第11話

 めまぐるしく変わる毎日も、過ごしているうちに変化すら日常になる。鈴のスピードについていくのは難しいことだったけれど、慣れてしまえばそれも当たり前の中の一つだ。

 すべては毎日の中に取り込まれていき、いつしか何の変哲もない日になる。だから、私という人間もそう簡単に変わらない。変えることは簡単なようでとても難しいことで、結局、私は期末テストが終わっても鈴に話を聞くことができずにいた。

 今日も彼女は、いつもの席で退屈そうに午後の授業を受けている。


 私は、眠気を誘う先生の声を聞きながらため息をつく。大きな欠伸をしている鈴から視線を外して窓の外を見れば、灰色の雲が空を覆っていた。雨は降らなそうだけれど、曇り空はただでさえ重い気分を余計に重くさせる。

 テストが終わって十日。

 私の放課後は、相変わらず鈴と共にあった。さずがに何も変わらずとはいかなくて、「元気がない」「どうしたの?」と彼女に問い詰められながら、ケーキを食べたり、たい焼きを食べたり、寄り道をしながら過ごしている。


 今日の放課後だって、当然のように予定が鈴で埋まっていた。

 私は憂鬱という二文字を抱えながら、その時間を待っている。おかげで、期末テストの結果が散々だったにも関わらず、先生の言葉が頭に入ってこない。空と同じように晴れない気分のせいで、ノートも三分の一の落書き以外は真っ白だ。


 右から左へと駆け抜けていく先生の言葉を追いかけもせず、黒板を埋め尽くす白い文字を見送る作業を終えても、重しがついたような気持ちを抱えたままだった。

 短いホームルームの後、煩わしいとさえ思える感情に縛られながら、机の中の教科書をいくつか引っ張り出して鞄に詰め込む。重たい鞄を作り上げて顔を上げると、私を眺めていたらしい藤原さんと目が合った。


「鈴木さん。今日、予定ある?」


 前の席から、藤原さんが身を乗り出して聞いてくる。


「ごめん。予定ある」

「そっかあ。平野がCD買いに行くって言うから、鈴木さんも一緒にどうかなって思ったんだけど……。柴田さんと約束?」

「うん、まあ」

「相変わらず仲良いね」

「そうかな」

「そうでしょ。――って、なんか微妙そうな顔してる。柴田さんとケンカでもしたの?」


 藤原さんの言葉にぴくりと体が震えて、顔に手をやりそうになる。けれど、無意識に動こうとした手を意思の力でねじ伏せて、微妙そうだと言われた表情を変えるべく笑った。


「してない。仲良いよ」


 表面上は、という言葉は心の中にしまっておく。言ったところで、藤原さんには関係のないことだし、表面上であっても仲が良いことは事実だから嘘はついていない。


「仲良きことは美しきかな」


 芝居がかった口調で藤原さんが言い、「次は、早めに鈴木さんのこと予約するね」と続けた。


「予約なんだ?」

「そう。柴田さんに予約される前に。それで、たまには私たちと一緒に帰ってもらう」


 くすくすと笑いながら断言されて、私もつられるように笑った。少し前なら、こんなことを言われたら面倒だと思ったはずだけれど今日は違う。藤原さんは雲の合間から見える太陽みたいで、たまには鈴以外の人と一緒に帰るのも良いと思えた。


「藤原、鈴木さん誘ってくれた?」


 廊下側から声が響き、平野さんが現れる。片手には、薄くもなく、厚くもない鞄を持っていた。


「用事があるって」

「そっか。じゃあ、一緒に行くのは次ってことで! オススメのCD、紹介しまくりたいし」


 好きなアーティストの布教活動を趣味にしている平野さんが、どんっと机の上に鞄を置く。そして、痛いくらいの勢いで私の肩を叩いた。


「わかった。楽しみにしておく」


 少しわざとらしいくらい大げさに肩をさすりながらそう言うと、平野さんがにやりと口角を上げた。二言、三言、たわいもない会話をしてから、楽しげに手を振る藤原さんと平野さんを見送る。

 彼女たちがいなくなると、急に視界がひらけて落ち着かない気分になる。教室に残っている生徒も随分減っていて、鈴がよく見えた。

 私は、無駄とも言える感情を溜め込んでいる自分のように膨らんだ鞄を持つ。そして、教室の真ん中よりも後ろの席で退屈そうにしている鈴に声をかけた。


「帰ろうよ」

「今日はどこ行く?」


 そう問われて、昨日は行き先を鈴に任せた。今日もそうしようと思ったけれど、いつも通りをいつもとは違うものに変えたくなる。


「――屋上」


 誰にも邪魔されずに、二人きりで話せそうな場所。そして、私の心の中に強く残っている場所を口にした。


「屋上?」

「うん、屋上」

「天気、悪いけど」

「雨は降らないと思う」


 私には、鈴に聞きたいことがあった。でも、記憶の奥底に沈殿したままになっている出来事を彼女に尋ねるには、私が美術室を覗いたことを告げる必要がある。

 見たことを、聞きたいことを口にして良いのか。

 私は鈴を屋上に誘ったにも関わらず、まだ迷っていた。それでも、「じゃあ、屋上にいこっか」という返事が聞こえて、私は教室を出る。


 二人分の足音が響く廊下を歩く。上履きが不規則なリズムを刻み、前を行く鈴の足元から聞こえる軽快な音を追いかける。窓の外は、相変わらず白と黒が入り交じった不機嫌な雲が空を覆っていた。

 十一月ももうすぐ終わる。

 廊下は少し肌寒くて、足先が冷たい。鈴を見ると、やけに手がが白かった。空気の冷たさを誤魔化すように、足を速める。きゅっと廊下を蹴って鈴の隣に並ぶと、彼女が私を見た。


「なんか、今日も元気なさそうだね」

「そうだね。元気ないかも」


 目に見えるほど落ち込んでいるつもりはないけれど、元気が有り余っているというわけじゃない。だから、元気がなさそうに見えるのなら、それは間違ってはいないんだと思う。

 鈴は私のあやふやな言葉に、ふわふわとした髪をくるくると指に巻く。そして、少し低い声で言った。


「話、聞いた方がいい?」

「たぶん」

「多分? 話したいことがあるわけじゃないの?」

「ある、と思う」


 そう答えて、廊下をきゅっと曲がって階段を上る。

 段差を一つ上って、屋上に一歩近づくたびに、心は下へと引っ張られて重くなる。上って、上って、屋上に近づいて、晴れない気持ちがもっと曇って、鈴の苛立ちを隠さない声が聞こえた。


「はっきりしないなあ。こういうときは、あるならある、ないならないって言いなよ」


 最後の一段を鈴がぴょんと上って、はっきりとしない私を見下ろす。

 彼女の後ろには、屋上へ続く扉が見える。

 鈴が鞄を床へ置き、この先には通さないといように背中を扉に預けた。落ち着かない指先が厳めしい扉を叩く。コツコツと小さな音がして、私の気持ちをざわつかせる。

 手が冷たい。廊下が寒いからなのか、緊張しているからなのかわからないけれど、指先から体温が逃げていく。

 私は、最後の一段をゆっくりと上る。


「鈴、手を繋ぎたい」

「手? 話したいことはどこにいったの?」

「話はあとから。先に手」

「どうして?」

「手、繋いじゃ駄目?」


 あのときの先輩みたいに鈴に近づいて、扉に背を付ける。

 肩が鈴に触れて、制服が混じり合う。鞄を床に落として、冷えた扉に手を付けた。

 鈴の手は、きっともっと温かい。

 私は、今まで一度も鈴と手を繋いだことがなかった。繋ぎたいとも思わなかった。そして、鈴も手を繋ごうとは言わなかったし、繋いできたことがない。手を繋ぐくらい恋人同士じゃなくてもするのに、私たちは手を繋いだことすらなかった。

 私を好きだと言う鈴は、それほど恋人がするようなことをしたがらない。鈴が先輩とキスをしているところを見て、そんなことに今さら気がついた。


「……いいけど。今まで手なんか繋がなかったから、何か理由でもあるのかと思って」

「理由、知りたいって思ってくれるんだ」

「そんなに無関心そうに見える?」

「わかんない。わかんないから、手を繋ぎたい」


 私とはしないキスを先輩としていた理由を知りたい。

 どうして先輩とのことがこんなに気になるのか知りたい。

 でも、それ以上に自分の気持ちが知りたかった。私は、自分が鈴のことをどう思っているのか未だによくわからない。手を繋げばそれがわかるとは思わないけれど、彼女に少しでも触れることが出来れば、気持ちの欠片を掴むことができるかもしれないと思う。


 だから、私は鈴の手に触れた。

 扉を叩いていた指先を強く握りしめると、私の手よりも温かな手から体温が流れ込んでくる。混じり合った熱が体温を上げ、急激な変化に心臓がどくんと脈打つ。

 でも、それだけだった。握った手は、握り返されない。それがなんだか寂しかった。


「それで、わかったの?」


 鈴が真っ直ぐ前を見たまま、言った。


「やっぱり、わからない」

「理由、それでおしまい?」


 静かに尋ねられて、私は握った手を引っ張る。ぐらりと鈴が揺れて、視線が私に向く。


「手を繋ぎたかった理由はおしまい。でも、まだ話をしてない」

「そうだったね。それで、話って?」

「美術室」


 ずっと言えなかったことを口にして、私はすぐに後悔した。

 これから鈴に告げることは、彼女を疑っていたということを告白するようなものだ。詮索されることを好まないであろう鈴がどう思うかを考えると、私は自分が口にした言葉をかき消したくなる。

 けれど、一度形になった言葉は鈴の耳にしっかりと届き、「美術室?」と聞き返された。私は覚悟を決める。


「あの先輩と一緒にいたでしょ」

「いつの話?」

「テスト期間中。――キスしてるの見た。先輩と付き合ってるの?」

「晶と付き合ってる。それは、晶も知ってるでしょ」

「じゃあ、あの先輩は?」

「白川先輩」


 不機嫌そうな声だったけれど、鈴の表情は変わらなかった。罪悪感も、後ろめたさもない目で私を真っ直ぐ見つめて、次の言葉を待っている。


「付き合ってるんじゃないなら、白川先輩って鈴の何なの?」

「ただの先輩」

「付き合ってないのに、キスしてたってこと?」

「付き合ってない人とキスしたら駄目なの?」

「……鈴、おかしいよ。告白してきたときも、好きになってなんて言わないから、ただ付き合ってくれるだけでいいって。鈴の言うこと、理解できない」


 私は、握っていた鈴の手を離す。

 こめかみのあたりがきりきりと痛んで、目眩がしそうだった。

 あの日、教室で告白されたときから変わっていなかった。

 鈴には、私の気持ちは関係ない。

 私が彼女を好きになる必要はどこにもなく、私にとっては友達としか思えない関係が鈴にとっての恋人だ。

 あれから変わったのは私だけで、鈴は一欠片も変わっていない。私は彼女にとって制服のネクタイと同じくらい軽い存在で、そこにあればそれで良いようなものなのかもしれなかった。


「理解してくれなんて言ってない。私が好きだって言ったら好きだって言ってくれたらいい。それだけだよ」


 何を考えて、私をどう思っているのかすらよくわからない彼女を前に、私はようやく気がつく。鈴に関わることで乱され、自分でも扱いきれない気持ちの正体を理解する。


「鈴が好き」


 今まで何度も口にしてきた言葉が、初めて自分の心と重なる。鈴によってアップデートされていく毎日の中で、鈴に告げていた言葉は上書きされ、約束以上の重さを持っていた。

 けれど、約束を果たすように促される前に告げた言葉は、鈴を不機嫌にさせる。


「今、言ってくれなんて言ってない」


 僅かに顔を顰め、柔らかな髪を指に巻き付けた鈴が低い声で言った。それでも、私は馬鹿馬鹿しいくらい素直にもう一度告げる。


「私は鈴のことが好き。鈴は?」

「……晶が好きだよ」


 無愛想に言って、鈴が私を見る。

 “好き”という単語が持つ熱を感じさせない視線が突き刺さる。少し前まで鈴に触れていた手がじくじくと疼いて、誤魔化すように屋上へと続く扉に触れると酷く冷たかった。

 私は、凍えた手で鈴の腕を掴む。


「じゃあ、確かめさせてよ」


 多分、鈴はこんなことを望んでいない。わかってはいるけれど、私は自分を止められそうになかった。

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