Ⅱ
「お疲れ様でしたー」
人のいないスタッフルームに向かって投げやりにそう声をかけ、僕はバイト先を後にした。もちろん返事が返ってくる筈はなく、僕の発した声は静寂に吸い込まれて消える。他のスタッフは皆厨房かホールに出払っていた。人手が足りないのだ。
ここの飲食店でアルバイトを始めてから、かれこれ一年が経とうとしていた。大学在学中、何とはなしに始めたアルバイトだ。就職活動をしなかったわけではない。だが、僕はあまり熱心な就活生ではなかった。どこかの組織に属して働く自分の姿がどうにもピンと来なかったのだ。結局どこからも内定を貰うことは出来なかったが、焦ることもなかった。就職できなくても死ぬわけではあるまい。アルバイトでも食べていけないことはない。そんなことを考えるうち、僕は気付けば大学生を卒業していた。
──と、僕は、背後から追ってくる軽快な足音に気がついた。
「青山さんっ」
苗字を呼ばれ、立ち止まって振り返る。そこには案の定、同じバイト先の女性がいた。
「......氷川さん。お疲れ様です」
短めで明るい色の髪の毛、低い身長、活発そうな声。僕が最も苦手とするタイプなのだが、最近なぜか彼女に付きまとわれており迷惑している。
「もう、青山さんてばつれないんだから。ね、お夕飯一緒にどうです?」
「お断りします。六歳の息子が腹を空かせて待ってるので」
いつものように僕がつれない返事をすると、彼女は可笑しそうにクスクスと笑う。
「青山さんのユーモアセンスは大好きですけど、今日のは六十点ですよ。青山さんの年齢で息子さんが六歳だったら、その子のお母様の行方を問い質したいもの」
僕としては特に冗談を言ったつもりはなく、ただ彼女──氷川さんの誘いを断りたくて、口から出任せを言っているだけなのだが。もっとも彼女を本気で騙す意図はなく、誘いを断りたいということだけ伝わればいい、とかなり適当なことを言っている節もあるので、冗談と受け取られても仕方ないのかもしれない。
「とにかく、食事なら他の人を誘ってください。例えばほら、山本さんなんか僕らと同じシフトだったでしょう。ここで待っていればそろそろ来るんじゃないですか?」
「青山さんてば、すぐそういうこと言って。どうせ帰っても独り寂しくコンビニ弁当をつつくだけなんでしょう? ほら、遅くなると混みますから。行きますよ?」
意見を却下する時は代案を出せ、という教えに従って僕は毎度他に誘えそうな人物の名前を挙げて誘いを断っているにも関わらず、彼女は一向に聞く耳を持たない。どうもここのところ、毎日彼女の夕飯に付き合わされている気がする──毎日の外食で圧迫される僕の財布事情は考慮されないのだろうか。実家暮らしの彼女とは違い少ない稼ぎの中で切り詰めて暮らしている僕の身にもなって欲しいのだが。
そんなことを考える間にも彼女は、
「青山さん、そこのファミレスでいいですよねー?」
などと勝手に話を進めている。一度はっきり断らねば、と思いつついつまでも言い出せないでいる自分に嫌気が差す。
けれど、と、僕は思う。
要は、女性と深く関わり合いになりたくないのだ。幾ら苦手なタイプとはいえ僕だって男なのだ、初恋以来そういうこととご無沙汰な僕が氷川さんに惚れる可能性だってゼロじゃない。いわば防衛本能のようなものだ。女性と最低限以上の関わりを持ちそうになると、脳内でけたたましく警鐘が鳴り響く。
氷川さんに拒絶の意を示したとして、口論にでも発展しようものならたまったものではない。それなら毎日甘んじて食事に付き合わされた方がましだ。そんな意識が、惰性のように彼女との浅い仲を取り持っていた。
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