川!」
と呼ぶ声がするので見てみると、カウンターの前で誰かが手を振っていた。よく見ると達川だった。
私は驚いて、どうしたらいいかわからなかったので、軽く手を揺らした。
「ねえあれ誰?」
「覚えてないの? 同じクラスだった達川大河だよ」
「えー全然覚えてない」
最初は不思議だったけど、確かに仲がよかったわけでもない人の顔を見てもすぐにはわからないかもしれない。
あいつどうして私のこと覚えていたんだろう。私もなんであいつのことすぐにわかったんだろう。
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