「──そんな、馬鹿な」


 信じられなかった。

 目の前の彼女が、僕の初恋のあの人だなどと──そんな馬鹿な話があるものか。安いメロドラマじゃあるまいし。


 あの時の失恋以来守り続けてきた心の箍が外れそうになるのを必死に抑えながら、僕は震える声で尋ねる。


「だ、だって──彼女の苗字は氷川じゃなく如月だった筈で──」


「あの後親が離婚したんですよ。如月は父方の性です」


「そ、それに彼女は黒髪ロングだったし」


「切って染めました。青山さんをストーキングして同じバイト先に勤め始めたのバレたくなかったので」


「で、でも......氷川さんは大学四年でしょう。僕は社会人一年目ですし」


「一浪したんです。高三の時に両親が離婚騒ぎを起こしたもんですから勉強どころじゃなくて」


「──だ、第一、彼女は氷川さんと違ってもっと落ち着いた雰囲気の子たった!」


「それも演じてたんですよ。今話してるうちに少しずつキャラが崩れて昔に戻ってるの、気付いてた癖に」


 ことごとく反論を否定され、僕は黙り込む。


 いや、恐らく心の何処かで、薄々気付いてたはいたのだ。あんなにも焦がれた、最初で最後の恋の相手を忘れる筈がない──薄々分かっていたからこそ、あれ以来持っていた防衛本能が無意識のうちに彼女に苦手意識を抱かせ、彼女を遠ざけていたのだ。


 僕は早々に現実を受け入れ、諦めのため息をついた。自分でも驚く程あっさり受け入れたものだと思ったが──まあ、そう言われれば彼女はそうとしか見えないわけだったし。



 ただ問題は、彼女が僕の初恋の相手であると分かってしまった以上、もう前のように接することは出来ないということだ。

 当たり前だろう。あれ以来僕は尽く恋愛を......というか女性そのものを、避け続けてきたのだ。


 それはつまり、僕が心の奥底で彼女を愛したままだったとしても、何の不思議もない、というわけで。


 ──あんなにも強固に嵌まって動かなかった筈の僕の心の箍は、今や音を立てて壊れようとしているのだった。


「……会って、どうしようと思ったんです。僕なんかに。何の解決にもなりませんよ、そんなの」


 そうだ。

 彼女がどんなに元彼氏との一件で傷つこうと、自分の内に秘める感情の醜さを知ってしまおうと、悪いが僕にはどうしてやることも出来ないのだ。

 幾ら彼女が僕を同類と感じようと、所詮は他人である。だいたい彼女とは卒業してからどころか別れてから全く縁がなかったのだ。空白の五年間を経て、互いに変わったことだろう。彼女は最早僕の知る範疇を超えているだろうし、僕だってきっと彼女が知っている僕ではない。


 そんなことは分かり切っているというのに、彼女ときたら──一体全体、何をしに来た?


 彼女を忘れるのに何年もかかった。自らのあまりにもどうしようもない内面を覗いて、幾度も傷ついた。

 それでもやっと、後ろ向きに前を向いたというのに。決して健全な方向ではないけれど、僕なりの処世術を確立したというのに。


 ──どうして今更、僕の前に姿を現した?


 帰りたい。切実にそう思った。あれからずっと沈めていた感情が蘇ってしまう前に。心の箍が完全に外れてしまう前に。


「会えば何か変わるとでも思ったんですか。そんな都合のいい話があるとでも? 悪いけど僕は何もしてやれないし、してやる気もありませんよ、。今更僕を何だと思ったかは知りませんが、僕に助けを期待したなら──一刻も早く、僕の前から去ってください」


「つ、都合のいい話......なんて、そんなつもりは」


 たじろいで言い淀む彼女を見て、少し言い過ぎたな、と思う。女性と深く関わるのを避けて久しいのでこういう場合どうすべきか分からなかったが、とりあえず謝罪を口にした。


「......言い過ぎました。すみません」


「いえ、私の方こそ......ごめんなさい、本当に」


 高校生時代の彼女からは想像も出来ないしおらしい物言いに──あぁ、彼女も色々あって卑屈になっているのだろう──と、そんなことを感じる。

 そりゃ、卑屈にもなるだろう。見えてしまった己の内面を呪い、ひたすら自己否定する日々──そして、恋愛に尽く向かない、と知ってしまった以上、こんなふうに否定されつくされてしまった自己を丸ごと肯定してくれるようなあの感覚に、包まれることは二度とないのだ──という、絶望感。


 愛した人を幸せにすることなど叶わない。

 だから結ばれることも願わない。願えない。

 愛した人を愛することすら叶わない自分──嫌にならない筈がない。


 そんな彼女の内情を想像し同情したところで、数時間前までの僕なら、そうですか、とだけ言い置いてさっさと帰ったことだろう。そういう人の情めいたものは、あの時に蓋をしてしまったのだから。

 だが残念なことに、そんなふうに非情に凍らせた心は、たった今解凍されてしまったのだ。まして相手は初恋の彼女だ、不本意ではあるがこのまま帰れる筈もなかった。


「いえ......本当に、言いすぎました。会えば変わるなんてことはないですが、何か僕に出来ることがあるなら力になりますよ」


 正確にはさっきまでそんな気はなかったのだが、心の箍が外れてしまった以上、既に手遅れなのだから良いだろう──そう思ったのである。


「ありがとうございます......というか、私たち同級生なんですから敬語はよしませんか?──青山、くん」


「そうですね。氷川......如月? さん」


「如月でいいよ。そっちの方が馴染むんでしょう」


 そう言って、彼女は笑う。


「分かった。じゃ、遠慮なく──如月さん」


 つられて僕も、曖昧に笑い返した。──数年ぶりに、まともに表情筋を動かした気がした。

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