十二月二十四日

(一)

第5話 雪閉――9時2分、第九天菱号

 もちろん、目が覚めても雲の上だった。

 寝坊した。

 朝の九時。本来、鴬台おうだい空港への接岸が終わり出発してしまっている時間である。

 寝ぼけた目で時計を見て、青菊あおぎくは良く分からない小さな声を出した。寝坊。完全に寝坊だ。もう間に合わない。朝を逃すとてんりょう号が鶯台空港に接岸するのは半日後。昨日の悪天候の影響でずれているとしても……。

 いや、昨夜は定刻の二十時よりずっと遅い二十一時半まで鴬台にいたのだ。そのままずれが解消されず、まだ鴬台に着いていない可能性はあるか?

 横着してベッドから出ないまま手だけを伸ばし、ラジオのスイッチを入れてチューニングダイアルをじりじりと回す。

 一番強い電波を捕まえて音量を調整する。船内の局から、ちょうどニュースが放送されていた。


『昨夜からの豪雪により、地上の交通機関は現在も麻痺しています』


 そうでしょうとも、と思いながら改めて毛布にくるまり、ラジオに耳を傾ける。


『また各空港では除雪作業が難航しており、巡航船・連絡船とも運航に大幅な乱れが出ています。全便欠航となっているのは、汐見空港、鴬台空港、伊賀屋空港、……』


 青菊は目を閉じた。これはだめだ。鴬台空港自体が動いていないのでは話にならない。巡航船が接岸しないから全便欠航なのだ。天菱は雪雲を嫌って降りるのをしてしまった。

 連絡船バスで別の空港に降りても、地上の交通機関が鴬台まで動かないのではどうしようもない。地上も雲の上もそれぞれ雪に閉ざされる、いわゆる雪閉せっぺい状態である。

 学校は昨日で休みになったからいいが、これでは今日の地上撮影も休みだ。今回行きたい場所はどれも鴬台の近辺だった。たまたま降りられる別の空港に行って偶然を捜し撮るのも普段ならいいが、汐見や伊賀屋など広域にわたって大空港が死んでいるのでは、地上に下りたが最後戻ってこられなくなる可能性もある。

 つまり。

 空に閉じ込められた。


「あーあ、雲の上ひきこもり……」


 特に面白くもないことを呟いて、二度寝するかどうかの誘惑とひとしきり戦い、そしてようやく青菊は冷気の中に起き上がった。

 電力節約等のため、夜間、暖房を付けっぱなしにすることは遠慮するよう通達が回っている。寒がりや風邪っ引きはそれでも空調を入れたまま眠ったりするが、青菊は言われたことはなるべく守りたい性質だし、ここの空調ではすぐに乾燥して咳をするので寝る前にスイッチを切っていた。

 だから朝の船室キャビンは肌寒い。地上よりも寒い所を航行する船なのだから、無理はない。夏は涼しくて快適だったけれど。

 暖房のスイッチを入れて、送風口の前に着る服を放ってから、室内の洗面台で歯を磨き顔を洗った。

 つけっ放しのラジオからはニュースの続きが流れている。視界の悪い雪の中での路線バス同士の接触事故。家に帰れなかった人達が避難した施設の状況。人々は転んだり凍えたりし、救急車が雪道で事故に遭う。積雪の重みで倒壊した家屋、電線の断絶と広域停電、もはや地上は雪害のショウケースだ。

 今日はクリスマスイヴだというのに、……そう、一応これもホワイトクリスマスっていうのか。こんな状況では地上の人々はうんざりしているだろうし、クリスマスに日時指定をかけたプレゼントの配達もめちゃくちゃになっていることだろう。

 うすぬるく温まった服を着込んでから、小さな窓のカーテンを開けてみた。

 当然のことながら、天海は遥か彼方まで一点の曇りもなく晴れ渡っていた。

 冬は空気が澄む。空の青は高く濃くきらめいている。それを見るなり少し元気になって、布張りの保管箱を開け、古いコンパクトカメラを取って窓に張り付きファインダを覗く。

 脳に届く小さな雲海。冷えた金属の手触り。おはよう、と言う代わりにシャッタを切った。レンズシャッタがシャコンと機嫌のいい音を立てた。

 フィルムは入っていない。空シャッタだ。今度はファインダから顔を離し、巻き上げノブを回すと、裏蓋を開けてからまたシャッタを切った。フィルムがないからシャッタが開いて閉じるところが裏から見える。六枚羽根が高速で光を絞るようにスライスする。日の光の点滅。シャコン、と小気味よく音が鳴る。一日のはじめに聴くには最高の音だ。

 カメラへの、空への、世界への、一日の始まりの挨拶を、青菊は滅多に欠かさない。父親から貰った癖だ。えいは一時期、喋る数と同じくらい撮っていた。おはよう、久し振り、今晩は、行ってらっしゃい。そのほとんどはシャッタ音と共にあった。……そういえば鋭児はオリガを特別気に入っていた時期がある。

 青菊のカメラ箱にあるオリガは、鋭児のコレクションから分けてもらった後期型だ。青菊がもっと子供の頃、一番最初に手にした魔法の暗室。

 姉を写した例の写真も、その古いオリガで撮った。

 あれはいい写真だ。そう思う。だからもう一度頼んでみなくちゃ、どうしてもあれを写真集に入れたい。でも、こちらを見もせずにやめてよと言った声色が青菊を躊躇ためらわせる。

 しらは青菊を見ない。昔からだ。

 あの写真も、横から撮っている。当時、それを酷く嫌がられた。だからあれ以来姉を撮っていない。

 撮れないものは怖い。

 ふ、と一つ強く息を吐いて、青菊はオリガではない別のカメラに手早くフィルムを装填するとストラップを首にかけ、パーカーを羽織った。つけっ放しのポータブルラジオをパーカーのポケットに、携帯端末ワンドをジーンズのポケットに突っ込み、ワイヤレスヘッドホンを耳に引っ掛ける。携帯端末でもネットワーク経由でラジオは聴けるが、アナログなフルマニュアルの銀塩フィルムカメラが好きな青菊は、ラジオもラジオ専用機が好きだ。


雪閉せっぺいのため各種輸送に滞りが発生しています。節電節水にご協力をお願い致します』


 でも、ご飯は食べないと死んでしまうので、青菊は部屋を出た。

 細かい船室で過密になった船内の大体どこに行っても聴取明瞭なのはよほど電波の送出をうまくやっているのだな、と思う。船内ラジオは緊急時のライフラインとして欠くべからざる存在なので、そこは船の建造時から考えて作っているのだろう。


『では天菱号の現在位置、今後の航行予想について操舵室通信部よりお伝えします』

『はい、通信部です。現在当船は椿市上空を通過中で、このあと十分ほどで海上に出る見通しです。

 天菱号の型、つまり鴬台空港を交点とした8の字の航路ですが、昨日来の天候不良でかなり拡大しています。これは悪天候時のいつもの振る舞いと言えます。本格的な天候回復には二、三日かかることから、航路の修復もまとまった時間を要するものと推測されます。

 当船ここまでの具体的な動向ですが、今日未明、8の字航路の通常の最遠点空港である汐見空港に立ち寄らず、大きく反れて膨らみ、柏森空港上空を回る航路をとりました。これまで観測された中でも最遠クラスですね。また当船は、昨夜九時過ぎに鴬台空港を離岸して以降はどの空港にも降りておらず……』


 音声には時折、ブツッとノイズが入る。雲海の中では雷が光っているのだろう。

 早く空の見えるところに出よう、と青菊は思った。


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