84.現れた隙と気の迷い

 タットとラムスの話によると、馬小屋でもやのようなものが見えたらしい。タットはそれを幽霊と思い込んでいるようだった。彼の怯え具合を見ると、そういった類の物が苦手なのかもしれない。

 宗谷は馬小屋の様子を見に行く為、その場から立ち上がった。


「……ソーヤ、少し顔色が悪いぞ。わたしが行こうか?」


「メリルゥくん、心配はいらないよ。だが霊魂の対処というものは簡単ではないから、二人の勘違いだと助かるな。本当に幽霊ゴーストだった場合は……まあ、その時はその時で考える事にしよう」


 宗谷はメリルゥに対し、薄く微笑みながら、肩をすくめた。


(霊体を世から消し去るだけなら魔術で出来なくはないが。……成仏させずに、というのは、あまり気分の良いものでは無いな)


 幽霊ゴーストを成仏させるには、司祭プリーストの行使する救済サルベイションの神聖術を行使する必要があった。スレイルの森で出会った幽霊ゴーストの少年は、ミアが長い祈りの果てに詠唱を完成させたが、悪霊といった敵対的な幽霊ゴーストだった場合、そのような猶予は貰えないだろう。魂魄の破壊という手荒い手段が必要になるかもしれない。


 ただ、二人が一切何もされず、無事ここまで戻ってこれたという事は、悪霊といった類の可能性は極めて低いと推測出来る。とりあえず、一旦馬小屋の様子を見て判断するべきだろうと宗谷は思った。


 ◇


 山小屋の外では、相変わらず強い雨が降り続いていた。

 屋根が突き出ている為、幸い頭上に降り注ぐ事は無かったが、強風に乗って、霧状の飛沫が羽織った外套マントを湿らせていく。

 宗谷は小屋の壁に沿うように、屋根伝いに歩きながら、隣の馬小屋まで辿り着くと、半開きのままになっている入り口の扉を開けた。 


 馬小屋の中では、荷馬のアナスタシアが、馬房の藁の上で横たわり、眠りについている。床には明かりが灯ったままの洋灯ランタンと、夕食に使ったであろう食器が置かれていた。いずれもタットとラムス、どちらかの私物だろう。

 

「――闇を照らす明かりとなれ。『照明ライティング』」


 宗谷は手のひらから、魔術で作り出した照明を浮かび上がらせると、そのまま3メートル程の高さに浮遊させた。

 そして明るく照らされた馬小屋の中を、ゆっくりと見渡したが、ラムスの言う、もやのような存在を確認する事は出来なかった。


(……何もないな。やはり、二人の見間違いか?)


 だが、すぐ異常無しと決めつけるのも早計だろう。皆への報告は後回しにして、もう暫く馬小屋の様子を見る事にした。

 宗谷は外套マントを脱ぎ、腰を下ろすと、異次元箱ディメンジョンボックスから手鏡を取り出し、自分の表情を確認してみた。


 手鏡に映る表情は、先程、山小屋でミアやメリルゥが指摘したように、確かに優れないようにも見える。

 アイシャから借りた六英雄物語は、一部の内容が精神的に辛いものではあったが、レイと正体を明かしていない現状、気に留めない方が精神衛生上良いだろう。

 気掛かりなのは、黄金の勇者アレスと白い聖女フィーネの行方不明の件。何やら胸騒ぎがするが、これも今すぐにはどうする事も出来ない。宗谷はもどかしい思いを感じ、深い溜息をいた。


(所在が判明しているのは、ロザリンドとラナクか。……二人は勇者と聖女の失踪の手がかりを掴んでいないだろうか?)


 薔薇のロザリンドと灰のラナク。

 六英雄にして二十年来の旧友である、二人に会いたいという気持ちが少しずつ芽生えて来ている。もし叶うのであれば、所在不明である黒のブラドにも。やはり心の拠り所としていた、白い聖女失踪の件に、打ちのめされてるのかもしれない。


 宗谷が暫らくの間、考え事をしていると、馬小屋の入り口の扉からノックの音がした。


「……ソウヤさん。ミアです」


「居るよ。外は土砂降りだろう。早く入るといい」


 扉が開くと、強い雨音を背に、外套マントを羽織ったミアが姿を現した。

 長い金髪が、外から吹き込む強風で靡き、背後で鳴る稲光がそれを美しく照らし出している。

 慌ててミアが馬小屋の扉を閉め、雨霧と強風で乱れた髪を手櫛で整えていた。


「……ソウヤさん、幽霊は居ましたか?」


「いや。軽く馬小屋を調べてみたが、何も見当たらなかったな。ただ、もう暫く様子を見た方が良いと思っているが。……どうしてミアくんがここに?」


「メリルゥさんが、私に馬小屋の見張りにつくようにと。……体調は大丈夫ですか」


 ミアは腰を下ろして神官の杖クレリックスタッフを傍らに置くと、外套マントを脱ぎ、異変を探す為か辺りを見回していた。先程の話を聞く限り、どうやらメリルゥが宗谷を心配し、馬小屋の護衛に回るように指示を出したらしい。気分が優れない理由の一つが、自らの過去の黒歴史という事もあり、どちらかと言えば、一人で見張りにつきたかったが、わざわざ配慮して来て貰った以上、無理に追い返す訳にはいかないだろう。


「体調は問題ない。……六英雄物語を読んで、昔を思い出してね。少し感傷的になっていた。若い頃には戻れないし、今更どうにもならない事だが」


 宗谷は苦笑いを浮かべつつ、ミアに伝えた。

 思い浮かべていたのは若気の至りに対する悔恨。事情を知らないミアには違った意味に捉えられそうだが、それはそれで構わなかった。


「ソウヤさんは全然若いと思います。たまにですが、大人気ない意地悪する事がありますし」


「……申し訳無いね。多少の悪戯心によるもので、決して悪気は無いんだ」


「それはわかってます。……ソウヤさんは、若い頃はどんな方だったのでしょうね?」


 唐突なミアの質問に、宗谷の表情は凍り付いた。

 当然、彼女には悪意も悪気も無いのだろう。意図しない処で勝手に傷つけられているのは、全て自業自得である。

 白銀のレイ。忌まわしき過去の幻影がちらついて、思わず宗谷は左手で顔を抑えた。


「……ソウヤさん?」


 宗谷の様子を不審に思ったミアが、表情を引きつらせた宗谷を両手で支えた。


「向こうに居た時から、少し様子がおかしかったです。……怪我はしてませんよね……少し身体を休めた方が良いのでは」


 ミアは正座をして、宗谷を膝の上に寝かしつけようとしていた。


(……ちょっと待て)


 余裕のある普段の宗谷であれば、すぐさま気取って拒否したかもしれない。

 だが、夕刻過ぎの青銅の魔兵ブロンズデーモンの遭遇戦から始まり、黒歴史を含む六英雄物語の内容や、頼りたかった旧友の失踪等、精神的疲労があったのだろう。そこに現れた隙と気の迷い。


「……暫くこのままで構いませんから。疲れていませんか?」


 心地良い感触。気づいた時には、宗谷はミアの膝枕で横たわっていた。抗う気にもなれず、宗谷は思考を放棄していた。


「……いや。疲れてるのかもしれない」


 稲妻の落ちる大きな音がした。

 隣の山小屋からは、アイシャの悲鳴とメリルゥの茶化すような笑い声。

 轟く雷鳴を聞きながら、宗谷はミアとイルシュタットに辿り着いた時の事をぼんやりと思い出していた。

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