第3話 中澤さんの刺繍画 ① 約束
中澤さんは58歳、白髪短髪中肉中背の患者で、僕のはす向かい廊下側のベッドの人です。
何の病気かは分かりませんが、顔色は土気色で内科の札がベッドに掛かっていたのでおそらく内臓疾患なのでしょう。…物静かなおじさんで、日がなずうっと何か針仕事みたいなことをしていました。
「…森緒さん、飲み薬出たので昼食後から飲んで下さいね!…」
11時を過ぎた頃に看護師さんが薬を病室に持って来ました。
僕に薬を手渡して看護師さんがきびすを返し、病室を出ようとした時、中澤さんがベッドに腰掛けて針仕事をしているのが彼女の目に入りました。
「あら、中澤さん、男なのに何?お針子さんしてるの?…」
看護師さんがそう声をかけると、中澤さんは顔を上げてニコリと笑みを浮かべながら言いました。
「いやぁ…入院中は特にすることも無いので…これはねぇ、趣味でやってるんですよ!…こうして布地のキャンバスにね、いろんな色の糸を縫い付けて絵にするんだけどね、へへ…まぁ要するに刺繍画ってやつですよ」
僕と看護師さんはちょっと驚いて中澤さんの手元を覗き込むと、確かに手に持つ白いキャンバスの隅の方から一部刺繍が入りつつあるのが見えました。
「…すでに完成してるのがあるから、ちょっと見て下さいね…」
中澤さんはそう言って手を伸ばしてベッドの下から一枚の作品を取り出しました。
「うわっ !? …凄~い!綺麗~!…これ中澤さんの作品なの?…素敵ねぇ~ !! 」
看護師さんは思わず声を上げました。
その作品は、30センチ × 40センチくらいのキャンバスに田園風景が描かれたもので、山を背景に緑の田畑の中を流れる小川と素朴な水車小屋…回る水車の羽根板から滴る水まで実に丁寧な刺繍によって作られていました。
僕も部屋内の他の患者たちも一様にその画の見事な出来栄えと刺繍の巧みさに感心して病室は華やかなサプライズに包まれたのでした。
「…入院中におそらくあと2つくらいは作れそうだから、退院する時には看護師さんに1つプレゼントしますよ!」
「えっ !? 本当に?…うわ~、嬉しいっ!…楽しみにしてるからね!中澤さん、きっとよ、約束だからね!」
中澤さんの言葉に看護師のお姉さんは大喜びです。
「…嬉しくて他の仲間に自慢しちゃいそうだけど、そうするとみんなして欲しい欲しいってなりそうだから、ガマンして今のは秘密の約束ってことにしておくわ!」
という訳でお姉さんはウキウキ顔で部屋を出て行ったのでした。
「…中澤さん!せっかくそんな良い作品が有るんだから、ベッドの上の壁の棚に飾ってみんなに見えるようにしたらどうだい?」
同室の患者たちからもそう言われて、中澤さんはちょっと恥ずかしそうな照れ笑いをしながら完成してるキャンバス画を飾りました。
…しかし結果から言うと、看護師さんとの素敵な約束を果たすこと無く、その後中澤さんが思いもよらぬ不幸な結末を迎えることになろうとは、この時誰にも予想すら出来ないことだったのです…。
…それから間もなくお昼になり、病院食が各病室に配膳されましたが、僕だけ食事のメニューがなんとお粥でした。
…考えてみれば昨夜はひどい発作に苦しみ、かなりの体力を消耗して、今朝はぐったり食事も摂っていなかった僕は現在けっこうな空腹感を覚えていました。
(…別に胃腸や内臓が悪い訳じゃないのにお粥かぁ…まぁ他人から見れば死にそうなくらいの酷い具合に思えたのかも知れないからとりあえず仕方ないかもな… ! )
心の中でブツクサ言いつつスプーンでその白粥をすくって口に運ぶと、全く何も味付けされてない上にすっかり冷めてしまっていて、およそ「美味しい」などという料理とは無縁の単なる「食い物」なのでした。
それでもひたすら空腹だった僕は一気にそれをガシガシと喉に流し込み、これまたうすらヌルくなった味噌汁をすすってあっけなく昼食は終了したのでした。
…そんな中、みんなが昼食を終えると例によって中澤さんは静かに刺繍画の作成に取り掛かりました。
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