第54話 一週間前の事

 営業二課では瑞名と未伊那とが、厚生部ではアルビヤと夏个とが対峙している。地下駐車場では、唖然とする室田を置き去りにして、隊毛が声高に笑っている。

 常に複数の状況があり、それらは互いにそれと知らぬまま干渉しあって、未来を形勢していく。だから、筆者はここでもう一つの状況に視線を移すことにする。


 陰々滅々とした社屋通路を、右腕を臍の前に回し、その手首に左手の肘を置く、いわば簡易的な頬杖の姿勢を保ったまま颯爽と歩いていく一人の男がいる。この男は、肘から手首までの長さに比べて、胴が少しばかり長すぎるせいで、背筋をいびつにたわめ、さらに顎を少し延ばし気味にしていたが、ともかく一心不乱に難しい事を考えている風ではあった。その静かな上半身は、つんのめりそうな勢いで足を不器用に捌いている下半身にのっかっている。

 白鳥は華麗な姿で泳ぐが、水中では水掻き付きの足がバタバタと回転している、との比喩で乗り切りたいところだが、いかんせん、ここは地上であり、腰から下も丸見えなので、上半身と下半身との対比はいかんともしがたい。

 男は現状を過去の分析と照らして真相に近づこうとしていたのであるが、悲しいかな、足が奏でる律動が、微妙に思考を乱していく。これではいけない、と気を取り直す事数度、思考はその都度ずれていく。

 「冷静な脳は理性の無い下半身がなければ移動できない。脳は不格好な下半身の仕事を笑ってはいけないのだが、常々、この不格好なものを何とかできないものか。と思案している。「頭脳」とはいえ、「脳味噌」という人体器官の一部である。絶対に取り替えがきかないという点で、人体最高、最重要の器官であるといえるが、脳だけでは何も出来ないということもまた事実である。例えば、脳だけでは生殖できない。もし、脳が脳のみで独立した生命となりうるのならば、一体どのような生態を獲得しうるだろうか? 剥き出しの脳はあまりにも弱く脆い。スプーンで掬えるほどである。

 生命の神秘にのっとって、脳はまずやはり海の中からその活動を開始すべきではないだろうか。水圧と塩分濃度とに打ち勝つためには、海水を濾過し養分と酸素とを越し出すための膜。水圧に柔軟に対抗するためには、その膜内の圧力を調整できるようにしなければならないし、その調整装置は浮袋としての役割を果たすたことも出来るだろう。膜は何層かに別れていて、それぞれが養分を漉しだす、酸素と二酸化炭素とを交換する、水圧から守る、浮袋となる、などの役割を果たさなければならない」

 そんな事が頭を去らない。

「肌瑪兎」

 男は振り返って、背後からピョンピョンと付いてくる若い女にそう言うと、口をきゅっと左右に引き延ばして見せた。肌瑪兎は、口笛を吹く真似をしながらそっぽを向いてみせる。男は顔を綻ばせた。そしてまた歩きだす。

 「人体から取り出した脳を生かす実験は、やがて脳によって脳を生み出す生殖実験に踏み込んでいかねばならない。脳細胞は人体形成時に爆発的に増えて、それから間引かれていき、その後はもう増殖しないという特性を持っている。取り敢えず、この特性はある種の細胞を採用すれば簡単に解消出来る。日々巨大化していく脳。それが自らの膜の許容容積を越えしまった時、膜は弾け、抗力を失った脳は分裂収縮ちりぢりになる。これが脳の死だ。だが、細胞の何パーセントかは、過酷な条件に打ち勝って再び分裂を始めるかもしれない。原始的な増殖方法だが止むを得ない。自然選択説を認めるならば、脳はこのようにして何世代にもわたって優勢遺伝を強めていき、とうとう海中をフワフワと漂う脳生物となるだろう。

 この時、切り離せない器官が、脊髄である。信号を双方向に伝達するバックボーン。骨の中をはりめぐらされたネットワーク。人体形勢において、骨が先か神経束が先かは調べてみなければ分からない。だが骨はこのさいとっぱらってもらおう。剥き出しの神経束が脳底から根状に広がっていて、それはさながらカツオノエボシのようである。微弱ながら電流を流すしくみをそなえている以上、進化の過程としてやはり電気クラゲのようになる可能性も高い。ただもともとが剥き出しの神経束だから、この触手はひどく感じやすい。そんな繊細な器官を四方八方に張りめぐらせていたのでは、心休まる暇がないので、剥き出しだった神経には次第に粘膜状のものが発生していくことだろう。その姿は、蛸かなにかのようである。だが、蛸の頭には消化器官が詰まっているが脳の頭には文字通り脳が詰まっているのだから、蛸なんかとくらべられては心外だ。

 それはまだ哺乳類ではないが、先祖は人間の脳である。捕鯨問題をとやかくいうのは、知能が高いという点にあるのであり、絶滅の危機に瀕しているという点は、あまり重要ではない。という事は、補脳はおそらく禁止されなければならない。しかし食えば美味らしいとの噂が広がって、こっそり脳を食わせる店も出てくるだろうし、「脳の踊り」「脳柳川」「脳しゃぶ」「脳のヅケ」などは珍味なるかもしれない。人の頭に納まっていれば、これほど乱獲され食われることもなかったろうに、独立させたばかりに、人間から身を守らねばならなくなってしまった」

 「肌瑪兎。いい加減にしなさい」

 男は再び立ち止まり、今度は怒気を僅かに含ませて言った。振り向くと、肌瑪兎は唇を尖らせてうつむいている。

「ストレルがたまるといい考えなんて出ないんだからさ、ルナッスクしないと」

「ストレス、リラックス」

 男は即座に間違いを指摘し、またふっと笑ってしまう。もう怒りは吹き飛んでいる。男とはもちろん、工辞基我陣その人である。

「すまんね。だが少し辛抱していてくれたまえ。私にも、無理しなけりゃならないときがあるのだ」

「ふーんだ」

 肌瑪兎は、承服できないといった顔をして、通路の掲示物をゆっくりと剥がそうとし始める。

「あとで、うめあわせするから。な」

「ご自由に」

 工辞基は肌瑪兎の頭を二三度撫でて、それからまた歩きはじめる。肌瑪兎は、その後を静かに付いていく。

 彼が今、肌瑪兎に、い・け・ず をしてまで考えなければならないのは、自分の計画に、現在の状況がどうリンクしているのか、という問題だった。

 入社以来、時には辣腕を振るい、時には昼行灯を決め込むという自在な策略で、課長補佐の座を手に入れた男がさらに上を目指すためには、大バクチを打たねばならなかったのである。自分を出世させることが会社の為になるのだと証明できなければ、工辞基はただの補佐のまま一生を終えなければならないのだ。

  釜名見煙のエージェントと名乗る男と会った時、工辞基は千載一遇の機会を得たことに気づいた。それまで漠然と考えていた絵図が「釜名見」という名前によって完成したのである。

 社内での派閥抗争に勝つこと、業績を延ばし、タイラカナル商事が一つのブランドとなること、離婚調停中の妻ときっぱりと別れること、プライドを高く保持し続けること、かっこよく生きること、この国を影で牛耳ること、有名人になること、投機で大儲けすること、文化人として各種のアンケートに答えること、朝まで生討論会に出演し、知識人の無能をさらけ出させること、勲章をもらって生涯恩給を獲得すること、愛人をかこうこと、日記がベストセラーになること、世界各地に招かれること、バカンスは三ヵ月くらいとれる事。

 さまざまな欲望の渦巻きを、工辞基は目眩と吐き気とに耐えながら微細に検討し、その一つだにも切り捨てることなくこれまで暮らしてきた。彼は知っていたのだ。幸せとは、欲望を満たしつづける事であると。欲望が無くなった時、人は気力を失うのだと。

 一週間前の事だ。

 高らかに響く自分の靴音に酔いしれながら、

『この仕事が自分のどの欲望を叶えてくれて、かつまた新しいどんな欲望をもたらしてくれるだろうか』

 とうずうずしながら工辞基は、妙にかさついた肌をした若い男と、応接室で対面した。

 「初めまして。私、こういうものです」

 差し出された名刺には、「画廊 頭首 取締役 薩它竝馬」とだけ書かれていた。

「ほうほう。画廊を経営なさっていらっしゃるのですか。なるほどなるほど。それは即ち文化という、人類にとって必要不可欠な高尚な事業だと思います。そして私どももまた、広告という商業主義に毒されているようでいて、その毒をもって、がさつで下世話な世の中を中和し、良質な潤いをご提供したいと考える、ある意味文化的役割を担っていると自負しておるんでございますよ」

 若い男は「はあ」と分かったような分からないような相槌を返す。工辞基は一瞬、営業的微笑を引っ込める。

『つまらない仕事率80パ−セントだ。黄間締あたりに担当させるかな。毒にも薬にもならん仕事だろうが効率よく片づければ、マイナスにはならんだろう。経験を積ませるという意味でも、こういう仕事を受けるだけの会社的意味はある』

 この間、僅か0.02秒程。そして工辞基の顔には先程以上の営業スマイルが炸裂する。

 「残念ながらこの社会において、美術の地位は低く見積もられておりますな。いや、投機対象として有効だとの認識こそ、地位の低さの証明ではありませんかな。売らんかなの展示会、値段を決めるためのコンクール。それで競り落とした作品は、倉庫に寝かせておくだけ。それは人類にとっての損失ですぞ。あ・な・た・わぁ、そういう下世話な連中とは違うとお見受けいたします。いやなに、おっしゃらなくても分かります。あなたは美術を食い物になさるようなお人ではない。(だって貧乏そうななりをしているからさ)当世、画廊を生業となさるのは並大抵のことではありますまい。相当な資産を引き継いでいらっしゃるか、信託屋の真似事をしているかのどちらかが殆どという嘆かわしい画廊事情の中で、あ・な・た・わぁ、違う。この工辞基、そのことは十分に分かっておりますぞ。(貧乏な画廊経営者なんて、お人好しが堅物かのどっちかに決まっているのだ)おたくの信念を全面に押し出しつつこれ以上無いというくらいのPRをすることを、お約束いたしましょう。文化的な活動に対しては国も決して冷たくはありませんぞ。あなたの清廉潔白な文化論に賛同するNGOも多数ありましょうから、代金なんぞ気になさることはありません。よろしいですかな。今、あなたはまさに文化的良心の象徴として、社会を照らす光となれるお方なのですからな。で、どういったご用向きで、本日はお越しいただいたのでしょうかな?」

 若い男は、もじもじしている。工辞基は完全にこの男を掌握したと思った。このようにして主導権を握ってしまえば、不必要なミシンだろうが、バッタものの絹糸だろうが、三日前の寿司だろうが売りつけることが出来るが、もちろん、タイラカナル商事のバッジをつけて、そんなあこぎな真似はしない。

「どうぞ、なんなりと仰って下さい。この工辞基。男をかけて、貴方様の画廊の為に一肌脱ごうではありませんか。」

「は、はい。それでは、あの、実は…」

「は?  何と。今何とおっしゃいました。いや、分かりますよ。この一流広告会社タイラカナル商事へ足をお運びになるのは、初めてのことでございましょうが、一流というのは二流三流を歯牙にもかけないお高く止まったいけすかない奴の謂いではありせん。我々はプロです。プロは常にプロとしてお客様に接し、最大限の力でお客様のご意向に沿うべく、獅子奮迅の努力をいたします。それがどのように小さな仕事であってもですね、我々が手掛けるからには、世の中の一大ムーブメントに仕立て上げる事が出来るのです。さあ、我々を信頼なさって、なんなりと、さあ。さあ。さあ」

 男はおずおずと顔を上げ、ごくりと唾を呑み込むと、意を決したように言った。

「釜名見を永遠のものにしていただきたいのです」

 工辞基は息を呑んだ。

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