第18話 シャッタの理由――17時43分、鴬台空港付近上空

「増岡ちゃんのと似てるな」


「なにが?」


「この飛行機。似てねえ?」


「……そうかな、大きさはこのくらいだったかも……良く覚えてない」


 小声で交わす会話は轟音にかき消されそうになる。ジェット機になんて乗るのは本当に珍しいことで、しらは少し緊張していた。

 加速も轟音も、航行する巡航船と連絡船に慣れ切った世代の人間には激しすぎる。

 分厚い雲の中で、小さな窓の外には何も見えない。シップは時々急に揺れたが、上昇を続けているようだった。

 えいの顔色が良くなかった。水のシャワーを浴びてしまったからばかりではないだろうと白音は思う。

 てんりょう号で青菊あおぎくが怪我をした、と連絡が入ったのが三十分ほど前のことだ。航空事故に巻き込まれ、飛んできた椅子にぶつかったという話だが、どんな容態なのか情報はない。ないからこそ心配が募るのだろう。

 青菊には直接連絡が取れない。事故の影響で一時的に天菱号のネットワークが切り離されているからだ。今、天菱に乗っている人間の個人的な携帯端末ワンドはすべて、外界のネットワーク上から見えない。鋭児に連絡をくれたクルーはこういった事態でも回線が切られず使える非常設備の電話から掛けてくれていた。

 とにかく、自宅が鴬台おうだい空港のすぐそばで、道に除雪が入っていたのが幸いだった。家族なら一番最初に飛べるバスに乗せるよう空港に手配する、と天菱側が言ってくれたので、取るものも取りあえず空港に駆け込んだところ、今すぐ飛ぶと言われて乗せられたのがこの旧式のジェット機だった。

 普段ならこんな天候の日にはバスに乗りたくない。でも、これを逃したら今度いつ雲の上に出られるか分からない。この後また天候は荒れる予報だ。

 何の景色も見えない窓に視線を向けたまま、あたしは、と白音は唇を噛んだ。


 あたしはこれまで一度でも、あの子が消えてしまえばいいと思ったことがない、と断言できるか。

 ……できるか?


 醜い、自分。

 心臓に塩酸が掛かったみたいだ。どきどきして、いつもみたいに色々なことを考慮していられない。

 おうぎやまへ家出した青菊。

 空へ去った青菊。

 同じだ。青菊が変わらないのと同様、自分もちっとも変わっていないと白音は思った。

 青菊が怪我だらけで扇山から星とシップを見ていた頃、自分は友達の家で大騒ぎで遊んでいた。

 そして今回、青菊が雲上で怪我をしている頃、自分はまたその妹を疎ましく思っていなかったか。

 最低、と隣の鋭児には聞こえないように唇だけで呟いた。

 窓の外は暗く白い。まだ、雲を抜けない。

 窓から鋭児の手元に視線を移す。機内モードになった携帯端末を持つ手は動かない。更にその向こう、通路を挟んだシートには天菱号のグラウンドスタッフだという何人かが座っている。所々が轟音にかき消されながらも、その会話が伝わってきた。


「……放送は」


「生きてる、それは場所が全然別だから。それよりバスが出せてないみたい。他のシップからの応援も来られなくて、避難で出ていく人も送り出せてない。そもそも雪閉せっぺいでオーバーウェイト気味なところに着便がまばらだったから」


「天菱から人を運ぶ機材がないのか。そりゃそうですね。このバスは?」


「このまま天菱から人運んでくれる予定だって。ターミナルじゃなく空っぽの旧発着場に、いま怪我人移動させてるところらしい」


「ありましたっけ」


「あんのよ。下五階だっけかな、船尾の方から。一度遅刻しかけて飛び乗ったことあるけど、手前で航行に切り替えてスーッと入ってくの」


「へえ。ご案内フローで見たことなかったもんですから」


「個人バスだしパイロットが変わった人なんで、通常ご案内してないの。まあフライトについちゃ間違いないんだけど、前に飛び込み客乗せたらその客の態度が悪いってんでものすごい角度のバンク飛行続けて泣かせたっていうことがあって、それ以来」


 地上に住む白音達には聞き慣れない単語が混じる。


「じゃあまあ無事に天菱には着けそうですね……はああ、まあ死者は出てないっていうし、」


「いや分からない、初報しかきてない。とにかく墜落者はいないってことだけ」


 死者、の単語が心臓の底に刺さった。

 青菊がもし、死んでいたら。空の上で、事故に巻き込まれて、一人ぼっちで。

 言葉が浮かばない。

 想像が出来ない。


「パパ」


 助けを求めるしか。

 いま本当に助けて欲しいのは妹の方に違いないのに。


「青に何かあったらどうしよう」


 もう何もかも終わってしまっていたらどうしよう。

 取り戻せない。時間は決して取り戻せない。

 だから。

 はっとした。

 青菊はそれを、ずっと前から知っていたのではないか。

 だから、写真だったのでは。

 時間を永遠に写し止めることに、固執したのではなかったか。

 それは失った者にしか理解できない欲求だ。失ったものがあるからこそ、保存への意志が生まれる。


「青は」


 鋭児が携帯端末を握ったまま言った。


「怪我しても写真撮ってると思うよ。意識があればね」


「怖い事言わないで」


「誰も墜ちちゃいないし、死者の報告もない。青は大丈夫だよ」


 そう言われても、悪い情報ばかりが思考を埋める。小説のプロットのために探した航空事故のデータが裏目に出た。丸ごと山脈に落下した巡航船もある。船から落下して行方不明になったケースも少なくない。更に、与圧低下と酸素濃度の低下。文字通り飛び回る備品と衝突することによる外傷。商業施設のある巡航船では、乗客の多いときほど当然被害が拡大しやすい。

 どうしようもなくて白音がまた何か喋ろうとしたとき、機は突然分厚い雲を抜ける。一列になった窓から光の帯が、平行に機内に射し込んだ。

 窓の外ははっとするほど鮮烈な紫。夜の濃紺へ向かう、燃えるようなグラデーションが天を覆っている。

 反射で機内の色までもが変わった。乗客が一斉に窓へ視線を向けている。

 強烈に美しい空。

 その向こう、虹色に染まる雲海の上に、天菱号の影はまだ見えなかった。


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