第38話

 テーブルの上には教科書とノートに、紅茶とチョコレート。向かい側には、鈴が座っている。

 二月も終わりに近づき、期末テストまであとわずかという放課後、昨日は鈴の家、今日は私の家で勉強をしていた。


「つまんない」


 いつもは薄っぺらい鞄に教科書を詰めて、私の部屋にやってきた鈴がシャープペンシルを投げ出す。そして、ぺたんとテーブルに額をくっつけた。


「三年生は三学期に期末テストがないのに、どうして二年生はあるの」

 不満がため息とともに吐き出される。

「そういう決まりだからじゃない?」

「二年も自由登校にして、テストなくして欲しい」

「そんな無茶な」


 鈴が言うような理想の三学期が現実のものになれば良いけれど、そんな夢が叶うわけがない。となれば、勉強をするしかないわけで、私は教科書を一枚めくってから催促するように鈴のつむじを突いた。


「晶は、テスト受けたいの?」


 のろのろと顔を上げながら、不満を詰め込んだ声で鈴が言う。


「気は進まないけど、文句を言ったところでテストがなくなるわけじゃないし。それに、来年は三年生になるからテストないでしょ。――かわりに受験があるけど」

「それ、言わないで。勉強したくない」

「鈴、進学希望だよね。本当に勉強しなくていいの?」

「晶もでしょ」

「だから、勉強してる」


 鈴ほど抗うつもりがない私は、大人しくノートにシャープペンシルを走らせる。

 とりあえず、文系に進むというぼんやりとした希望に従って二年生になったけれど、大学名を挙げるところまで辿り着いていない。鈴も私と同じで、どこそこの大学に行くというほどの明確な希望はなかったはずだ。


 確固たる目標があるわけではない状態で、勉強を続けることはそれほど楽しいことじゃない。かといって、行き先が決まっていたところで勉強が捗るようには思えなかった。

 私は、進路と同じように曖昧な気持ちで教科書をめくる。


「来年も同じクラスが良いな」


 私は無意識のうちに呟いて、鈴を見る。

 文系という大まかな目標は鈴も同じだ。けれど、また同じクラスになるかどうかはわからない。


「違っても、晶の放課後は予約済みだから」

「今、初めて聞いたんだけど」

「不満?」

「ううん」


 鈴に言われるまでもなく、三年生になっても放課後を空けておくつもりだった私は首を横に振る。

 些細なことだけれど、進級しても鈴が変わらない毎日を続けようとしてくれていることが嬉しいと思う。

 それが現実になるかはわからない。でも、現実に向かっているのだと思える言葉は、鈴が口にはしない気持ちを聞いているようで少しくすぐったくて口元が緩みそうになる。


 向かい側、彼女が私を見ていて誤魔化すように息を吐く。

 背筋をぴっと伸ばして、ぱん、と頬を軽く叩くと、教科書に視線を落とす。その瞬間、鞄の中に入れっぱなしのスマートフォンがメッセージの着信を伝えるべく小さく鳴った。

 画面を見なくても、相手が誰かわかる。だから、私はもうしばらくスマートフォンを鞄の中に閉じ込めておくことにする。


「最近、よく鳴るよね。スマホ」

「うん、まあ」


 鈴に言われて、曖昧な返事をする。

 あれから、菜都乃からよく連絡が来るようになった。アプリに登録している友達は、藤原さんと平野さんを加えた三人だけで、中でも菜都乃からよくメッセージが送られてくる。それは昔に戻ったみたいで、私の心を少しだけ弾ませる。


「鈴もアプリ入れる?」

「入れないし、やんない」


 不機嫌そうな声が聞こえてくる。

 菜都乃から何度目かのメッセージが届いた日、鈴に同じものをインストールするか尋ねたけれど、そのときも断られた。私自身も鈴との連絡はメールで十分だと思っているから、彼女がアプリをインストールしないことに不満を感じたりはしない。ただ、アプリの中に鈴の名前もあったら楽しいなとは思う。


「ちょっと休憩しない?」


 鈴が話をそらすように言って、教科書を閉じる。

 時計を見れば、勉強を始めてから一時間以上が経っていた。


「そうだね。ちょっと疲れた」


 テーブルの上から一口サイズのチョコレートを一つ取って、口の中に放り込む。少し苦いくらいの塊を転がしながら、溶けて柔らかくなっていく感触を楽しんでいると、鈴が紅茶を飲んでから口を開いた。


「中学のときって、どんな感じだったの?」

「私?」

「そう。今と変わらない?」

「明るく元気な中学生だった」

「それ、別人なんだけど」

「鈴があの頃の私を見たら、驚くと思う」

「本当に明るく元気な中学生だったんだ?」


 私は頷く。

 口には出さないけれど、同じ中学だった藤原さんも最初の頃は私に違和感を感じていたはずだ。それくらい今の私とは違う。けれど、明るく元気な中学生のまま高校生になっていたら、鈴は私を選ばなかったはずだ。

 そう考えると、こうして彼女と一緒にいることが不思議に思えてくる。


「鈴はどんな感じだった?」

「高校生に恋する中学生。今よりは真面目だったと思う」


 投げかけた質問には、はっきりとした声で答えが返ってきた。鈴はまっすぐな目で私を見て、言葉を続ける。


「二年生になってすぐのテスト前、今日みたいに勉強してるときに初めてキスした」

「――相手、雪花ちゃん?」

「うん」


 鈴の視線が下へと落ちる。

 何かを考えるように動きが止まって、すぐにシャープペンシルを手に取る。カチカチと芯を押し出してノートに描かれたのは、イルカの絵だった。


「向こうからしてきたんだけど、される前から好きだったから驚いた」


 懐かしいという響きも、悲しそうな響きもなかった。

 でも、海の底にでもいるみたいに苦しそうな声だった。

 私と会う前から、そして会ってからもずっと、鈴は鍵のない水の檻に閉じ込められている。

 たぶん、彼女は檻から出られることも、出る方法も知っているのだと思う。それでも閉じ込められ続けているのは、そこに雪花ちゃんが来る日を待っているからだ。


「こういう話、しない方がいい?」


 少し自信がなさそうに、鈴が問いかけてくる。


「複雑な気持ちにはなるけど、鈴のこともっと知りたいかな」


 これまでにも何度か聞いた雪花ちゃんの話は、鈴の一部でもあって、私の中の彼女に上積みされていくものでもある。けれど、正直に言えば、積極的に聞きたいとは思わない話だ。


 聞いていると、小さな棘がいくつも刺さったみたいに胸がちくちくと痛む。でも、鈴が今まで話してくれなかった過去を話してくれるならそれを聞きたかったし、知りたかった。そして、今、話そうとしてくれているのは、鈴が水の檻から出ようとしているからだと信じたかった。


「いつまで付き合ってたの?」

「雪花ちゃんが高校卒業するまでだから、一年くらい。大学は美大に行ったんだけど、家から通うには遠くてそれっきり。……きっと、大学が近くてもそれで終わりだったんだと思うけど」

「雪花ちゃんが通ってた高校って」

「同じ高校」


 鈴が私の言葉を奪うように言って、制服のネクタイを引っ張って見せる。


「もしかして、美術部だった?」

「うん」

「それで、美術室に行ったの?」

「まあ、そんなとこ」


 雪花ちゃんがいた美術部。

 そして、美術室で鈴と会っていた白川先輩。

 私の中で全部が繋がって、それを打ち消そうとするように鈴がノートに書いたイルカの絵を消しゴムで消していく。


「なんで入部しなかったの?」

「雪花ちゃんがどんなところで部活をしてたか知りたかっただけで、入部したかったわけじゃないから。絵の才能もないしね」


 そう言って、鈴がシャープペンシルをもう一度手に取る。そして、私のノートに一匹の猫にも犬にも見える何かが現れた。


「確かに、絵の才能は微妙だよね」


 鈴が「酷い」と言って、もう一匹猫と犬とも言えない絵を描く。私は消されることがなかった二匹の動物の下に、『ねこ』と書き加える。


「猫なんだ、これ」


 作者が無責任に言い放ち、それと同時に私の鞄の中からメッセージの着信を知らせる甲高い音が鳴った。

 思わず、視線が鞄に向く。

 でも、目がそちらにいっただけで、スマートフォンを鞄の中から取り出すつもりはなかった。けれど、取り出そうと思ったとしても、取り出すことはできなかったと思う。

 何故なら、スマートフォンが鳴ってすぐ、鈴に手を掴まれたからだ。


「どうしたの?」

「黙って」


 エアコンが部屋を暖める音くらいしか聞こえない空間に、鈴の声が響く。

 掴まれた手が軽く引っ張られて、鈴が身を乗り出してくる。

 私の頭の中に、初めて鈴がこの部屋に来た日のことが蘇る。

 鈴の顔が近づいてきて、私たちは磁石がくっつくみたいにキスをした。


 それはやっぱりほんの一瞬の出来事で、でも鮮やかに記憶に刻まれるような出来事だった。唇が離れても、触れているみたいに熱い。心臓は、この間と同じくらいうるさかった。


「テストが終わったら、放課後行きたいところがあるんだけど付き合って」

「いいよ」


 それが何かは聞かずに、あらかじめ決められていたことみたいに答える。放課後は余程の事がない限り、空けている。だから、行きたい場所がどこかなんて聞く必要がなかった。

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