第40話

 美術室は先輩と鈴のテリトリーで、滅多に来ることがない私はこの場所では異物みたいなものだ。二人を見ていると自分が教室から切り離され、隔離されたような気がしてくる。

 そんな私の気持ちを現実にするように、先輩が鈴に近づく。


 気持ちを切り替える儀式のようなもの。

 先輩にとって、そんな何かがキスなのだということはわかる。終わりにするという言葉も、最後だという言葉も本当で、私がほんの数秒目をつぶって見なかったことにすればいいだけだということも理解している。

 それでも、私は先輩の制服の裾を掴んだ。


「鈴が良いって言っても、私が嫌です」

「だろうね」


 淡々とした声が美術室に響く。

 先輩はこちらを見ない。鈴を見たままだから、やっぱりどんな顔をしているのかわからなかった。


「鈴は?」


 感情を読み取ることのできない声で先輩が言い、問われた鈴が間を置くことなく答える。


「最後はもう終わってる。……ごめん」

「そっか」


 先輩は私が止めても鈴にキスすることはできたし、そうなったとしたら鈴はそれを拒まなかったのではないかと思う。彼女が先輩にしてきたことを考えれば、無理矢理キスされたって文句は言えないのかもしれない。

 それでも、こういうときにキスをしていいかと尋ねるような人だからこそ、鈴は先輩の側にいたんだろうと思えた。


「じゃあ、鈴のかわりに晶ちゃんにしようかな」


 先輩は唐突にそう言うと、くるりと私の方を向く。

 予想もしていなかった言葉に、私の体が固まる。

 油が切れたロボットみたいに関節が軋んで、動くことができない。

 一気に距離を詰められて、手首を掴まれる。

 そのままぐいっと引っ張られ、私は倒れるようにして先輩の腕の中に収まった。


「咲恵っ」


 声を出すことすら忘れていた私のかわりに、鈴が先輩の名前を聞いたことがないくらい強く呼ぶ。声に続くようにして足音がする。


「離して」


 怒ったような声がすぐ近くから聞こえて、先輩の体が微かに揺れる。けれど、先輩は何事もなかったかのように私を腕の中から解放すると、静かに言った。


「冗談に決まってるでしょ。それにしても、鈴もそんな顔するんだ」

「そんなって?」

「怖い顔」


 先輩の言葉は間違っていなかった。

 不機嫌な顔をすることはあっても、ここまであからさまに怒っている顔は見たことがない。角のある声も、私が耳にしたことがないものだった。


「大丈夫。とったりしないから」


 そう言って、先輩は鈴の真正面に立つ。そして、彼女のネクタイを引っ張った。


「なに?」


 とげとげと険のある声が美術室の空気を震わせる。


「キスのかわりは、コレで許してあげる」


 先輩は返事を待たずに鈴の胸元を飾っていたネクタイを解き、同じように自分のネクタイを外す。


「で、コレあげる。卒業式、つけてきて」


 鈴の首にくるりと巻かれたのは先輩のネクタイで、それは綺麗に結ばれる。


「できあがり」


 先輩は不自然に明るい声で言うと、手にしていた鈴のネクタイをきっちりと締めた。


「用事はこれで全部終わりかな」


 それは独り言のようなものだった。

 先輩は私たちが答える前に、私と鈴に背を向けて鞄を手に取る。時間が止まったように静かな空間に足音を響かせ、教室から出て行こうとする。


「待ってよ」


 鈴の声に、先輩がぴたりと足を止めた。


「まだちゃんと言いたいこと言ってないから。私、咲恵にずっと酷いことしてたし、今日したことも酷いことだってわかってる。都合の良いことばかり言ってきたってこともわかってるけど、もう誰かをかわりにするのはやめようと思った。だから、最後にちゃんと言いたくて。咲恵、今まで――」


 その先に続くのは、たぶん、きっと“ごめん”なんだと思う。でも、先輩はその先を言わせなかった。


「鈴、謝らなくていいよ。そこで鈴が謝ったら、あたしも謝らないといけなくなる。鈴の気持ちが私に向いてないこと知ってて、ずっと引き留めてたんだから」


 振り向いて一気にそう言うと、先輩は綿飴みたいにふわりとした声で続けた。


「一年か、二年くらいかな。それくらいしたら、三人で会おうか」


 二人ではなく、三人。

 聞こえてきた言葉は予想外のもので、反射的に問い返してしまう。


「私もですか?」

「そう、晶ちゃんも入れて三人で」

「先の話すぎて忘れちゃうよ」


 鈴の声が教室に響く。


「先の話にしとかないとね。――立ち直るのに結構時間かかりそうだから」


 私は、先輩に言われた『晶ちゃんは良い子だね』という言葉を思い出す。おそらく、その言葉は私よりも先輩に相応しいものだ。今日もここに来ないという選択肢を選ぶことができたのに、それをしなかった。何を言われるか知っていてこの場所に来たのは、鈴のために違いない。

 私がいなければ、二人には違った未来があったのかもしれないとも思う。


「晶ちゃん、なにかいらないこと考えてるでしょ? そういうのは、今度三人で会ったときにゆっくり聞くから」


 先輩はそう言うと、私の前へやってきて小指を出す。


「とりあえず今は、約束だけしとこうよ」


 私たちが高校を卒業して、大学生になって。

 それくらい先に、私と鈴がどうなっているかはわからない。一緒に先輩に会いに行く仲であって欲しいとは思うけれど、そうではないかもしれない。先輩だって今、口にしたことを覚えているかわからない。

 それくらい曖昧な約束とも言えない約束だけれど、私は曖昧を絶対に変えるために先輩と指切りをする。


「私、先輩のこと好きです。だから、約束のこと忘れません」


 これまでのことを振り返れば、先輩は私を嫌っていてもおかしくない。私だって最初は先輩のことを快く思っていなかったし、嫌いになっていてもおかしくはなかった。

 けれど、私は先輩のことを嫌いになれない。

 好きか嫌いかの二択なら、好きを選ぶ。


「あたしと晶ちゃんって、案外似てるのかもね」


 先輩がくすくすと笑いながら言う。


「鈴もちゃんと約束守ってよ」

「忘れないようにする」

「約束ね」

「ねえ、咲恵」

「なに?」

「私、きっと……」


 鈴の言葉が途切れ、先輩が続きを奪うように言った。


「それも、いつか三人で会ったときにね」

「わかった。――今までありがとう、楽しかった」

「あたしも。約束、忘れないでよ」


 先輩が「じゃあね」と緩やかに手を振って、教室から出て行く。

 がらがらと扉が閉まる音とともに先輩の背中が消え、美術室は来たときと同じように二人きりの空間になる。

 壁には、雪花ちゃんの絵。

 私の前には、うつむいた鈴。

 よく見れば、彼女は鼻をすすっていた。


「鈴?」


 返事はない。

 鈴の顔を見ると、頬が濡れていた。


「……先輩のこと、好きだった?」

「ごめん」


 鈴は肯定も否定もしなかったけれど、顔を上げた彼女の目からぽろぽろとこぼれる大粒の涙が答えを教えてくれる。

 鈴の好きは、先輩のそれとは違う種類のものだったかもしれない。それでも、先輩が好きだったことには変わりがなくて、私は鈴がその気持ちに気がついて良かったと思う。


 私が好きになった鈴は先輩を好きな鈴で、それをなかったことにはできないし、するつもりもない。まったく気にならないと言えば嘘になるけれど、切り離すことができないのなら受け入れる方が建設的だ。

 鈴が過去に言ったように、好きは等価交換じゃない。でも、好きの大きさや量が違っても、釣り合わなくても、同じように想いが重なる瞬間があるはずだと信じたい。


「大丈夫。鈴が気がつく前から知ってる」


 私は、目の前の鈴を抱きしめる。

 腕の中、鈴がぺたりと額を押しつけてくる。

 肩は小さく震えていた。

 こんなときどうすることが正解なのかわからず、私はただ鈴のふわふわとした髪を撫で続ける。


 昔から、泣いている人が苦手だった。

 どんな言葉をかければいいのかわからないし、言葉なんか無意味なものにも思える。でも、今は口にする言葉がなくても鈴を離したくない。このまま腕の中に閉じ込めておきたいと思う。


 二人きりの美術室、涙が落ちる音なんて聞こえないけれど、ときどき鈴が鼻を鳴らす音が聞こえてくる。おそらく人がほとんどいない校舎は、時が止まっているようだった。けれど、この時間を永遠になんて、叶わない願いだ。


「晶」


 腕の中の鈴が私の制服を引っ張る。


「なに?」

「もう平気だから。ありがと」


 とん、と軽く腕を叩かれて、私は魔法が解けたみたいに鈴を解放した。

 自由になった鈴が赤い目をごしごしとこする。その間にも鼻を子犬みたいにすんすんと鳴らしているから、私は机の上から鞄を取ってきて鈴にポケットティッシュを手渡す。

 一枚、また一枚と薄くて白い紙が消費され、最後はゴミ箱へと運ばれる。そして、鈴は私から鞄を受け取ると、雪花ちゃんからもらったというイルカのキーホルダーを外してイーゼルの端に置いた。


「いいの?」

「もういいの。行こう、晶」


 鈴が未練の欠片も感じさせないように、私の手を引いて教室を出る。美術室に雪花ちゃんの絵とイルカのキーホルダーを残し、私たちは猫のキーホルダーが揺れる音にあわせるように歩いて行く。

 帰り道は、寄り道はせずに家へ帰った。


 翌日、いつも通りの朝を迎えて、学校へ向かう。

 先輩は、学校に来ていないようだった。

 今、鈴の鞄には猫のキーホルダーだけがついている。

 昨日のことを思い出すと晴れやかな気分にはなれないけれど、私たちは今日も明日も明後日も一緒に帰る。寄り道をして、時々、お互いの家へ行ったりしながら、一緒に放課後を過ごす。それだけは、決まっていることだった。

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