86.黒猫は語る

 魔術で作り上げられた霧の幽霊は消滅し、宗谷とミアの目の前に姿を現したのは、一匹の黒猫だった。

 右眼は緑色、左眼は金色のオッドアイ。じっと二人を警戒するように睨んでいる。


「……猫さん? とても綺麗なお目目ですね」


 ミアは少しかがむと、両手を広げ、微笑みながら、黒猫を招き入れようとした。


「ニャア!」


 ミアに反応したかのように、警戒心を現わすような一鳴き。

 だが、オッドアイの黒猫は、その場から動かない。


「……ニャー、ニャー、ニャア! ……なんてな。ははは。今更取り繕っても仕方無い。私の負けだ」


 オッドアイの黒猫は、悪ふざけのような鳴き声の後、右目を閉じ、流暢な人間の言葉を呟いた。


「……っ?」


 戸惑うミア。

 霧の幽霊と対峙した時に見せた勇敢さとは打って変わって、人語を喋る黒猫に対しては驚きを隠せなかったようだ。

 ミアはこの猫の正体を知らないのだろう。確かに目の前にいるオッドアイの黒猫は、幽霊ゴースト以上に、滅多に見る事の出来ない希少種だった。


「……黒眼鏡の紳士。どうやって私の幻覚イリュージョンを見破った?」


「割と最近、幽霊ゴーストを見た事があってね。透過具合に違和感があった。それと君の幻覚イリューションは、脅そうと工夫を凝らしていたせいか、少々わざとらしく、リアリティに欠けていたな」


 宗谷はオッドアイの黒猫の発見に眼鏡の機能を使った事は伏せ、少し勝ち誇った風に、それらしい事を適当に言い繕った。

 ただ指摘した事は間違いなく、霧の幽霊の動作に違和感を感じたのは事実であった。


「……なるほど。脅かしてやろう、という意図が見え透いていたという事か」


 オッドアイの黒猫は拗ねた様に、その場に屈み込むと、欠伸あくびをした。


「まあ、幽霊の出来栄えはともかく、これ程の魔術を扱えるのは見事だったよ。君は猫妖精ケットシーだな?」


 猫妖精ケットシー。猫の王とも呼ばれる、幻獣である。

 人間並み、あるいはそれ以上の高い知能を持ち、猫を従える能力や変身能力を有し、個体によっては魔術や精霊術を行使するという。

 宗谷は猫妖精ケットシーの存在や特徴は知っていたが、実際に遭遇し、目にするのは初めてだった。


「いかにも。私は猫妖精ケットシーのシャミル。ソウヤとミアと言ったな。先程小屋に居た、草妖精グラスウォーカーと初老の男も仲間か?」


 シャミルと名乗った猫妖精ケットシーは、二人に対し問いかけた。


「ああ、その通り。この眠っている牝馬もそうだ。……シャミルと言ったね。普段からこの山小屋に?」


「否。普段からと言う訳ではない。……水が苦手な身体故、雨凌ぎに使わせて貰った。……魔法で脅かしたのは、先客の草妖精グラスウォーカーの少年が、やたらお喋りでやかましかったのでな。……お前たちにも、何やら仲睦まじく見せつけられて、少々腹が立った。まあ、ちょっとした悪戯心で、特に深い理由は無い」


 悪びれも無く、可笑しそうに呟くシャミルを、ミアは、きょとんとした表情で見つめていた。


「この猫さん……ソウヤさんにそっくりです」


 ミアの呟きを聞いた宗谷は、真顔で彼女の方を見た。



 ◇



「……今はただの野良猫だ。三か月ほど前、仕えるべきマスターを失ったばかりでな」


 シャミルは淡々と語った。黒猫の目の前の食器の皿には、宗谷がイルシュタットで買い込んでおいた一切れの鶏肉が置かれていた。


マスター? 君は使い魔ファミリアだったのか」


「左様。幻覚イリュージョンの魔術も、そのマスターから教わった物だ。……イスカール山の隠者。名は捨てたと言っていたな。それ故にマスターと呼んでいたが」


 イスカールは、イルシュタット南南東方面の山岳地帯の奥地、標高3000メートル程ある高山で、この山小屋からも、立派な峰を遠くに見るが出来た。


(……イスカール山の隠者。聞いた事が無いな。もっとも僕は、イスカール自体に踏み込んだ事が無いから当然だが。……亡くなられたのだろうか)


 名を捨て、自らを隠者と名乗り、人里離れた高山に住まうくらいである。元は高名な魔術師マジシャンだったのかもしれないが、世捨て人だったのだろう。


(そして猫妖精ケットシーを使い魔にしていたのならば、イスカール山の隠者は、大導師グランドマスター級の実力者。……世の中は広いな)


 幻獣である猫妖精ケットシーを使い魔にするには、上位使魔ハイファミリアという高等魔術により、使役契約を行う必要がある。

 もし魔術による契約が成立した上で、シャミルを従えていたのならば、相応の魔術の実力があるという事の証左であった。


「……さてと。私の話はここまで。ソウヤとミアは何処へ行くつもりなのかね? 他にも仲間が山小屋の方に居るようだが」


 身の上話を終えたシャミルは二人に対し、質問を行った。

 シャミルに敵意は無さそうだが、依頼人のペリトンに雇われてる手前、目的の詳細を伝える訳にはいかないだろう。


「……私達はイルシュタットから来ました。そして、これからリンゲンに向かう予定です。シャミルさんは御存知ですか?」


 ミアは何処から来て、何処へ行くかだけ、簡潔に伝えた。

 

「イルシュタット。……山を下りた平地にある大きな街だな。年に数回、マスターの言い付けで買い出しに行く事があった。リンゲン。……南東の山中にある街か。食糧や赤葡萄酒ワインの買い出しに行く事がある」


 シャミルは、イルシュタットもリンゲンも知っているようだった。

 そしてマスターは、イスカール山の隠者を名乗ってはいるが、シャミルを小間使いにして、街で買い物をしながら暮らしていたようだ。赤葡萄酒ワインの買い出しという事は、酒も嗜んでいたらしい。

 詮無き事である。あのような高山で、自給自足で暮らしていくのは、地妖精ドワーフでも難しいだろう。


「僕達は雇われた身で、あまり詳しい事は言えないが。ミアくんの言った通り、リンゲンに行く予定だ。目的は君と似ているかもしれないな」


 リンゲンまで護衛する目的は、依頼人のペリトンが赤葡萄酒ワインの買い付けに行く為である。そういった意味では、マスターの命令で、赤葡萄酒ワインの買い出しをしていたシャミルと同じ目的であった。


「……リンゲンか。……行くのであれば気を付けた方が良い」


「はい……確かにこの大雨だと、明日は少し、しんどくなるかもしれません」


 ミアが苦笑いを浮かべつつ、シャミルに返事をすると、シャミルは首を振った。

 どうやら大雨の話ではないらしい。


「いや、そうではない。……昨日だったか。南東の方角、リンゲンに近い場所だったと思う。雲にまで届くような大きな煙が延々と立ち昇るのが見えた。……山火事でもあったのかもしれないな。この大雨で消えていればいいが」


 淡々と呟くシャミルに、宗谷は胸騒ぎを覚えていた。

 頭を過ぎったのは、夕方過ぎに遭遇した青銅の魔兵ブロンズデーモン。そして――



「きゃああああああ!」


 落雷の時よりも、さらに大きなアイシャの悲鳴が聞こえた。

 そして、山小屋の方では、何やら騒めきが起きているようだった。


(――何かあったのか?)


 宗谷はその場から立つと、咄嗟に馬小屋から飛び出した。

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