第74話 逆転移

 ンリドルホスピタル精神科の資料室では、ボスが女医の取り出した三人の自称釜名見煙の手による作品を眺めながら、「これはまた」とか、「奇妙なものですね」とか、「これはオリジナルではないんですか?」とかの質問を繰り返していた。

 女医はその質問の全てが退屈なものであるということを言外に匂わせ、幾本もの煙草を灰にし、先ほど、もうタバコを吸うのはよそうと思い切ったように、シガレットケースをポケット深くに落とし込んだところだ。

 「非常にありていに言ってですね、この三つの症例は発症時期において恐らく、真正の釜名見煙、おっと笑わないで下さい。他に良い言い方が無いんですから。その、真正の釜名見煙の作品年譜と、ほぼ重なると考えていいわけですか? つまり、もっとも早い時期に発症した釜名見Aの製作物は、文章によるものが圧倒的ですね。釜名見Bは、何かデッサンのようなものが大半を占めているし、Cになると立体工作が重要な位置を占めるように思われます。既発表作品の模写だと分かるものばかりでなく、そこから意識の上でも技術的にも発展を遂げている風なものさえ、これらの作品群には含まれているようにも見えます。いや、素人の私に何が重要で、何が重要でないのかの判断が可能であり、かつ、その判断が医学的見地から、いや、現実的な観点からみて、正当であるか否かについて、専門家であるあなたのご意見をお伺いしているわけですが」

 女医は疲れたように眼鏡を外し白衣の胸ポケットはぞんざいにしまった。夕暮れの最後の残光が少し乱れた彼女の髪を通して、頬をほの暗い赤に染めた。

「そういうことになるでしょうね。あなたの着眼に同意しない精神科医はいないでしょう。なにしろ、圧倒的ですものね。質といい、量といい」

 ボスは頷いた。だが、何かまだ引っかかっているような表情で、じっと机上のオブジェを凝視していた。

 女医は左に身体を深く捩じるようにして上体を倒した。右足を上に組んだ状態からのこの動きは、白衣の前の隙間を大きく開き、そのしたの黒いミニのタイトスカートのスソを幾分からずりあげた。そして危うくバランスを取っている足の挙動がそのさらに奥をチラチラと垣間見せる。ボスは、いつの間にか机上のオブジェから女医の太ももに視線を奪われている。女医の右手が、白衣の左ポケットの奥深くをまさぐり、そこからシガレットケースの一端が覗いたその瞬間、そう、通常ならば中断などありえない動作の途上をあえて図ったかのように、女医は首だけをボスの方へ捻じ曲げた。自然と、ボスと女医の視線がかち合った。そして、女医は大げさに足を組み替え、眉をひそめると唇を斜めにしてタバコをくわえ、挑むかのように煙を吐いた。

「これでもうよろしいかしら? あなたの知的好奇心は存分に満たされましたこと? 私はそういうガラクタを四六時中見ていなければならないの。それって不毛なことだと思わない? あなたなら、そんな日常に何か刺激を与えてくれるかもしれないって思っていたけど、残念ね。お互い得るものが無かったみたいで」

 女医はスパスパとタバコを吸いながら、そうまくし立て、腰掛けていた机から飛び降りた。カツという小気味良い音が室内に響いた。

「それじゃ、探偵先生。あとはそのままでよろしいですから、お引取り下さい。そろそろ夜のミーティングが始まりますので」

 ボスの視線は、先ほどまで女医が座っていた腰元にあたりに固まったままだった。女医は自分の厭味が通じていないと分かって、また少し腹を立てていた。そこで、わざとボスの身体のスレスレを通って出口に向かったが、ボスは相変わらず動かなかった。女医はわざと乱暴に扉を開けた。

「それじゃ、失礼します。あなたもたいがいにしてお帰りなさい。それとも、精神科の診断が必要になったのかしら? それなら、外来の受付時間にまた来て頂戴」

 女医はそういう棄て科白を残して部屋を出た。そして、扉を乱暴に閉じようとした時だった。

「待ちたまえ、香鳴クン」

 ボスの声が響いた。それは大きな声ではなかった。だが、部屋中が凍りつくほど決定的な声だった。そう、沈み行く太陽までもが、その運行を止めるほどに。

「やっぱり精神科の診断が必要なようね」

 女医は閉じかけた扉を半ば強引に開きなおして室内に戻り、ゆっくりと扉を閉めた。

「隊毛頭像は君の副業を知っているのかね。それともこちらが本業なのかな?」

 ボスは相変わらず先程の空間を凝視したままである。女医はタバコをまさぐり、もう残っていないと分かるとシガレットケースをパチンパチンと開け閉めし始めた。

「自分が他の誰かだという症例を私は嫌というほど見てきましたの。それは、誇大妄想と呼ばれるものの一種で、本当の自分のつまらなさ、下らなさから脱出したい一心で、自分よりも大きな存在を自分だと思いこもうとする精神的抑圧だわ。あなたは一体自分が誰だと思っているのかしら?」

「何、私はただの通りすがりの者ですよ。幸い自分に幻滅できるほどうぬぼれてはいないつもりだがね」

「へぇー」と言いながら、女医は先程の位置に戻り、足を組んだ。そこからだとボスよりも少しだけ目線が高くなる。

「それで、香鳴というのは何者なのかしら?」

 女医はボスを見下ろして、そう尋ねた。ボスは机の回りをゆっくりと歩きながら、夢想するような表情で語り始めた。

「香鳴というのは釜名見煙評論では右に出るものの無い美術評論家であると共に、雑誌几螺果巳の主宰をしている女性でしてね、平喇香鳴という名前で活動をしている。彼女のポストモダン論はなかなか正鵠を射ているし、現代思想から見ても無視できない活動をしている。キオラ画廊の技術主任、隊毛頭像と共に、釜名見煙を世に送りだした功労者、ということになっていますね」

「立派な人じゃないの。で、それが何故私だとおっしゃるの? 何か特別な印があったのかしら」

「隊毛頭像の、ある場所での会話によると、二十数年前、釜名見煙がイフガメに設立したコロニーへ参加したのだそうですね。そこでのロマンスについてはまあ、置いておくとして、あなた、夕べはどちらにいらっしゃいました?」

 女医は肩でため息をついた。

「精神に破綻を来したものは、何でも自分の正しさを証明していると思い込むものですものね。ここでお答えしないとあなたの病気はいっそう進行してしまうでしょうから、お答えしますわ。私は夕べはたいくつなパーティーに出席していましたの」

「パーティーですか?」

「釜名見煙の新作披露パーティよ。そう。私の患者が自己投影している張本人のパーティーですものね。興味もあったし、招待状も来たから、気が進まないけど出掛けたの」

 ボスは腕を組んだ。

「それは何処であったんですか?」

「キオラ画廊っていったわね。調べていただければ分かることよ。招待状は、もう捨ててしまったけれど」

 ボスは机を一周して、女医の前を通過すると二周目に入った。

「ふむ。そこに隊毛頭像はいましたか?」

「知らないわ。うん。そうね。そういう名前の男は紹介されていないし、そう名乗る男いなかった、というのが正確な答えかしらね」

「すると、骸骨煎藻という男がその場を仕切っていたことに間違いは無いわけだ」

「そうそう。太った嫌ったらしい男だったわ。そこでなんか作品を撫でまわしていた女がいたわね。作品の新しい可能性を開いたとかなんとか言われていたけど。あれがあなたのご執心の平喇香鳴その人ってわけ?」

「いいえ」

 ボスは、その言葉の時だけ歩みを止めて、また歩き出した。

「私はね、こう思っているんですよ。今回の事件、いや騒動とべきでしょうが、これにはある巨大な意志が関与しているんです。そしてその周辺で人々のさまざまな思惑が鳴動しあって、或者は吹き飛ばされ、或者は取り残されていく。私は隊毛頭像から、社内で行方知れずになった二人の女性の捜索を依頼されていた。私はこれも周辺の雑事だと思っていた。だが、これは意外と、本筋に近い部分の変数だったのだと、気付いたんですよ。釜名見煙です。やはり、本筋はこれ以外には無い」

 ボスは女医の少し立ち止まり、今はすっかり暗くなった窓の外に光る街灯の線が、遠くまで続いているのを眺めてから、歩き出した。三周目である。

「おそらく、私があなたを隊毛頭像に会わせても、彼はあなたが平喇香鳴だとは認めないでしょう。彼にはそうすべき理由がある。同様に、あなたにもそれを認めない理由があるのです。この世界で、自分が何者であるのかを証明できるとされる方法の殆どが、根拠薄弱です。自分が否定し、周囲が否定すれば何者にも成り得るのが現代社会です」

「だからこそ社会は、様々な本人確認システムを考案して、そのどれもが捏造可能だとの絶望を抱えながらなお、本人のアイデンティティーは絶対だという信念だけは確実だと思い込もうとしている。たとえばあなたがたは、そういう時に、アリバイという物を重要視するのではなくって?現場不在証明。誰でも二つの場所に同時に存在することは出来ないって。いまだに現代物理は有効だわ」

「そんなものは、真名刑事にでも食わせてしまえばいいんですよ。私は、はなっからアリバイなんてものに重きを置いてはいない。それにアリバイという物もね、当事者と利害関係の無い第三者の不正確な記憶と証言による状況証拠に過ぎない。同じなんですよ。自分が否定し、周囲が否定すれば、人は同時に何箇所にでも出没できる。私はね、つくづく、この、脳、という奴が面倒になってきているんですよ。その点ではあなたのお世話になるべき人間が、もう一人増えることになるのかもしれないが」

「もう、そうなっているのではなくって?」

 女医はシガレットケースの留め具をずっと弾いている。それは時計のような音を響かせる。

「タイラカナル商事総合図案・ンリドルホスピタル・そしてキオラ画廊。この三箇所で起きた騒動は全て関連がある。それは二十数年前イフガメの砂漠に萌芽する、奇妙な熱情から起こる犯罪で、現在もなお進行中なのです」

「何ですって? 何が進行中だというんですか。本当は何も起こっていなくて、起きているとしたらあなたの頭の中だけなのじゃあないのかしら。職業熱心な探偵さんが自分で犯罪を作り出すのは、職業熱心な消防士が放火をするのと同じことよ」

「そして、職業熱心な精神科医が、気狂いを作り出すのもね」

 ボスは涼しげな顔でそう切り返すと、女医から一番遠い端で立ち止まり、女医の方を向いた。ボスの周回は三周半だったことになる。

「巻き込まれ、というんですか。逆転移というんですか。患者とカウンセラーとの間には少なからずそういう状態が起こり、また起こらなければ治療は困難になるそうですね」

「ま、よくご存知だこと。私達の苦悩をお察しくださって感涙してしまいそうですわねぇ。なら、そうした危険を回避するために私達が厳格に守っているメソッドも、当然ご存知のことと思いますけど」

「キオラ画廊では一人ないし二人が死んだ。ンリドルホスピタルでは二人が死んだ。タイラカナル商事でも二人が死に、二人が精神錯乱に陥り、数百名が行方知れずになった。犯罪行為だとすれば大犯罪だ。だが、天災のようなものだとしたら、考えられない規模ではない。しかしここには人事的作為が働いている。釜名見煙、という名で呼び慣わす他ない意志が。大儀のために少数の義性をいとわない姿勢。そう。これはテロに似ている。我々は犯罪に巻き込まれているのではない。テロに巻き込まれているのだ。そう考えれば自ずと、進むべき道は定まってくる」

「誇大妄想が始まっているわね。分裂症の兆候だわ。そのうちあなたは、自分が救世主だと言い始めるに決まっている。退屈な症例だわ」

「戦争状態においては、病が恒常的となるものだ。そしてそれは状況と共に加速していく」

 女医は再び机から飛び降りた。シガレットケースが落ちて耳ざわりな音がこだました。

「失礼。もう時間がないので私は失礼するわ。もし自覚症状が出ないようなら、明日にでも外来へいらっしゃい」

「明日という日が来るのであればね」

 ボスは、今度は女医の出ていくのを止めず、ぼそりとそうつぶやいただけだった。暗い室内では、様々なオブジェが闇の中にいびつな塊となって、立ち上がっていた。

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