隣の洋館に住んでいる同級生は、家族に婚約を認めてほしいらしい。
今までに体験したことがない程の緊張感が漂う授業参観が終わって、迎えた放課後。
一人でここまで帰ってきた制服姿の俺は、石畳みを踏みしめて、大豪邸を見上げていた。
後ろを振り向くと、高級感が漂う門扉が見える。
周囲を見渡すと、広すぎる庭と制服の上に白衣を纏い、両腕を上に伸ばした榎丸さんが見えた。
初めて訪れる隣の洋館を前にして、心臓がバクバクと鳴る。そんな俺の異変に気付いた榎丸さんが、俺の元へ歩み寄り、背中を叩いた。
「緊張してるね。このお屋敷の応接室で心美ちゃんのお母さんに会うだけなのに」
「ここで認められなかったら、心美と離れ離れになるかもしれないんだ。まあ、学校で会った心美のお母さんは、気さくな感じだったから大丈夫だとは思うが」
「学校でおばさまに会ったんだ」
「だから、初対面ってわけじゃない」
「そうなんだ。じゃあ、そろそろ行こっか。あんまり待たせるのも悪いし」
榎丸さんに促され、前方に見える玄関のドアに向かって一歩を踏み出す。
数歩でドアの前に辿り着いてから、緊張で汗を流しながら、ドアを開けた。
「おかえりなさいませ。一穂様、奈央様」
ドアが開くのと同時に、声が響く。玄関の中へ足を踏みいれ、周囲を見渡すと、敷かれているレッドカーペットを挟んで、キレイに並んだメイドたちが一斉に頭を下げていた。
それから、総勢40名ほどのメイドたちに出迎えられた俺の右隣にいた榎丸さんが耳打ちする。
「心美ちゃんとおばさまは、応接室にいると思う。とりあえず、ここを真っすぐ進んだら、真っ赤な扉が見えてくるから」
「分かった」と短く答えた俺は、玄関先で靴を脱ぎ、目の前に用意されていたスリッパに履き替えた。
そうして、一歩を踏み出そうとすると、なぜか手と足が同時に出た。ぎこちないロボットのような動きで歩く俺を近くで見ていた榎丸さんがクスっと笑いながら、スマホを出す。
「緊張しすぎだよ。メイドさんたち、笑い堪えるの必死だから」
その手に握られたスマホを俺に向けた榎丸さんと顔を合わせた俺は足の動きを止める。
「何撮ってるんだ?」
「さっきの変な動きの倉雲さん。動画で撮影したから、あとで心美ちゃんに見てもらおうと思ってね」
「恥ずかしいから、やめろ!」
豪華な絵画や美術品が並べられた廊下を通り、ピカピカに磨かれた白い廊下を榎丸さんと共に進む。そうして辿り着いた応接室のドアの前で気を落ち着かせるために、深呼吸した。
目の前のドアを2回ノックしてから、扉を開ける。
「しっ、失礼しまちゅ」
噛んでしまったと恥じるのと同時に、体が小刻みに震え始める。
ぎこちなく周囲を見渡すと、大きな机を挟んで、制服姿の心美とそのお母さんが座っていた。
よく見ると、学校で会った心美のお母さんの両隣を挟むように2台のノートパソコンが開かれた状態で置かれていた。
「早く心美ちゃんの隣に座りなさいよ」
体が思うように動かない俺の背後に立った榎丸さんが、俺の背中を押す。
「そっ、そうだな」と軽く答えてから、心美が座っている椅子まで足を動かした。
そうして、心美の右隣に置かれた高級そうな椅子に腰を落とす。
すると、隣の席に座っていた心美が俺の顔を覗き込んできた。
「大丈夫? なんか死にそうな顔してるけど……」
「ここで婚約を認めてもらわないと、心美と離れ離れになるかもしれないって考えたら、体が震え出した」
「それって、私と離れたくないってことかな? だったら、私も同じだよ。私も奈央と離れたくないから」
心美が頬を赤く染めながら、腕を伸ばし、俺の手を優しく握る。その瞬間、彼女の優しさが伝わってきて、自然と体の震えは治まった。
「フッ、心美が恋に落ちたか」
突然、年配の男性の声が聞こえてきた。
その声は俺の前に置いてあるノートパソコンから聞こえてくる。
まさかと思い、顔を正面に向けると、ノートパソコンの画面に会長と表示されていた。
「ヤツは小野寺グループじゃんけん大会最弱」
榎丸さんの前に置かれたノートパソコンから別の男の声が流れる。
その声に反応した心美がムッとした表情になる。
「お父さん、今、それは関係ないでしょ!」
その間に榎丸さんが心美の左隣の席に座った。それからすぐに、心美のお母さん
が冷たい視線を心美に向けながら、両手を1回叩く。
「庶民ごときに恋するとは。小野寺グループの面汚しよ」
「いい加減にして。私にとっての奈央は……」
珍しく声を荒げる心美に対して、状況を理解できていない俺は、目を点にすることしかできなかった。
「心美、教えてくれ。なんなんだ? あのパソコン?」
小声で囁くように尋ねると、落ち着きを取り戻した心美が首を縦に動かした。
「仕事で忙しいお父さんや会長さんのために用意したモノだよ。ビデオ通話だと面白くないからって」
「はぁ。金持ちが考えてることは理解できない」
俺が困惑の表情を浮かべると、心美のお母さんが両手を叩いた。
「それでは、緊急会議を開催しますわ。議題は心美の婚約者の提案について。まずは、私から探偵に依頼した倉雲奈央の身辺調査の報告から」
「身辺調査だと!」と驚きを隠せない俺の隣で心美が呟く。
「やっぱり探偵を雇っていたんだ」
そのまま、心美のお母さんは机の上に1枚の紙を置いた。
「倉雲奈央。我が家の隣に建てた小野寺グループのモデルハウスで暮らす極普通の男子中学生。専業主婦の母親と脚本家の父の間に生まれた一人息子。補導歴なし。万引きなどの前科なし。特に秀でた能力もなし。以上で報告は終わりですが、こんな男が心美の婚約者として相応しいと思いますか? 会長さん」
一通り報告書を読み終わった心美のお母さんが、会長に尋ねる。
すると、会長と表示されたパソコンから唸り声が漏れた。
「うーん。これからの小野寺グループのことを考えると、毒にも薬にもならないな。こんな庶民が心美と婚約したら、グループは繁栄しない。心美は騙されているんじゃないのかな? 財産目的で優しい態度で心美に近づいてきた庶民の男子中学生に」
「意義あり。裁判長。こちら、夏休みの際、別荘旅行に同行したヨウジイに聞き取り調査をした結果です」
榎丸さんが右手を大きく上げてから、心美のお母さんの前に、1枚の紙を差し出した。それに目を通した心美のお母さんが腕を組む。
「なるほどね。倉雲奈央はお金を集るような人ではございません。善良な庶民のご友人がいることに、私は喜んでおります。エリカ様なら、この身分の壁を越えた大恋愛を応援するに違いないでしょう。以上がヨウジイの証言です」
「エリカの名前を出すのは、卑怯じゃないかね? それに、百歩譲って、その男子中学生がお金を強請るような人じゃないとしても、親戚の中にそんな人が1人でもいたら問題になる。親戚だから、グループ関連会社に就職させろって要求されても困る」
会長の反論を聞いていた榎丸さんが、スマホを机の上に置いた。
この展開を待っていたかのような表情になった心美の親友が、画面をタッチする。
続けて、心美のお母さんの前に1枚の紙を差し出した。
「意義あり。3週間前、私は心美にこの会議に出席してほしいと頼まれてから、密に探偵を雇って、倉雲奈央の身辺調査を依頼しました。中立的な立場として、こちらの報告書を会長さんやおじさんにメールしました。そちらをご覧の通り、親戚や友人など、これまで倉雲奈央に関わった全員を対象に調査したところ、そのような人は1人も該当しませんでした」
「奈央は悪い人ではありません。すごく優しい人です」
榎丸さんの意見に同意するように、心美が頷く。
「もう一度考え直したらどうかね? こんな庶民と付き合ったら、心美は不幸になるかもしれないんだ。そんな結果は……」
会長の説得の声を遮った俺は、目の前の机を叩いた。
「大切なことを忘れてないか?」
そう首を傾げながら、俺は席から立ち上がる。
そうして、目の前で座っている心美のお母さんたちの顔をジッと見た。
「大切なこととは何かね?」
「俺はまだ中学生なんだ。俺には未来がある。毒にも薬にもならないとか。こんな庶民が心美と婚約したら、グループは繁栄しないだとか。こんな庶民と結婚したら心美は不幸になるとか言ってたけど、それは今のままの俺だったらの話だ。まだ、何をしたらいいのか全然分からないけど、俺は心美の婚約者に相応しいって納得できるような人になる!」
右手の人差し指をビシっと立て、思ったことをぶちまける。その態度に圧倒されたような声が、目の前のパソコンから聞こえた。
「なかなか面白いことを言う庶民の男子中学生だな。気に入った。とりあえず、心美の婚約者候補にしておこう」
「……そういえば、倉雲君の家の本当の持ち主は、黒雪佐奈だったな」
これまで無言を貫いていたもう1台のパソコンから疑問の声が流れる。それに対し心美のお母さんが頷き、聞き返す。
「はい。それが何の関係が?」
「いや、なんでもない。兎に角、私は心美の婚約者問題を保留にする。それでは、通信を切らせてもらうよ」
「はい。では、小野寺心美婚約者問題は保留ということにします。解散」
両手を叩いた心美のお母さんが、そさくさと応接室から出て行く。
その場に残った俺は、まず榎丸さんに頭を下げた。
「榎丸さん、助けてくれて、ありがとうございました」
「まあ、いいよ。心美ちゃんの頼みなら断れないし、これで倉雲さんには借りができたから、プリン食べ放題♪」
笑いながら右手を差し出す榎丸さんを前にして、俺は苦笑いした。
「おい。何強請ってるんだ!」
いつものようにツッコミを入れてから、隣に座る心美の顔を見る。
「黒雪……」と呟く心美は俺のことに気が付いていないように動揺していた。
「黒雪佐奈さんがどうしたんだ? その人、確か、11年前にお父さんが俺が暮らしている家の所有権を譲渡した人だって聞いたことがあるけど、名前までは知らなかったな」
そんな俺の声にハッとした心美が、赤面しながら俺と顔を合わせた。
「なんでもないよ。それにしても、さっきのは惚れ直しちゃったなぁ。私のために婚約者として相応しい人になるって。そういえば、結婚したらって聞こえたような気がしたけど……」
イタズラに笑う心美に対し、照れ顔になった俺が頭を掻く。
今は婚約者として相応しくないかもしれない。
それでも俺は、心美と一緒にいたいという想いを抱き続ける。
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