第10話 扇山の星――鋭児の回想

 中学生くらいの頃、しらは時々、あたしと青菊あおぎくのどっちが好き、と訊いた。どっちもヤバいくらい好き、とえいは答えた。

 白音は毎回、がっかりも喜びもせず、普段通りの表情で、そう、と言った。

 白音が妹に対する感情をよく表したのは、思えばあの問いかけくらいだったように思う。それもごく短い期間のみで終わった。

 いや、違うか。鋭児は思い出す。たった一度、青菊が巡航船に引っ越してから、白音は青菊を評価した。


――何の自覚もない子っているよね。本当は、何もかも持ってるのに。


 何もかも、と言う白音が青菊に何を見ているのかははっきりしなかったが、確かに青菊は自己評価の低い子供だったかもしれない。小さい頃にあまり構ってやれなかったのは今でも悪い事をしたと思っている。

 白音が小さい頃は鋭児もまだ暇で、沢山遊んでやれたし、色んな所に行って思い出話も山ほどある。だが青菊には多分、そういったものがほとんどない。青菊の生まれる前後から鋭児の映画は当たり始め、妻のまどかも白音を産んだときは三年近く仕事を休んだが青菊を産んだとあとは比較的すぐ復帰し次々に大きな仕事をこなしていて、青菊は実質的にベビーシッターに育てられた。

 それはそれで仕方ない、と大人には分かることでも、子供は多分、気持ちが割り切れない。私は違う子だ、と思ったとしても、それほど不思議はない。今思えば、違うと思わせるほどに差を感じさせてしまったのは自分たち親の責任だ。

 違う――と、青菊は思っていたらしいのだった。



 その日、鋭児が帰宅した時、居間は空だった。青菊は朝が弱い代わりに宵っ張りで、大体午前一時までだったら起きて待っているものだったのに。

 まどかは海外ロケに行っていたし、白音はモデルの仕事がひけたあと友達の誕生会に行って泊まってくる予定だった。

 嫌な予感がして玄関に戻ると、靴がひとつなかった。二階の青菊の部屋を見ると、バッグがひとつなかった。そして、お小遣いを貯めていたはずの缶が消えた代わりに、連絡のために買った携帯端末ワンドが机の上に置かれていた。

 まどかは移動中で連絡が付かない。白音も家に帰っていないのだから知らないだろう。

 真夜中にも関わらず小学校に電話したが誰もいなかった。担任の自宅に電話した。不機嫌そうな相手に構わず問いただしたが、学校は休んでいないし変わった様子もなかったと言われた。次に、塾に電話した。塾は無断で休んでいた。友達を当たろうかと思ったが、青菊が特別仲のいい友達、と言われると思い付かないことに愕然とした。控えめで、家の中にいたがって、でも全く手のかからない子だった。


 青菊の行きそうな所が分からない。

 十一歳の子供。夏の深夜。

 公園か? 学校か? 青菊は子供だ。街に出れば補導される。

 子供の行きそうな……いや、青菊の行きたがりそうな場所はどこだ?


 それも思いつかない。鋭児はかなり本格的に呆然とした。記憶が、知識が、何も引っ掛かってこない。青菊って誰だ。俺の娘だろうが。

 考えて、考えて考えて、ようやく思い出したのが巡航船だった。

 車のキーだけ掴んで家を飛び出した。


――巡航船が好き。


 降りたばかりの車にまた乗り込んで急発進する。住宅街は知らない顔で眠っている。


――夜のシップは大きな星みたいできれい。人が住んでるなんて凄いな。


 空港に行くことは考えられない。鴬台おうだい空港は家からすぐだが、この深夜に街の方向へ出て行くほど考えなしではないはずだ。簡単に補導される。それに、遠くから見る方が好きというニュアンスだったと思う。

 この近くで巡航船の離接岸が見える場所と言ったら、思い出すのはひとつ。鴬台空港に離接岸する巡航船が眺められる、おうぎやまの展望台しかない。車で十分、子供の足で歩いて、夜なら四十分はかかる距離だ。

 警察に連絡するか、行ってみるか、どちらがいいのだろう。車を走らせ始めてからそう思った。……自分の携帯端末ワンドを、自宅に置いてきた。

 慌てている。

 夜の扇山に、本当に行くだろうか。思考がぐるぐると廻る。十一の子が、夜間は閉鎖される山に入り込むだろうか。青菊はそんな方向に行動力を発揮する子供だっただろうか。

 やはり、分からない。頭の中がけているのか凍っているのか分からない。青菊のことを、知らない。


 知らない。

 何をしているんだろうか、自分は。

 何に向かっているのか。


 夜の山はふもとで道路が閉鎖されている。鋭児は車をそこで乗り捨てた。トランクの懐中電灯を引っ張り出して、閉鎖ゲートをくぐる。

 夏の山は植物の呼気でできている。湿度の上がった暗さの中を、鋭児は登っていく。すぐに汗をかいていることに気付いたが、冷や汗なのか暑いのかが良く分からなかったし、どうでもよかった。

 どこへ向かっているのか。

 この上に青菊はいるのか、いたところで――どのようにいるのか、自分はどう触れたらいいのか。

 想像ができない。未来が切れている。青菊が自分で切り離そうとしている、子供にしては大きくて器用そうなあの白い手で。

 俺がなにかに気付かなかったからだ、と鋭児は思った。家族の中では少なくとも、鋭児が一番一緒にいた。

 まどかは成績のいい青菊にもっと勉強させたくて、一向に欲を出さない青菊に不満があるようだった。そのまま長期のロケに出て家を留守にしている。白音は大人扱いされたい盛りでようやく一人前に仕事を始め、年上の友人達と遊ぶのに一生懸命で妹との接点が薄い。そういう意味で一番親しかったのは、いくら忙しいと言ってもやはり鋭児のはずだった。それなのに、気付かなかった。放っておき過ぎた。

 だらだらした真っ暗な上り坂は、四十寸前の文化系にはかなり厳しかった。

 シャツが背と腕にべったり張り付いて、こめかみから首筋へ、汗がわずらわしいくらいによく流れる。

 上り坂が永遠に続くかと思われたが、やがて不意に足の裏が捉える傾斜がゆるりと乱れて、頭の上すれすれを意外なほど冷たい風が通り抜けた。

 鋭児は扇山の展望台の端に辿り着いていた。駐車場が広がっていて、街を見下ろす高台はもっと向こうにある。

 ちらりと空を見た。白い星が幾つも、天を射るように光っていた。その間を、高く高くをく船の、人工の光。あれは連絡船バスだ、巡航船シップならもっと光が強い。

 空を見たまま二回ほどゆっくり息をして、鋭児は地上に視線を戻し、駐車場を斜めに突っ切るように走り出した。登りで疲労した足はうまく動かない。子供の頃、自分がこんなに鈍足になるなんて想像もしなかった。

 明かりの落ちた建物。濁った緑の非常灯がノイズのように邪魔だった。小さな階段で一回つまずいた。山頂に渦巻く風が汗を冷やして気持ち悪かった。

 建物を一巡りして、一番見晴らしのいい、一番高いところの柵に座っている子供の横顔を見つけたとき、言いたい言葉はようやく現われた。つまり、未来が。

 青菊はスカートから伸びる細い足をふらふらと揺らしながら空港を眺めていた。街の夜光を受けてその輪郭を夜闇に淡く浮かび上がらせ、不思議に安らいだ風に、光る船と光る星を見ていた。


「帰ろう、青菊」


 近付く前に鋭児は言った。出てしまった声は、少し裏返っていた。


「お前にしちゃ遠出だね」


 青菊は驚いたように振り向いて、だがすぐに諦めた顔をした。鋭児は、これは結構良く見る顔だと気が付いた。青菊はどうやら、日常的に何かを諦めていた。

 子供が。

 鋭児はやっぱり愕然として、自分が大嫌いになった気がした。一人で諦めて一人で家を出て、一人で真夜中の山を登って、そして星と船とを見て満ち足りていた小さな青菊に、助けて欲しいと思った。

 青菊は、答えなかった。

 ただまるで夜の世界の化身のように、無数の人工灯を統べる天使のように、人間の鋭児を見て、そこにいた。


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