第7話 地上は重い――9時47分、第九天菱号

 ラジオを聴きながら、朝の巡航船内をてくてく歩いて移動している。

 食材を買って戻って料理するのは面倒くさい。青菊あおぎく参角山さんかくやまバーガーでモーニングセットをテイクアウトし、上四階の船員用展望室でのんびり雲海を眺めながら食べることにした。

 いつもの平日朝なら商業エリアの展望室でもいいようなものだが、今日はてんりょう号から地上に戻れない客がひしめいているだろうし、近くにある連絡船バスターミナルのカウンタからは怒号も聞こえそうだ。でも、住人専用の展望室ならいつだって静かで快適なはず。

 日陰を選んで椅子に座る。雲の上を飛ぶ時間の長い巡航船に住んでいながら、青菊は直射日光が苦手だ。テーブル上の反射が眩しくて目が利かなくなる。視界が自由にならないのは、写真をやる人間にとって極めて不都合だ。

 真っ白に輝く雲海と青い空。遠くに別の巡航船が豆粒のように光って見える。紙袋からまだ温かいハンバーガーを取り出して噛み付きながら、ヘッドホンから聞こえてくるニュースに耳を傾ける。

 どのニュースを聞いても、地上が雪に沈んでしまった話ばかりだ。ネット上で知り合い連中が発しているメッセージも、除雪が回ってこなくて家から出られないというものが大半だった。まあ、どの家も今のところ停電地域ではないようだから凍え死にはしないだろうが、このまま降り続ければ今後どうなるかは分からない。

 雪。

 そういえば、しらの誕生日が近い。

 雪の日に生まれたから名前が白音だ。綺麗な名前。音の字が含まれるのに、不思議に静かな名前。

 だが、白音は賑やかなパーティーの真ん中にいるのが似合う。キラキラ笑うのが一番綺麗だ。誰かにプレゼントを貰って喜んだりお喋りしたり、料理を美味しそうに食べる姿は本当に絵になる。

 私はあんな風にはできない、と思う。

 最近は白音の仕事も忙しくなって、誕生日に家で何かするということはあまりなかった。前後の日の食事の時に軽くお祝いするくらいだ。ちゃんとしたパーティーは、白音の友達が別の場所で開いているはずだった。


 でも、お祝いのカードくらい贈るべきだろうか。そのついでに写真のことも頼む?

 いや、それはちょっと便乗し過ぎだ。それはそれ、これはこれ。

 ……写真、どうしよう。


 そもそも青菊自身は、今はまだ、ただの鍵倉かぎくらはなのままでいたい。中原青菊であることを公表して話題にしたがっているのは出版社のほうだ。売れた一冊目を前提に、実は鍵倉花の正体は、という人目を引きそうな文句をつけて、話題性を作った上で二冊目を売ることができるからだ。

 もしも中原と紐付けられない鍵倉花のままでいられるのなら、白音の写真を載せることはない。明らかにデビュー前の、明らかにオフショット。そんな写真があること自体、身内を疑われるのだから。

 それでも白音に許可を取りたい。どうしてだろう。あんな写真と白音は言うが、青菊はあれをきれいだと思う。そのことを理解してほしいからだろうか。

 ……白音に理解してほしいと自分は思っているのか。

 そんなことはこれまでなかったのに。


 考えながらも、ハッシュドポテトが冷めそうなので急いで食べていると後ろから声をかけられた。


「よお、写真家。学校はサボりか」


「サボりじゃないっす、降りられないしもう冬休みだし」


 モスグリーンの分厚いコートを着た五十過ぎの男は、短く笑って、ここ座っていいか、と訊いた。どうぞ、と手で示して、青菊はヘッドホンを首に落とした。絶え間ないニュース音声が消えて、巡航船自体の低い振動と空調音が世界に帰ってくる。

 しばというこの男とは夏に知り合った。俗にバス屋と呼ばれる個人連絡船のパイロットで、今でも航物ではなくジェットで飛ぶのが好きな変わり者。青菊が鍵倉花であることを知る数少ない人間の一人だ。

 柴は別の店で海苔弁とお茶を買ってきていた。


「今日は飛ばすんですか?」


「そらまあ、天海上は晴れだからなあ。乗るか?」


「どうしよう。乗るのは好きだけど、シップもバスもあんまり撮れなさそうだし……ていうか、雪閉せっぺい長そうなのにホイホイ飛んでていいんですか? 燃料は」


「難しいとこだわなあ」


 醤油をかけた海苔とご飯を箸でほぐしながら柴は答えた。


「確かに、この雪閉が長けりゃ燃料の都合はつかん。開いた時に飛べなきゃ商売になんねえからな。……でも、守りに入って飛ばねえのも嫌だし」


 柴さんの守りってなんなんだ、飛ばないと死んじゃうのか、と思ったが口には出さないでおいた。死にはしないが不機嫌にはなるだろうことが簡単に予想できる。柴は飛ぶのが本当に好きだ。


「ま、いよいよになったら航行だけでも降りるだけは降りられるけど……妥協だよな」


 だから柴さんの妥協って。青菊は思わず笑ってしまった。


「なんだよ写真家」


「すいません。ほんと飛ぶの好きなんだなぁと思って」


「パイロットは空に生まれて空に死ぬんだ」


「前半嘘だと思うなあ」


 あまり人の良さそうではない笑い方をお互いにしてから、柴は緑茶を、青菊は珈琲を飲んだ。


「うーん。柴さんだったら燃料プレゼントすれば確実ですよねえ」


「何が?」


「……ちょっと地上の、知り合いがですね。誕生日で。何か贈るとしたら何がいいのかなぁって」


「男か」


「いません」


 一音ずつを長めに言って、青菊は少し口をとがらせた。柴は面白そうに笑う。


「若いうちに遊んどけよ」


「誰もいないんですって」


「いるだろうよ、学校の奴とか写真のファンとかさ」


「……そういうんじゃなくて。誕生日なのは姉です姉」


「えっ青ちゃん家族いたの」


 柴はようやく青菊を青ちゃんと呼んだ。

 青菊は上目遣いに柴を見る。


「家族いたの、って私、人外の扱いですか、もお」


「だって聞いたことねえもん。まあほら、シップの住人同士ってやつは地上のプライヴェートは抜きの付き合いが多いからな」


 ヒヒヒと笑いながら柴は白身魚のフライを箸で分ける。


「姉ちゃんって幾つ?」


「二十三です。二十四の誕生日です」


「大人だな。何か参考になる話ないのか、合コン行くのにあれ欲しいとか、テレビや雑誌見て欲しそうにしてたものがあるとか」


「……うちの姉は合コンとか行きません。多分」


 答え始めてしまってから考えたが、やっぱり白音が合コンはない気がする。妹の贔屓ひいき目などではなく、あれは絶対に一山いくらの女ではない、自分から無理に攻める必要なんてない、と青菊は思う。それに、テレビや雑誌を見る方ではなくて出る方だ。というか合コンという言葉がもはや死語である。

 大体白音は、何が似合うとかこんなのが欲しいとかそんなことなら、名前は何といったか忘れたけどお気に入りのあのスタイリストさんに相談するだろう。そして自分で稼いだお金で買う。そういうタイプだ。


「へえ。じゃあ、そうだな……見た目は、姉妹似てるか?」


「全……っ然似てません! 姉は、えっと何ていうか遊んでる風な派手って言うのとはちょっとアレですけど、私と違ってすごい美人だし背も高いし、社交的で人気者で友達いっぱいいて、何着ても似合うしカメラ写り最高で、」


「そんなネガティヴな自己紹介すんなよ……」


「すいません。とにかく姉は私より、ぴかぴかのぴかぴかなんです」


 うめくように言ってからハンバーガーの残りに噛み付きつつ視線を反らすと、ふわっと笑われた気配だけが伝わった。馬鹿にされたのではなくて、父親やおじいちゃんがするような見守り笑いだ。少し懐かしい。


「ぴかぴかねえ。俺くらいの年寄りから見たら、自分よりうんと若い奴はみんなぴかぴかして見えるんだがなあ。人生がどんなフライトになるか、まだほとんど分からない、喋って動く可能性の塊みたいなもんだ。青ちゃんだってそうだよ」


「若いのは確かですけど……」


「それが眩しくて、見た目の良し悪しなんかおじさんよく分かんねえんだよ」


「しかしそうだとしても姉は特別美しいのです」


「おっ、芝居の台詞みてえになった」


 くすくすとお互い笑う。笑う余裕がまだある。

 多分、と青菊は思う。多分柴なら、白音が目の前に現れても青菊を忘れはしないだろう。あからさまに優先度を下げたりもしないだろう。柴にとって最も大切なのは飛行機と空だから。青菊が飛行機を、とりわけ柴の乗るシップを好きだということを柴はよく知っているから。そう思えるから自分は平気でいられるのだろう。

 そう感じていてもなお、中原白音の名前が出せない。

 学習し過ぎている。中原白音、中原えい市谷いちがやまどかの名前を出したが最後、多くの人はもう青菊を青菊個人として見てはくれない。


――あなたって、中原白音の妹だってほんと?

――芸能人のお父さんやお母さんが参観日とか運動会に来るの?

――ねえ、お仕事についてったりするんでしょ? これまで会ったことある芸能人だれ?

――いいなあ。私も芸能人の家に生まれたかった。


 青菊という存在のすべてが、芸能人である家族の色に塗り潰されてしまう。それは青菊が望んだことではないのに。

 青菊は家族のなかで最年少で、両親は青菊の生まれる前から芸能人だし、姉も青菊の意志に関係なく芸能界入りを自分で決めた。自分だけが一般人だが、家族か芸能人であることも自分が一般人であることも青菊に決定権があったわけではない。そういう場所に生まれてしまっただけのことだ。ひどい言い方をすれば、仕方なくそうなのだとも言える。

 そんな青菊を、級友も周りの大人も、まるで芸能人家族のサポート役のように思ったり、恩恵を得ているかのように言ったりする。芸能人家族の文脈から離れて青菊を単体で見てはくれない。

 だから、家族の話がちゃんとできない。

 比較的安心できる柴のような相手にさえも。


「特別美しい姉ちゃんか。身に付けるものはそうなると、ちょっと趣味があるかな。難しいね」


「難しいですよ。まあどんな人間だって私には難しいですけど」


「人間苦手?」


「あぁ、はい、ちょっと。いやかなり」


「……俺は人外の扱いですか」


 返された。だがまあ、そうかもしれない。青菊は柴を、地上の人間のように見ていない。学校の友達とも先生とも、姉とも父母とも違う。親しげに訪れる家族の友人達とも、違う。

 柴は飛行機乗りだ。天海上を自在に飛ぶ、今まで出会ったことのない人種だった。

 それで、自分でも意外なほど気安く話ができる。……思えば天菱で言葉を交わせる大人はみんなそうだ。何故だろう。


「空の住人は、何か捨てたことのある人間だ」


 まるで答えるように柴は言った。


「家族や、恋人や、地上に貼り付けられた暮らし……それはそれで良いところも沢山あるはずだがな、空の住人になるような奴らってのは何故か、発作的にしがらみから逃れたくなるのが多いらしい。連携する安心や安全よりも孤独が好きなんだな。俺もそうだ、天海の上を飛ぶ時はいつも孤独だ」


「孤独か。……独りの方が、こわくない」


「ああ、地上は重い」


 確かに、巡航船の客分船員にはまるで世捨て人のような住人も多い。その特性から物書きや学者など、どこか浮世離れした人々が集まっていることも事実だ。だから青菊などは客分船員の中では、写真をやっていると言うと納得されるが女子高生と言うと珍しがられる。


「俺たちは社会的なパラメータがいまいち高くねえのかもな」


「否定はできないです」


「……家族とも上手に付き合えない」


「あい」


 舌っ足らずな答えになってしまう。


「俺も家族とは上手くいかなかったわ、そういえば」


 いつの間にか柴の海苔弁はほとんど片付いている。青菊の少ない経験によれば、子供の女より大人の男の方が、喋りながら食事をやっつけるのが速い。ちょっと羨ましい。


「柴さん、ご家族いたんですか」


 あまり上手く返せない。切れが悪い。


「まあなあ。若いうちは結婚とかもするわ」


「え、マジですか」


「一応な、人並みにそういうこともあったのよ。でも俺がフライト多過ぎ家空け過ぎってんで別れた。子供も相手が連れてった」


 空になった強化紙の弁当箱に蓋が重ねられ、輪ゴムで止められる。柴は緑茶を一口飲み、息をついて窓の外の雲海を見た。


「フライト多過ぎったって、俺パイロットだしなあ。当時は今みたく趣味で飛んでんじゃなくてラインのパイロットだったから、俺じゃなくて会社に文句言えっつうんだ」


「ていうか……パイロットと結婚したらそれはある程度当然なのでは……ないですかね。いや私高校生の分際でアレですけど」


「まあなあ。一応分かった上で結婚してみたけど、やってみたらやっぱり我慢ならねぇって思ったんだろうよ。未経験のうちに決めても、その通りにできる人間ばかりじゃないってことだな。ま、それはそれで理解できるよ。それで、パイロット辞めるか別れるかどっちかにして、なんつって」


「世の中上手く行きませんね」


「全くだ。しかも、おっかねえことに」


 柴は天海の水平線を見ている。


「……俺はパイロットを辞めるのが強烈に嫌だと思った、家族を失うことよりも。空に入らずには人生を過ごせない」


 病気だ、と柴は苦笑しながら言った。

 私はどうだろうか、と青菊は変人パイロットの横顔を見ながら考える。私は天菱の客分船員証を貰ったとき、


 ……そうだ、自由の匂いに惹かれたのではなかったか。

 光る空の、雲海の上の、自由。

 孤独。

 切り離されること。

 浮かび上がるように。

 私から何もかもが抜け落ちて欲しかった。

 地上で貼り付いたあらゆる文脈が抜け落ちて欲しかった。


 考えるより先にシャッタを切った。

 シャコン、と機械音が響いて、柴が振り向く。


「おい写真家、肖像権ってもんがあんだろ」


「すいません。写真家は呼吸するように写真を撮るのです」


「良く写ってたら見せろよ」


「はい。もちろん」


 多分うまく笑えた。記憶の底で最初の偶然と白音の眼が見ている。遠ざかれ、もっともっと撮って光景に溺れて私は、あの夏から……あの夏から? 

 解放されたいのか? 逃げたいのか? 

 ほんの小さく息をついて、珈琲の味で現実に戻る。


「あ、それでな」


 柴が思い出したように言った。


「俺の子供が誕生日のときは、もういちいち考えないで、毎年好きな店のお菓子送ってる。箱にこう、色んなチョコレートが二段三段入ってるやつ」


「なるほど! それいいですね」


 真剣に、青菊はそう言った。

 身に付けるものだと、白音は青菊なんかには手の出ないくらい良いものを沢山持っているし、趣味もある。けれど、お菓子みたいに消えるものなら困らないだろう。嫌いなら誰かにあげてしまうこともできる。白音なら楽屋であっという間にさばけるだろう。

 お菓子。さて、しかし――少しはママのお菓子に張り合える店となると、それはそれで多少値が張るだろうな、と青菊は思った。


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