第六話 スタートライン
保健室。向かって右側のベッドに手当をされたマレスが眠っている。回復魔法によって軽い傷は治っているが、左腕に受けた裂傷はなかなかに深く、ぐるぐる巻きにされた包帯がそれを物語る。
ベッドを跨るように伸びる影が二つ。沈みかけの夕日が彼女たちの背中を照らす。今にも不安で張り裂けそうな表情をしたユシア、泣きじゃくる顔を手でこするガレミア。明るい雰囲気などなく、言葉も発さずに少年を見守る。
保健医が言うには怪我自体は命に支障をきたすほどのものではないらしい。追い詰められたショックで気絶してしまったようだが、しばらくしたら目を覚ますだろうとのこと。
「んっ……いてて」
その予言通り、マレスがふと目を覚ました。
「オリユーズくん!」
「あ、あれ……? ぼく……」
きょとんとした顔で二人を見つめる。既視感。以前にも似たような景色を見たことがある。
魔人に襲われたときと一緒だ。そうか、ぼくは魔物の群れに襲われて、それで……助かった……? 混濁する記憶を手探りで思い返す。
ガレミアは顔を綻ばせ、立ち上がってマレスに寄ろうとする。だがそれよりも早く、ユシアが前に出た。
「あ、あ母さ――」
パチンッ
乾いた打音が部屋に響く。ユシアがマレスの頬に思いっきり平手打ちを浴びせたのだ。
「何やってるの!」
ユシアの怒声。唇を噛み締め、体を小刻みに震わせる。
じわりと滲む頬の痛みが母の気持ちを表していた。
「エルちゃんが助けを呼んできてくれなかったらあなた死んでたのよ!」
「ガレミアさんが……?」
涙を浮かべるガレミアがこっくりと頷く。
「どうしてあなたは! あなたたちは……ッ!」
あなたたち。ユシアはそこまで言って言葉を飲み込む。言いたいことは山程あるのだ。口を押さえても溢れてきそうなそれを、しかし懸命に堪える。母は示さなければならない、導かなければならない。
マレスの肩を掴んで瞳を覗くユシア。
「あなた、お父さんが死んだときすごく悲しかったでしょ。忘れちゃった?」
「……ううん」
小さく首を振る。
「だったら、どうしてあんなことしたの?」
「……負けたくなくて」
小さい頃だったとはいえ、家族を失う痛みを忘れてしまったわけではない。しかし、悔しさと惨めさが彼を焦らせてしまった。
「何かあったことは知ってるわ。分かりやすいもの」
九年間、一日も欠かさず見てきた。笑った顔、怒った顔、泣いた顔、疲れきった顔。そのどれでもない、初めて見る表情をしていたら簡単に分かってしまうのだ。
「でもね、あなたは私のたった一人の家族なの。あなたまで失ったら私は……」
肩を掴む手に力が入る。
「寂しいの……ッ」
ユシアの瞳から雫が落ちる。ぽろぽろと、息子への想いの数だけ。
マレスは母の涙を見て驚いていた。初めて見る母の表情。勝手に母というのは強いものだと思っていた。大人は。いつも母は笑顔を絶やさない。そこにどれだけの葛藤があったか子供は知る由もない。
ただ、知る必要もない。知るのは目の前にあるこの表情だけで十分だ。
「……っごめんなさい」
母の想いを受け取ったマレスの頬にも涙が伝う。温もりに満たされた涙。父を亡くすよりも前から何気ない日々をずっと紡いできた。マレスは母がどのような気持ちでそれを紡いできたか読み取ることはできなかったが、それがつまり幸せなのだとはっきりと認識することができた。
「本当に生きててくれて良かった……ッ」
「あはは、痛いよお母さん」
マレスの体を優しく抱き寄せる。まるで宝物のように――否、宝物なのだ。
重なる二人の涙と笑顔は何よりも美しかった。
一頻り泣いた後、ユシアは再びマレスと顔を向かい合わせた。
「もう、こんな危ないことはしないって約束できる?」
「……」
口を
不安で表情が曇るユシア。
「……あのね、お母さん」
覚悟を決めて口を開いたマレスは少し声が震えている。なぜならば、このあと口にするのは一度否定されたに等しい話題なのだから。不安を押し殺して、勇気を振り絞る。
「ぼく……、やっぱり勇者になりたい」
力強く瞬きをした瞼の奥で真剣な眼差しを向けるマレス。その芯の通った瞳を見て、ユシアも視線を真っ直ぐ合わせた。
「マレスは前世が勇者だったから勇者になりたいのかい?」
「うん」
ユシアは一瞬悲しげな表情をした。以前と同じ質問、それに対して肯定の返事。冒険家というのは一時の感情で目指していい職業ではないのだ。
――でもね、とマレスは続ける。
「もうそれだけじゃないんだ」
少年の姿が大人びたように見えた。ほんの少し目を離した隙にきっとこの子は変わったのだろう。ユシアは諦めたような、待っていたかのような不思議な感情を抱きつつ、息子から目を離さなかった。
「魔物に襲われたとき、ぼく頑張って戦ったんだけどね、ずっと怖くって……もう死んじゃうのかなって思ったんだ」
「……」
「そしたらあの人が助けに来てくれて……。すごいんだよ! いっぱいいた魔物を簡単に倒しちゃったんだ! あんまり覚えてないんだけどね、あはは……」
「ふふ」
「でね、その人が助けてくれたとき、なんていうか心がふわってなって……そう、すごく嬉しかったんだ」
「うん」
ユシアはひたすら耳を傾けた。息子が考え、苦しみ、死の淵に至って放つ言葉。その一言一句を噛み締め、止めどなく成長する息子の姿を目に焼き付ける。
「前世のぼくは勇者だったかもしれないけど、ぼくは勇者じゃないんだって気付いたんだ……。だからぼくは『ぼく』として、あの人みたいに誰かを助けられるような人になりたい。どんなに怖いことも跳ね返せるように――」
すぅっと息を吸う。
「僕は勇者になりたい!」
マレスの視界にははっきりと道が続いていた。これまで見えていなかった世界。どれだけ続くのか分からない、何回躓くのか予想もつかない。されどその目的地の引力に足を踏み出さずにはいられない。
「そう、頑張りなさい」
答えるのはとても恐ろしかった。夫と同じ道を進むのだから。
彼は勇者を目指してはいなかったが誰よりも優しく、困っている人を放っておけない人だった。一緒なのだ。軌跡をなぞるように息子は同じ道を目指す。好きになってしまった人の生き方を否定できるわけがない。
どうしても愛おしい。
「いいの!?」
「でも危険なことはしないこと。一人で考え込まないでちゃんと私を頼りなさい」
「うん!」
言わばここが彼にとって本当のスタート地点。白線を跨いだ少年の表情は実に晴れ晴れしかった。
「そういえばガレミアさんはなんであんな所にいたの?」
話は一転してマレスは首を傾げてガレミアに問う。マレスからしてみれば秘密の特訓の場にガレミアがいたことは不可解である。
「えと、そのっ」
ガレミアの瞳が忙しく揺れる。自分の行動は傍から見ればストーカーのそれなのだから当然の反応だ。
「あの、この前は酷いこと言ってしまってごめんなさい」
「えっ? えっ?」
唐突に頭を下げるガレミア。しかしマレスには思い当たる節が無いようで目の前の光景に驚いていた。
「ほら、ティーゼスくんとの勝負の後……。私があんなこと言ったから思い詰めてこんな危険なことをしてしまったんでしょう……?」
「……あっ、いや違うよ! というかガレミアさんがそう言ってくれたから僕は頑張らなきゃって気付けたんだよ!」
「そうなの……?」
「そうだよ! だから、ありがとう!」
必死にご機嫌を取ろうと手や足を大袈裟に動かして感謝を伝えるマレス。育ちのせいか責任感が人一倍強いのはガレミアの長所でもあるが短所でもある。
「まあ……それなら良かったけど……」
ガレミアは慌ててそっぽを向く。まさか感謝されるとは思っていなかったのだ。一方的に感じていた気まずさが晴れて、ガレミアは少年から見えないように弾むような笑顔を浮かべていた。
(本当にエルちゃん可愛いわね~。ウチに来てくれないかしら。そうだ、マレスと交換してくれないか今度聞いてみよう)
先程の熱い抱擁は一体何だったのか、ユシアは真面目な顔をして息子を売ろうと画策していた。
「そうだ。僕のことを助けてくれた人にお礼したいんだけど……」
「忙しいからってもう行っちゃったわよ」
「そっかあ」
「それにしても勿体無いことしたわねえ」
「そうですね、ふふ」
ユシアとガレミアはなにやら目を見合わせてにやけている。
「え、なになに。二人ともどうしたの?」
「あなたを助けてくれた人ね」
「うん」
「勇者様なのよ」
「?」
あまりに突拍子もないことを言うものだから、マレスの思考は止まり、何を言っているのか理解することができなかった。
「『紅蓮の勇者』アルドルト=ヘンリ様。聞いたことない?」
「えっ……えぇっ!?」
止まっていた脳が動き出す。そして理解する驚愕の事実。マレスは思わず飛び上がる。
「どこ!? どこにいるの!?」
「もういないってば」
「どうして起こしてくれなかったの!」
「怪我人を起こせるわけないでしょ」
「そんなぁ……」
夢にまで見た勇者。この場合は空想という意味の夢だが、そんなことはどうでもよかった。憧れに憧れた勇者その人と邂逅したというのに意識がなかったなんて少年にとって笑い話にもならなかった。
盛大に落ち込むマレスを見かねてガレミアが話題を繋げる。
「それにしてもオリユーズくん、よく時間を稼げたわね。正直間に合わないかと思って……」
「そうそう、魔物を数匹倒したらしいじゃない」
「魔法で倒したんだよ! ふふんっ」
「「はい?」」
反撃を食らったとばかりにぽっかりと口を開ける二人。あのマレスが魔法を使えるわけがない。百歩譲って使えたとしても魔物を倒せるほどの威力を持つわけがないのだ。
ユシアはしばらく考えてひとつの結論に辿り着く。
「ふふ、マレス。魔石は誰にでも使えるものなのよ」
きっと魔石が偶発的に発動して、それを勘違いしたのだろう、とユシアは考える。
「違うよ! 本当に出たんだよ! でっかい炎がぼわぁあってなって魔物をやっつけたんだよ!」
「また夢でも見たのかしら」
「本当だよ!」
マレスは必死に訴えるが二人は鼻であしらう。しかしこれまでのマレスを見ていたら妥当
「むむむ……じゃあ見せてあげるもん!」
マレスは枕元に置いてあった杖を手に取ると、両手で握り念じるように構えた。
すると、杖の先端付近で「ボッ、ボッ」と音を立てて火の粉が点滅する。
「ほら――」
その瞬間、爆発するように噴き上がる炎。制御の利かなくなった炎が暴れ出し、そして呆気にとられているガレミアを急襲する。
「――ッ!」
反射的にガレミアを庇うように立ち塞がるユシア。防御をしようと魔力を集中させようとするが……
(間に合わ――)
「危ないっ!」
直撃を覚悟したユシアの目の前に突如現れたのは薄い水のバリア。暴走した炎はその勢いのままバリアと衝突する。が、しかしバリアには波紋が立つだけで、衝撃を飲み込むようにしてあっさりと炎を打ち消した。
「間一髪、間に合いましたね」
ほっと一息ついたユシアが声のした方を見ると、入口の縁に肘をついて額の汗を拭うレドリー先生がいた。
「ごめんお母さん! ガレミアさん! 怪我、ない……?」
まさか魔力が暴走するとは思っていなかったマレス。しかし、怒っているのかそれとも怯えているのか、ガレミアは俯いたまま震えている。
「マレスー? 危険なことはしちゃダメってさっき言ったよねー?」
「ご、ごめんなさい……」
ユシアは結構怒っていた。勿論彼を煽り立ててしまった自分にも非があるため強くは言えないところだが、愛しのエルちゃんが危険に晒されたとなれば話は別だ。
ユシアは説教を始める。だが――
「すごい」
「え?」
ぽつりガレミアが呟く。
「すごいわオリユーズくん! まさかあなたがこんな力を持ってただなんて! ううん、知ってたわ。だってあなたも魔法が大好きだものね! 出力がまだ上手くできないみたいだけど、きっといい魔法使いになれるわ!炎魔法以外にも何かできるのかしら? ねえ、ちょっと今から――」
「あわわわ」
ガレミアのスイッチが入ってしまったようだ。
「……これはどういう状況ですか?」
やや困惑気味のレドリーにユシアが一連の流れを伝えた。
「……ふむ、どうやら本当に加護が発現したようですね。話を聞く限りでは魔力に関する、おそらく総量の増加といったところでしょうか」
『加護』――現人にのみ発現し、神によって授けられると言われる異能。個人によってその能力は異なり、似た能力もあれば希少な能力もある。魔人や天人も特殊な能力を持っているが、個人単位ではなく種族単位である。
「しかしこの年で発現するのは珍しいですね。きっと先の魔物の件で目覚めたのでしょう」
「えへへー」
「まあ魔力量がどれだけ多くても技術がなければ宝の持ち腐れですが」
「うぐっ」
マレスの胸に矢が刺さる。相変わらず無遠慮な物言いだが今回に限ってはレドリー先生が正しい。実際、魔物に襲われたときに上手くいったのは火事場の馬鹿力と偶然が重なっただけである。そしてその結果、急に枷が外れた負担は凄まじいもので、意識を失ってしまったのだ。
「そ、そうだ。お父さんは加護をもらってたの?」
「貰ってたわよ」
「どんな?」
「うーん、耳が良かったわ」
「えー、地味ー」
加護の内容は多種多様。派手なものから地味なもの。身体系や魔力系。稀な能力や似た能力。消えるほどの加速力や炎に特化した魔力操作。なんにせよ強力な武器だが、実力がなければレドリー先生の言ったとおり宝の持ち腐れ。持っているから強いわけではない。実力がない故にそれに気づかない者だっている。
「さて、加護が発現したら神様へのお返しとして加護名を教会に提出するのが習わしです。できれば分かりやすくて個性のあるものがいいですね」
「うーん……レドリー先生頭いいから決めてよ」
「いいのですか?」
「うん、かっこいいやつがいいなー!」
ふむ、とレドリー先生は顎に手を当てて考える。普通は当人が考えるものだが別にそういう決まりはない。
「そうですね。膨大な魔力……例えるなら空、いえ海でしょうか。深く、広い、オリユーズ君のように気まぐれな海」
「気まぐれ?」
自覚なく首を傾げるマレスを見てユシアがクスリと笑う。考えなしとか能天気とか言われないだけマシである。
「そう、溟渤。【魔力の溟渤】というのはどうでしょう?」
「おー! なんかかっこいい!」
どうやら少年の琴線に触れたようだ。レドリー先生を尊敬の眼差しで見つめる。勿論言葉の意味は理解していない。
「ねえマレス」
「うん? なにお母さん?」
「あなたは強くなりたいのよね」
ユシアからの唐突な質問。さっき言ったじゃないか、そんなの当たり前だとばかりに首を縦に振るマレス。
「そう。じゃあ――」
*
「剣は上手くならないとね」
後日、ディラ街に佇むひとつの剣道場を訪れた。気迫の籠った掛け声、踏み込みの音、外からでもその熱が窺える。入るのにも勇気がいる程だ。
「たのもー!」
「お母さんそれ違う!」
そんなものは関係ないとばかりに扉をドカーンと勢いよく開けるユシア。門下生たちは突然の道場破りに驚きを隠せていなかった。
「すみません。こちらに入門したいのですが先生はどちらに?」
打って変わって適当に近くにいる門下生に恭しく尋ねるユシア。
道場破りではないと分かった門下生たちは再び鍛錬に戻る。そんな風景を見て胸が跳ねる少年は、その反面何かを忘れているような気がした。
剣道場……。
規則正しく並んだ門下生たちは掛け声に連動して流れるように剣を振るう。ふと、その流れの中に淀みを見つけた。淀みというよりもその風景にこびりついていた。完全に止まっていた。
それと目が会う
「なっ、どうしてお前がここにいるんだよ」
「ウィタくんこそなんで!?」
道着姿のウィタがそこにはいた。
ティーゼス家が営む剣道場、即ちここがウィタの修練場、そして彼が住む家だったのだ。
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