幕間 エル=ガレミアは決意する。

「はぁーーーー……」


 少女は蒼色のとんがり帽子とローブを脱ぎ捨て、深いため息をつきながらベッドに顔を埋めていた。


 ストレートボブの黒髪に縁取られた容貌を飾るは翡翠色の目。魔術名家ガレミアの長女として生まれた彼女の名はエル=ガレミア。


 今年で十四歳の春。気の抜けそうな朗らかな天気の中、彼女は悩みに頭を抱えていた。


(私の夢はガレミアを継ぐこと。今も、今までもそれは変わらない。なのになんなのこれ!)


 悩みとは進路のことである。


 ラプラに限らず現界のほとんどの国では、十四歳まで共通の学校で教養を身に付け、卒業後それぞれの進路に合った学校やら職やらを選択するのが一般的だ。


 エルのクラスでは成り行きで実家の仕事を手伝うとか、なんとなく適当な学校に行こうかなとか、まあそれが普通だ。しかし中にはずっと前から進路を絞っている者もいる。例えば「勇者になる!」とぎゃーぎゃーうるさい奴、とか。


 しかしてエルも同じく進路を決めていた一人である――否、だった。


 彼女の夢は魔術名家ガレミアを継ぐこと。幼い時から父の背中を見てかっこいいなと思った。廊下に並ぶ会ったことのない先祖たちの肖像画に想いを馳せた。彼らと魔法の歴史を読み漁って感銘を受けた。


 そもそもガレミア家は世襲制である。


 そのガレミアが数百年間その地位を確固たるものとしている理由は、創始者たるリラ=ガレミアが勇者のパーティの一人、かつ三傑のひとつである賢者だったことだけではなく、歴代当主たちが相応の実力と熱意を持っていたからにほかならない。


 例に漏れず、彼らの血を引くエルは魔法の魅力に心を奪われ、世襲に頼る素振りも見せずに暇さえあれば実力を磨いた。誰が見ても次代当主に相応しいだろう。


 そうやって生きてきた。もちろんその想いは今でも変わることはない。しかし脳裏を掠めるのだ。以前は時々、ところが最近は気を抜けば、だ。


 ある少年の顔が。


「あぁもう、分かんない!」


 彼女の叫び声が逃げ場を求めるように、ちょうどよく扉が開いた。


「ど、どうしたのお姉ちゃん……」


 部屋の入り口には突然の叫び声におろおろと心配する少女。


 エルの妹ミア。


 姉と同じ輪郭、鼻、目は少し丸いが翡翠色。背が伸びて、姉妹はより一層似てきた。エルよりも少し明るいこげ茶色の髪は、姉の髪型を真似ていた頃よりも伸びていて両脇を束ねておさげにしている。


「コ、コホン……ううん、なんでもない。それよりもどうしたの?」

「あ、うん。ちょっと勉強教えて欲しくて……」


 取り乱した姿を妹に見られた。不覚。


 なんとか誤魔化していつも通りの落ち着いた様相を見せるエル。妹をよく見てみると手には分厚い本。どうやら魔術について聞きに来たらしい。ミアも血筋に従って――というより姉の姿に引っ張られた要因のほうが大きいかもしれないが――魔術を熱心に勉強していた。


 エルはミアが開いたページに目を通す。


「魔力抵抗かあ。ちょっと分かりづらいかもね」


 あらゆる生命は魔力を持つ。魔力は百人百様。指紋と同じで全ての魔力は質が異なる。より質が異なる魔力ほど親和性が低く、反発し合う。それが魔力抵抗。


 他者、特に敵意のある者の体内へ魔法を繰り出すことができないのはこのためである。


 しかしこの魔力抵抗を克服することができれば回復魔法や身体魔法の技術が飛躍的に向上するため魔力抵抗について研究する学者は少なくない。この本に書いてあるのはその研究内容など、さらに踏み込んだ内容が載っている。


 それをエルはすらすらと説明した。十四歳にしてこの知識量は驚異的だ。


「ありがとうお姉ちゃん!」


 まあこれは姉と一緒の時間を作るための口実なのだが……。ミアもエルに負けず劣らず優秀なのだ。この程度の内容なら熟読すれば理解できるのだが、わざと姉を頼りにする。


 エルも薄々気付きながらも満更でもない様子でそれに付き合う。


 仲良し姉妹の日常である。


   *


 翌日、今日も放課後の特訓のお時間だ。


 姉妹と少年の三人はガレミア家のだだっ広い庭の中央に集合していた。


 最も魔力の構造に見識の深いエルが三人分の練習内容を与える。それぞれの長所を活かした方法で短所を補填する。これがエルのやり方。


 少年の強みは何と言ったって【魔力の溟渤】による圧倒的魔力量。少年がどれだけ下手に打とうが、どれだけ乱発しようがお構いなし。体力の限界は来るものの、魔法の特訓において練習量は非常に大きなアドバンテージだ。


 駆け出しは絶望的だった少年も今になっては一端の魔法使い。【灯】を初めとした生活魔法は勿論のこと、応用魔法や戦闘魔法も習得していた。


 意外にも筋がいいのだ。本能だけで生きていそうな彼は驚くことに理論派だった。教養が皆無だったからこそあのざまだったが、エルが理屈から説明したところすんなりと習得してみせた。


 庭の端に設置されている、魔人を模した目標物の横を火球が掠める。


「うわ! 今の当たりそうだった!」


 悔しがる少年の右隣、先程の火球よりも一回り小さい火の玉がちろちろと宙を漂い、見事目標物に当たると小さな焦げ跡だけを残して消えた。


 ミアもミアで順調に成長していた。エルの道を辿るように生活魔法はさっさと身に付け、十歳の今では応用魔法に挑んでいた。


「やっぱミアちゃんは魔力の操作が上手いなー」

「えへへー」


 少年が頭を撫でると少女は嬉しそうに顔を緩める。それはまさに兄妹のようである。


 そんな光景を尻目に少年の左隣ではエルが淡々と――内心羨ましがっているが――魔法を放つ。


 目標物を鋭く貫くように音を立てて弾けるそれは炎の銃弾のようだ。


 三人とも成長する中でエルの魔法技術は一線を画していた。


(ふん、どうよ!)

「わー、やっぱりすごいなー」


 能天気な少年はへらへらと拍手する。


 そうじゃないでしょ、と少年をジトっと睨む。


「さっさと続きしなさいよ。体力バカ」

「えぇ……酷い……」


 がっくりと肩を落とした少年は再び目標物へ向き直る。しかし杖を構えたその表情はとても真剣で、目標物を見据えるその目に不思議な引力を感じた。


 エルも同じように杖を構える。


 想像する。


 山、川、見知らぬ街、二人で歩く姿を。そして今日のように肩を並べて強敵を討つ日を――


   *


「って違ぁーーーーっう!」


 練習を終えたエルが今日も今日とてベッドの上でじたばたしていた。もはや日課である。


 どうしても彼の表情が頭にこびりついて離れない。


 枕に顔を半分だけ埋めてぼーっと一点を見つめる。


(私、やっぱりあいつのことが……)


「す――」

「お姉ちゃんってお兄ちゃんのこと好きなの?」

「キわゃぁッ!」


 突然の呼びかけに変な叫び声が出てしまう。いつの間にか傍にはミアが立っていた。


「急に何よ! というかノックくらいしなさいよ!」

「いや、したんだけど……」

「えっ」


 音が聞こえなくなるほど耽っていたらしい。


「お姉ちゃんってお兄ちゃんのこと好きだよね」

「ち、違ッ……!」


 今度は言い切ってくるミア。


 エルはまごつきながら否定する。


「ふーん……」


 ミアはしばらく思案するふりをした後、にやりと口角を上げる。


「じゃあミアがお兄ちゃん貰ってもいい?」

「だッ――」

「だ?」


 ミアが圧迫するように顔を近づける。


「め……」


 絞り出すような一文字。


 エルは完全に顔を埋める。全身が爆発しそうだ。


「お姉ちゃん」

「……なによ」

「勉強教えて!」

「バカじゃないの!?」


 ガバッと体を起こすと耳まで赤く染まった顔が露わになる。


「お姉ちゃん顔真っ赤~」

「~~ッ!」


 ミアは無邪気に笑う。


 さらに顔を赤くしたエルは無言でベッドから降りると、ミアの背中を押してぎゅうぎゅうと廊下へ押し込んだ。エルは押し込んだ勢いでよろけるミアを一瞥し――


「ミア、ありがと……」


 一言だけ囁いて扉を閉めた。扉の向こうで何か聞こえたような気がしたが、聞かぬふりをしてベッドの角に座る。


 今度こそ一人になった部屋で、天井の角を見つめて少し考えてから溜め息をついた。


「いいわよ。認めるわよ」


 エルは遂に観念した。


 魔法よりも大事なものができた。できてしまった。それならば選択肢は一つしかない。


 エルは母のいる部屋へ向かった。


    *


「冒険家にでもなりたいの?」


 突然大きな声を上げながら部屋に入ってきた娘に対する母親の第一声はこれである。


 エルは思わず口を開けたまま立ち尽くしてしまった。


「あら? 違った?」

「いや……合ってるけど……どうして分かったの?」

「だってエル、彼のこと好きじゃない」


 筒抜けであった。私ってそんなに分かりやすいの? とでも言いたげな表情である。自分の無防備さにまた耳が熱くなりそうだ。


 しかしエルは我慢する。恥じらいは部屋に置いてきたのだ。


「じゃあ――」

「ダメよ」

「えぇ!?」


 承諾してくれる流れだと思っていたエルは


「だって冒険家って危ないのよ?」

「でも……」

「少しゆっくり考えなさい」

「……!」


 エルは母の表情を見てその意味を理解した。トゥーリットは私を試しているのだ、と。


 『好き』は立派な動機だが、理由には成り得ない。


 勢いだけで決断するな。


 私を説得してみせるだけの理由を持ってきなさい。


 これは遥か遠方の国から嫁いで来た彼女の、母親として、そして女性としての忠告なのだ。説得のための答えはだいたい予想がつく。しかしエルには答えることが出来ない。答える資格がない。未だそれを自覚していないからだ。


 故にトゥーリットはエルに猶予を与えた。


「そろそろ夕御飯の時間ね」


 微笑みかける母の表情は心なしかいつもよりも弱々しく見えた。


   *


 それから数日経ったある日のこと。いつも通り、特訓のため少年とエルは庭に出ていた。ミアは木陰で休んでいる。


「あーもう全然当たんないなー」

「あんたは気合入れすぎなのよ。魔法で最も大事なのはイメージ。それと同じくらい大事なのは『余裕』よ」

「めちゃくちゃ余裕あるんだけどなあ」

「うん、そうじゃなくてね……えーと……」


 エルは幾ばくか辺りを見渡して手頃な石を見つけると拾い上げた。


「例えばこの石を投げるとき、力み過ぎると真っ直ぐ飛ばないでしょ? それと同じ。勿論力を抜きすぎると今度は威力が下がるから、そのちょうどいい塩梅を見つけなさい」

「なるほど。魔力がガチガチになっちゃうってことか」


 少年はもう一度全力で火球を放つ。無論、的を大きく外れる。


 次に軽く体を揺らして脱力を確認してから放つ。火球は真っ直ぐ進むが勢いはなく、的の手前で霧散した。


「ふぅ……」


 上限と下限を確認した少年は目を閉じて深呼吸する。目に見えない魔力を感じ取るように頭の中で試行錯誤する。


 目を見開く。杖を巻くように火炎がうねる。次の瞬間、小さくまとまった、それでいて力強い火球が目標物を――掠める。


「あーっ、惜しい! ガレミアさんありがとう! よし、もう一回!」

「どういたしまして」


 少年はせわしく一言だけお礼を言うと、すぐさま目標物の方へ向き直る。


(ああ、そうなんだ)


 そんな彼を見て微笑むエル。そんな自分に気付いてふと思う。



 ――必死に夢を追いかけるこの横顔が好きだ。

 ――あの日私を庇ってくれたこの背中が好きだ。

 ――私はこの少年――マレス=オリユーズがどうしようもなく好きなのだ。

 ――そんなひたむきで時々危うげな彼を、私はそばで支えてあげたい。



 エルも同じように目標物へ向き直った。


   *


「いいわよ」


 特訓が終わり、超特急で母の元へ駆けつけたエルに待っていたのはとても簡単な容認の言葉だった。


 だからなぜ分かるのか。エルは表情で訊ねる。


「あなたの目を見れば分かるもの」


 トゥーリットは余裕の表情で紅茶を口に運んだ。


 せっかく清書までしたのに台無しだ。エルは懐の紙切れをくしゃりと握り潰す。


「ほんとにいいの……?」

「私だって嫁いできた時はものすごく大変だったのよ。相手がガレミア家の長男だったからって、何十日もかかる遠くの国へ嫁ぐなんて『もう帰りません』って言ってるようなものだもの。そんな我儘を通してきた私があなたの我儘を否定する権利なんてないわ」

「でも跡継ぎは――」


 決心はしたものの、いざとなるとガレミア家の長女としての責任が背中を引く。その時――


「ミアが頑張る!」


 開け放しにしてた扉から飽きるほど聞いた声が飛び込んでくる。そこには妹ミアが本を抱えて仁王立ちしていた。


「お姉ちゃんが帰ってくるまでミアがこの家を守ってあげる! そのためにいっぱい勉強してきたんだもん。だから、気になんか掛けないでお姉ちゃんはお姉ちゃんの好きにしなよ!」

「ミア……」

「あ、それともミアに当主の座を取られるのが怖いのかな〜?」


 挑発的に歯を見せて笑う。姉が顔をしかめたところで「まあとにかく」とワンクッション入れる。


「ミアはこの家でお姉ちゃんが帰ってくるの待ってるから」


 もう一度見せる笑顔。それは先程のさっき見せた煽るような笑いではなく、全力で応援するような、姉の背中を押してあげるような素直な笑みだった。


「ミアはそれでいいの? 無理してない?」

「ううん。だってミア、お姉ちゃんのこと大好きだもん!」


 ああ、この子には敵わない。エルは諦めるように微苦笑を浮かべる。


「ミアもそう言ってるし、最悪ミアが頑張らなくてもお父さんがもっと頑張ってくれればなんとかなるわよ」

「お、お父さん過労死しちゃうよ! ……あ、そうだお姉ちゃん」


 このあとに続く言葉はいつもの決まり文句である。


「勉強教えて!」

「はいはい。ほら、行くわよ」

「わーい!」

「……じゃあお母様、私、頑張るね」


 エルはそう言い残してミアと一緒に部屋を出て行った。




 部屋に一人取り残されたトゥーリットはいつかの日を思い出す。


 ――初対面にも関わらず目の前で泣き崩れる女性。最も危険な職業のひとつと知られている冒険家の男を夫に持ち、不幸にも先んじて旅立たれてしまった悲劇。その息子が夫と同じ冒険家を目指すと告白した葛藤。


(ユシアはもっと苦しかったのかしら)


 彼女ほどではないにしろ、似た境遇。母の呪縛。


 娘が冒険家を目指す予兆が見え始めた時からずっと思い悩んでいた。最愛の娘を薄氷の地へと送り出す焦燥、不安、自責。いざとなれば母として無理やり止めることもできるだろう。そう思っていた。


 部屋に飛び込んできた娘の目。それはかつて自分が夫へ向けていた眼差しと同じものだった。覚悟の表れ。その一瞬で彼女から否定の選択肢は消えた。


 もし、もしもがあったら立ち直れなくなるくらい悲しむだろう。危険も覚悟の上と言っても、彼女はまだ子供だからきっと不十分だろう。だから、彼女が旅立つまでの間、その気持ちが後悔に変わらないように、大事に、大事に育てよう。


「孫は黒髪の子かしら」


 いつか大きくなった少年と娘が寄り添って帰ってきてくれることを思い浮かべながら、悩みとともに解放された疲れでゆっくりと瞼を閉じた。


   *


「マレスくん、ちょっといいかしら……」

「へ、なに?」


 いつだったか、初めて家に招待したときと重なる。しかしあれは学校で、今は自家の庭。背も随分伸びたし、距離もずっと近くなった。


「私、あなたの、その……るから……」


 あの時と変わらないのは緊張で声が震えてしまうことだ。


「ごめん、もう一回言って?」

「だから……ッ!」


 エルは少年を真正面に捉えて、叫ぶ。


「私、冒険家になってあなたのパーティに入るから……覚悟しなさい!」


 強気な言葉とは裏腹に、少女の顔は酷く紅潮していた。

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