第179話

 早足にならないよう意識しながら、ゆっくりと部屋の中に入る。

 手に武器は持っていない。

 道中に通過した階層のボスがリポップしておらず、ここに到達するまでどの階層もボス部屋の主が居なかったから……ということも有るのだが、オレの本当の目的は別のところにあった。


『空間庫』から守護者マニュアルを取り出して、目当てのページを開く。

【交渉】という項目に記された内容を確認しながら、その手順を踏み……奥に向かって声を掛ける。


「隣の領域の迷宮守護者が挨拶に来たぞ。姿を見せてくれ」


 問いかけに答える声は無く、しばらくの間は静寂が階層ボスの部屋を支配していたが、オレは辛抱強く待っていた。

 手土産として提示した魔素の量には不足は無い筈だ。

 先ほど開いたマニュアルのページには【交渉】に際して必要となるとして、自身が守護者を務めるダンジョンから、交渉相手のダンジョンへ魔素を譲渡する際に必要な手順が記されていた。

 やり方は間違っていない筈だし、目安として記載されていた魔素量も優に超える量を融通したのだから、これで門前払いをするような相手なら、もう1つの手段……つまり【侵攻】を選ぶだけの話だ。

 敵意が無いことを示すために、わざわざ得物を『空間庫』に収納までしたのだから、これで無視されたなら、オレも腹を括るしかない。


『……何で人間が?』


 ようやくにして一言。

 鈴を鳴らすような声が聞こえた。

 腐れバンパイアのそれとは違い、全く不快なところの無い声だ。

 まだ警戒されているようだが、それは仕方ないところだろう。


「成り行き……としか言い様が無いんだよなぁ。イレギュラーらしい。不足の事態って言った方が分かりやすいかな?」


『成り行き……ね。そんなことが起きるもの? まぁ、私がに居るのも成り行きだものね。……けど、いきなり襲い掛かったりはしないでよ?』


 言うが早いか、いきなり姿を現した守護者。

 外見は非常に美しい女性の姿をしているが、酷く存在感が稀薄で、目の前に居るというのに気を抜くと見失ってしまいそうになるほどだ。

 髪は長く腰の辺りまで伸びている。

 黒く見える髪色や瞳の色は、よくよく見れば濃緑。

 その姿はギリシャ神話に出てくる妖精そのもの。

 数々の画家達が情熱を持って描いた姿は、当たらずと言えども遠からずといったところだろうか。


 ニンフ。

 それが彼女の正体だと思われる。

 昨日、兄達が戦闘した際は自我の無いモンスターだったようだが、目の前の彼女からは理知的な印象しか受けない。


「初めまして、お隣さん。私はこの選別の迷宮の守護者になってしまった哀れなアルセイデス……名前はに連れて来られた時に失ってしまったの」


 アルセイデス?

 あれ?

 てっきりオレはドリュアデスとか、ドライアード(どちらも同じ意味……樹木に宿るニンフ)と呼ばれる存在だと思っていたのだが、どうやら違っていたようだ。

 アルセイデスという存在については心当たりが無い。


「アルセイデスって? すまないがドリュアデスと呼ばれる存在と誤認していたんだ」


「あんまり違わないわ。姉妹みたいなものだもの。どちらも同じニュムペーには違い無いのだし。森のニュムペーがアルセイデス、樹木のニュムペーがドリュアデス」


 ニュムペーは、たしかニンフのことだよな。

 ニンフはいわゆる妖精……つまりは森の精といったところか。

 ドリュアデスより、少しばかり格上なのかもしれない。


「それで? まさかニュムペーの種類について聞きに来たわけでは無いのでしょう?」


「あぁ、もちろんだ。どうか平和的にこの迷宮の守護者権限をオレに譲って欲しい」


「……あなた、言葉を飾らない人なのね。ビックリしちゃった」


「……頼む」


「いいわよ、別に。私は自分の位階を高めることに興味なんて無いもの。それに、どうせ戦っても勝てないでしょうし。でも一つだけ聞かせてくれない? それは必要なことなの?」


 必要か……?

 もちろん必要だ。

 今はともかく、将来的には確実に必要になってくる。

 いつ、今のが変わるかなんて、誰にも分からないのだし、必要になってから慌てても遅い。


「あぁ、そうじゃなければ頼んでいない」


「そう。じゃあ、あなたに譲るわ。私はどうすれば良いの?」


「基本的には今まで通りで構わない。魔素の配分だけは、こちらで決めさせて貰うけど……」


「うーん、それならそれで良いのだけど……ねぇ、良かったら私の分体を連れて行ってくれない? この何も無い部屋にずっと居るのって、ちょっとした拷問みたいなものなのよ。分体は私と感覚を共有しているから、連れて行って外の世界を見せて欲しいの。もちろん足手まといにはならないだけの力は持たせるから……」


「分体? それって、どういう?」


「こういうこと~」


 いきなりオレの真後ろから声が聞こえた。

 慌ててそちらを向くが誰も居ない。


「どこ見てるのよ? こっち、こっち!」


 あ、居た。

 ちっちゃい。

 先ほどまで話して居たニンフが妙齢の女性だとしたら、分体だというニンフはまるで少女……いや、幼女と言う方が正確だろう。

 見た目には5歳ぐらいの女の子にしか見えない。

 容姿は本体と同じく異常なほど整っていて、濃緑の髪と瞳を持った幼女だ。


「私達ニュムペーは1人にして10人。その子のことは、そうね……エネアとでも呼んであげてちょうだい」

「うん、そう呼んでね?」


 ◆


 ……妙なことになってしまったが、無事に目的を果たすことは出来た。

 アルセイデスから守護者権限を移譲して貰ったオレは、魔素の配分を最寄りのダンジョンと同様に調整して、ド田舎ダンジョンからのスタンピードの脅威と、外部でのモンスター出現の可能性を消し去ることに成功する。

 アルセイデスが理知的な存在で良かった。

 これで安全地帯と呼べるエリアが増えたわけだ。


 アルセイデスの分体という思わぬ道連れが出来てしまったことに、内心では頭を抱えたい気分だが、まぁ……何とかなるだろう。

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