花匂う春
招待状は、薄い緑色の匂う柔らかな紙に、こなれた手筋で認められていた。宛名は白川
矯めつ眇めつ、裏返してもみたが、さしたる覚えがない。
日本の男にしては大きな上背、肩幅を、ぴったりと体に添う背広で包んだ男は、渡された招待状を手に、間の抜けた返事をして、対峙する兄に睨まれた。
「お名前、間違えられたんじゃないですか」
「晴己」
鋭い視線に肩を竦める。冗談も通じない。だが、本当に、晴己には覚えがなかったのだ。
差出人は
兄さんも行くんでしょ、などとのたまえば、思いっきり睨まれた。
「お前がご招待されているんだ。私が行ってどうする」
「はぁ、僕だけ……」
時候の挨拶から始まり、先先代が植えた桜の見応えを説いて、是非いらっしてください、とある。ただ、末尾に何気なく、娘も琴を奏でますので、と加えられているのが如何にも。
「まだわからんのか」
いやいや、と首を振る。流石に了解した。これはあれだ、見合いというやつだ。
兄がこうして渡してくるということは、父も承知の上なのだろう。今更、姻戚関係を結んだところで白川に利があるとも思えないが、厄介者を追い出せるとでも思っているのだろうか。
昨夏から、晴己は大蔵省の役人として奉仕を始めたところだった。大学を辞めさせられた後、二年ほど英吉利で経済を学んでおり、その帰国に合わせてのことだったが、母国を離れた本来の目的は、ほとぼりの冷めるまで社交界から姿をくらませることだった。
「僕は、僕の価値がわかっているつもりです。家を継げない、醜聞絶えない次男坊など、何の旨味があるというんです」
相手の渋い顔がますます濃くなる。手順も知らぬまま淹れた茶の渋みが、確かこんなふうだった。
「知らん。お前があらゆるところで女を弄んでることも承知の上だそうだ」
目をしばたく。はぁ、と気の抜けた返事以外にしようもなく、ついにつられて、兄までため息をついた。
「ともかく行ってきなさい」
くれぐれも、粗相だけはないように。
承知いたしました、と頭を下げ、部屋を辞した。
華族の息子というものは、概ね七歳にもなると親の傍を離れて生活し始める。白川は息子たちのために別邸を建て、そこを男子らの成育の場とした。かつては、兄と
車輪をがらがらいわせながら、住処へと戻る。俥を降り、玄関を開けようとポケットから出した指先が、ふっと空を掻いた。
「お帰りなさいませ」
人好きのする笑みを浮かべて、初老の男がまず、主人を出迎える。
「ただいま。また清住に負けた」
「こんなにお小さい頃からお仕えしておりますから」
自身の腰あたりで、撫でるように手を振る。そんなに小さかったろうか。
清住は晴己の幼少、よく遊び相手になっていた家扶で、今は家令として、別邸の実際を取り仕切っていた。
たわいない会話さえ邪魔せぬよう、静かに寄ってきた女は島野という。晴己が上着を脱ぎかけるのを介添えし、手元に預かると、一礼してから去っていった。
晴己よりも幾らか若いだろうに、何事もそつなくこなし、あの厳しい徳子が何か言っているのを見たことがない。よほど優秀なはずだから、こんな先行きの知れたところにおらず、せめて本邸で勤められるよう口聞を申し出たことがある。しかし、何か失敗したために暇を出されるのだと勘違いした島野は、さめざめと泣いた。好意のつもりが女一人泣かせることになって、徳子に叱られるやら、平に謝るやらで、徒らに大ごとになってしまった。
「
幾つになっても、凛とした声色が衰えることはない。晴己の乳母、徳子は唯一、本邸からついてきた使用人だった。
「あぁ……兄はいつも、しかめっ面さ」
「晴己様がお行儀よくなさらないからです」
すっと骨の目立つ手で示す先は仕事用にしている書斎の方で、晴己は一つ頷く。連れ立って歩き出す後ろで、清住が静かに頭を下げていた。
「僕のお行儀は徳さん仕込みだろう?だったら、徳さんも、」
「ひとっつも徳の言うことなどお聞きにならないのに、こんな時ばかり口が達者で」
廊下に落ちる、かげる日の茜を帯びた光は、いつの間にかやわらかく烟るようになっている。見れば、乳母の衣も紫の細縞で、帯締めの緑と合わせて藤を意識していることは間違いなかった。
春が、もう訪れている。花もまた、匂うべし。
しかし、そのような風情が書斎にまで及ぶことはない。広い机は相変わらず、積み上げた本と片付かぬ紙束で半ば埋まっていて、長々と息を吐いてしまった。
徳子の目尻がきゅっと上がる。慌てて叱言を制し、椅子に腰を下ろした。行儀よりも、話さねばならないことがある。
「
鋭い目元がわずかに和らぐ。久閑様でございますか。思わずといったふうに確かめる彼女にうなずいて、懐から、貰い受けた招待状を渡す。さっと目を通し、男と同じ曖昧な吐息をよこすのに晴己は唸って、首をかしげた。
「観桜の宴とか銘打っているけど」
「お見合いでございますね」
なんとなく、素直に喜べないでいるのは、晴己の風評が頗る悪いことにあった。
華族のお高く止まった文化よりも、俗っぽいものが好きだった。大学の友人の案内や、そこらの小劇場や喫茶に平気で出入りしていたら、不道徳だなんだと華族の間で噂になった。父と、主に母の逆鱗に触れて、二十も過ぎて目付をつけられることになったが、構わず人混みでまき、その日、たまたま友人に連れて行かれた先が角に女の立つような界隈だったから悪い。流石にまずいと、一人出てきたところを、間が悪く目付に見つかり、ついに、海の向こうに放り出されることになったのだった。
「外聞とか、色々あるだろうに」
「ご自覚がおありだとは、存じ上げませんでした」
勘弁してよ。情けない声を上げるも、老女はどこ吹く風でしげしげと書状を見つめている。
醜聞付き纏う男に、誰が縁付かせたいと思うだろう。下手を打てば、家格が落ちる。
「そんなに家政が逼迫しているのかしら」
「貞昌様のところでも、そのようなことをおっしゃったのですか」
口の端が引き攣る。
呆れてため息をついた徳子が、丁寧に招待状を畳みなおした。
「邪推なさるのはおやめになって、清い心でお伺いすればよろしい」
「はい」
机に返された封筒を、憂鬱に見やる。乳母は踵を返した。
「お茶を持ってまいります」
ありがとう。引出しへしまいながら答えた次男が、小さな背を見ることはなかった。
来る日、
まさか、本当に次男一人で遣るつもりはないと思っていたのだが、こういう場に欠かせないはずの両親は同伴せず、もしかしたら、御誘いの言葉通り、ただ、桜を観にいらっしゃいということなのかもしれない、と淡い期待を寄せていた。
朝、徳子に丁寧に結ばれた蝶ネクタイに指をかけ、いけないと戻しながら、そういう呑気なことを考えていた晴己も、流石に、艶やかな総絞の振袖に出迎えられては、形式はともかく、久閑夫妻が彼らの娘を自分に縁付かせようとしているらしい、ということを自覚しないではいられなかった。
瓦屋根を載せた洋館は如何にも日本人の設計した感じがしたが、庭は丁寧に手を入れられている。塀を越えてこぼれる桜は、なるほど、自慢に値する見事なものだった。
淡い紅の雲のように咲く花の下、鮮やかな振袖が揺れる。
「晴己さん。よくおいでくださいました」
「こちらこそ、お招きに与り、光栄です」
「急に招待を出してしまったから、無礼に見えはしないかと心配していたのだよ。紹介しましょう。妻の
久閑氏の半歩後ろに妻、さらにその一歩後ろに控える娘が揃って頭を下げた。
結い上げた日本髪に映える丸い額と、形のよい唇が品良くおさまる少女は、恥じらって、背を起こしても僅かに顔をうつむけている。まぁ、綺麗な娘もいたものだと感心しながら、その好奇が顔に出ないよう、晴己もまた、挨拶を返した。
観桜と誘いをかけただけあって、席は桜花の下に用意されていた。風もなく、曇りがちな春の空も今日は青く晴れ渡っている。
席につくと、女中がビスキュイなどの茶請けを運び、英国好みの薄いカップに紅茶を注いだ。
一通りお決まりの話題、既に知り尽くしているだろう互いの趣味や仕事の調子などを語り、ぽつりぽつり、芙由子嬢も答えては、終始はにかんでいた。
芙由子は晴己の十二、年下で、現在は女学校に通っている。華族の娘にありがちな箏や華が趣味と母が語り、その場で爪弾かせたが、色をつける前の線画のような、平坦な音で、しかし難癖をつけるほどの何かはなく、お稽古事として幼い内から教育されてきたことが窺えた。
「晴己様のご趣味をお伺いしてもよろしいでしょうか」
出来るだけ、上品に褒める言葉を口にしたあとだった。自ら質問することのなかった少女は、箏の演奏に控えて緊張していたようで、幾分か気安く、晴己に訊ねた。
「ええ、剣術は多少、腕に覚えがありますが、それくらいです」
「晴己くんの勇猛ぶりは私もよく知っている。大学でも、強者を蹴散らしていたらしいじゃないか」
「はは、皆遠慮して、まともに相手してくれないだけですよ」
現に、世が変わったのだから、止めなさいと何度言われたかわからない。古くから続く公家から嫁いできた母は、特に野蛮に映ったらしい。兄が早々に辞めたのに対し、晴己は勝手に稽古道具を持ちだし、道場へ走っていく子供だった。
「打たれたときは、痛くはないのですか?」
「痛いですし、腫れることもあります」
まぁ、と口を覆う女二人に対し、久閑氏は苦笑するに止める。ややもあって、夫人は微かに眉をひそめたが、令嬢はすっかり意気を取り戻して、晴己に食いついた。
「それでも、お続けになられたのは?」
何故だろう。改めて問われると難しいが、道場に行けば晴己は「白川」でなく、同じ一門に属する門下生の一人でしかない。上下は、年数もあったが、己の強さで決まる単純な構造が、子供心に強くなりたいと思わせる動機だった。
「体を動かすことが好きなのです。稽古の間は、無心になれますから」
感ずるものがあったらしい少女は深く頷く。
さて、と久閑氏が席を立つ。
「こういうときに何ですが、少し用を思い出しましたので、しばし失礼いたします。遠慮なさらず、ごゆっくり花を見ていらしてください」
では私も、と夫人も同様に立ち上がる。突然のことに目を丸くした晴己を置いて、夫妻は本当に屋敷へ歩いて行ってしまった。何よりも、娘が最も困っているだろうと伺えば、恥じらって面を俯かせるゆかしさ。しかし、戸惑う様子はなく、これもまた図られたらしい、と気づく。
こちらから何か話し出さねばと、糸口を探していれば、あの、と声がした。
「父と母に席を外していただいたのは、その、私がお願いしてのことなのです」
硬い声音は、しかし、心根のしっかりとしたものをにじませていた。
「何か、私にご用事がありましょうか」
はっと、息を飲む。少女は、ひと呼吸、ふた呼吸置いてから、御礼を申し上げたくて、とそれだけなんとか、口にした。
「御礼」
「ええ。ええ、そうです。晴己様に私、御礼を」
「左様でございますか」
劇場に出入りし、猥雑な界隈をうろつきはすれど、女ならともかく、このような子供と知り合う機会はない。どこぞのパーティーにも、帰国してからは一度も参加したことがなかった。
「大変失礼を申し上げてよろしいのなら、以前、どこかでお会いいたしましたでしょうか。覚えておらず、本当に申し訳もないのですが」
「覚えておられないのも、当然でしょう。学校では、私は眼鏡をかけますし、今日は、お化粧もしていますので」
晴己のせいではない。少女は一息に擁護して、はたとはにかみ、うつむく。
となると、本当に以前、どこかで芙由子嬢とどこかで出会い、そして礼を言われるような何かがあったらしい。
前のめりになったかと思えば、恥じらってみせ、目まぐるしく表情が変わる。ともすれば、淡い笑みを浮かべながら応対し続けられる男とは違い、素直な若さが眩しい。
かさり、かさりと頭上で微かに音が鳴る。花蜜を吸いに来た小鳥が枝を飛び回っている。薄い紅に染め上がった頬から目を離せず、どこか冷静な頭で、目白だろうかと当たりをつけていた。折しも、もう甘きに欠けると軸を啄まれた花が、テーブルに落ちた。
「男の方に、腕を引かれたところを助けていただきました」
音もなく落ちたそれに一度目を瞬かせ、ようやく花唇を開く。
下町を供もつけずにふらふらする晴己は、男にも女にも、腕を引かれることはままあるが、彼女の通う学校周辺にその様な治安の悪い界隈があるわけでないだろう。人助けにぶらついているにでもなし、あっただろうか、と記憶をたどる。
そして、ふと、濃い紫の上品な矢絣が、脳裏で袂を振った。
「あぁ、カフェーの」
すると、ますます顔を赤らめて面を伏せる。
帰ってきて、すぐのことだったか。久方ぶりの母国を味わいたいとやはり、下町をぶらついていた。清住を供につけ、流石の晴己も、実質の謹慎明けとあれば撒くつもりなど毛頭なかった。しかし、人波に、はっと舞う矢絣と一瞬の悲鳴が聞こえ、出し抜けに走り出してしまった。
裏道へ引っ張られる女学生を、お姫様、と呼び止めたのは咄嗟の判断で、どこへ行かれるのですか、と続けて言い終える前に、暴漢は逃げ出していた。
「良家の子女が、用のあるところではないでしょう」
因みに、その後追いついた清住には、こっぴどく叱られた。助けたはずの女学生が、ごめんあそばせ、と小さく叫び、脱兎のごとく走り去っていたからだ。
「そう、なのですが……。私の、級友が働いておりますので」
お顔を、伺いに。
弱々しい言葉に納得しかけていると、しかしさらに、娘は理由を付け足した。
「それにあの、本屋が、ございますので………」
「ほんや」
予想だにせず、素っ頓狂な声が出た。
少女は、俄かに唇を震わせる。柳眉をひそめ、白歯が下唇を噛んで紅に染まる、その悔しさ。
声をかすれさせながらも、早口に言い募る。
「お父様にも、お母様にも、止すように言われています。いい加減にするようにと、ですから、きっと、この家を出るときには全て置いてゆきますから、どうか、その、学校へ通っている内は」
切なる、懇願だった。
晴己こそ、少し前の己を悔いて、首を振る。だから徳子に、自覚が足りないと説教されるのだ。
賢しらな女は敬遠される。それを危惧して、久閑氏は本を読まないよう、言いつけるのだろう。だが、生憎、晴己はおよそ華族にふさわしい性格をしていなかった。
「お嫁に来るときは、ひとつ残らず持ってきなさい」
家に閉じ込めておくことさえ惜しい女性こそ、生涯の伴となりえるのではないか。
「賢い子は好きだよ。ただし、本がほしいからと一人であんなところをうろつかないこと。いくらでも買って差し上げるから、必ず僕を呼びなさい」
少女は目を見開く。まなじりに僅か浮かんだ珠の雫が、春陽をうけて光る。やわらかな唇が、見事に弧を描いた。
あぁ、桜でさえ、見劣りする。
美しい人だと、見惚れていると、芙由子は淑やかにうなずいた。
「はい」
鈴の音が、軽やかに耳を打った。
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