第28話 中庭への扉

 私は、室田営業統括部長兼営業課長代理に会うために、中庭へ向かっていました。それがどこにあるのかも判らないまま、闇雲に廊下をぐるぐると回っていたのです。

 途中、懐かしい営業部の前を通りかかり、多々場君が昼食を食べようとしてるところを手招きしました。多々場君は、休み時間であるにもかかわらず、全てを了解したかのような顔つきで、細長いモップのように机の間を縫ってやってくると、「何でしょう?」と小声で聞きました。

「休み時間はオフレコだ。普通に話せ。ちょっと、頼みがあるんだ」

「待ってました」

「二つある。一つは厄介で、もう一つは面倒な仕事だ。だがどちらも絶対に必要なことだ。やってくれるね」

 多々場君は、目を閉じて身震いし、小声で「ヒャホイ」と言いました。どうやら、歓喜の叫びのようでした。

「まず、確認しておくと、今日の午後から営業部は、今回のプロジェクトが最優先となる。そして、その現場指揮を私が取る事になる。君には、あらゆる課題に対して縦横無尽に飛び回るスーパーアシストをしてもらいたいんだが、いいかね」

「ヒャホイ」

「一つ目。ンリドルホスピタルへ行って、院長の身柄を保護してもらいたい。優先順位は、①脳  ②脳+脊髄  ③脳+脊髄+肛門 くわえて、同室のゴミバコまたは、ダストシュートかもしれもんが、そこからテッシュにくるまれた院長の眼球、舌、鼓膜、声帯を奪取してきてもらいたい。

 おそらく、今現在病院を統括しているのは、泌尿整形外科の部長だ。なかなか食えない男だが、「さっきの白い男の使いだ」といえば、多少は便宜を図ってくれるかもしれない。言うまでもなく、この行動は最低限の人間にしか知られてはならない。特に、院長付きだった看護婦には絶対に気取られてはならない。多分もう、病院にはいるまいが。ついでに、その病院の入院患者のリスト、ICUの使用記録、院長、看護婦の履歴などもコピーしてきて欲しい。万が一、院長の身柄を保護出来ない場合は、優先順位を越えた最優先として、脳のCTデータを入手する。いいかね」

「ヒャホイ。それ俺一人でやるんすか?」

「一人とはいわん。そうだな。技術主任の田比地君にも行ってもらおう。電子的操作が必要になるかもしれない」

「で次は?」

「うん。これはデスクワークだから、手のすいている未伊那君に頼めると思うが…」

「あ、彼女は駄目です。今、クライアントからの注文が佳境にはいっています」

「注文って、例のボール紙細工かね?」

「イエス。今度は立体的なモデルを作りはじめてます。期日が迫っているとかで」

「どこからの注文なんだろうね?」

「さあ。別件みたいですが、彼女はそういう仕事の方がむいてるんです。瑞名君に頼みますよ」

「そうか。まあいい。この十年間の間に「釜名見煙」の名の出たプレスを全て検索して、情報の出所を網羅してもらいたい。それらの記事に出てきた地名、人名は全て履歴を洗っておいてもらいたいんだ」

「或日野さん。これ、どういうプロジェクトなんです? スパイ合戦みたいですね」

「仕事はすべて情報戦さ。情報開示とネット化が進んだからといって、情報が平等に降り注ぐなんて事にはならない。仕事というのはね、落差、偏在、不平等、そういった不均衡の間にしかありえないんだよ。万人がアクセスできる情報、誰もが知っている事、皆が持っている物、そんなものにビジネスチャンスは無い。価値は無いんだ。有用なのは、決して表に出ない情報だけだ。その為に我々は何をなすべきか。判るだろ」

「ヒャホイ! 充実した仕事ですね」

「どちらも絶対に気取られるなよ。足がついたら会社は潰される。非合法な情報を奪う時には、非合法な手段を使わなくてはならない。いいね。つまり、そんな行為は存在しないのだ。さらに、迅速にだ。難しいと思うが、頑張ってくれたまえ」

「取り合えず、飯食ってからでいいですよね?」

「当然だ。私もこれから食事だ」


 多々場君と別れてすぐ、『中庭への扉』という札が、営業部第一営業課と第二営業課の中間の壁に、揺れているのが目に入りました。私はもう、たいていのことには驚かなくなっていましたので、札の下がっている辺りの壁を押しました。壁はキーっという音を立てて開き、うららかな春の野が風にくすぐられて笑っていました。

 この入口のことは、記憶にありませんでしたが、そこは、イフガメに左遷されてしまった、工辞基我陣課長補佐と奇妙な昼食を採った中庭に他なりませんでした。あれからまだ、丸一日しか経っていないのだと思うと、妙な気分でした。

 翻弄され通しだった私でしたが、今ではこの状況を打開すべく率先して部下に指示をし、これから上司に掛け合おうとしているのです。これが成長というのでしょうか。とすればこの散々な目にあった24時間は、私にとってマイナスだったばかりでは無いのかもしれません。

 室田営業統括部長兼営業課長代理は、八畳ほどもある毛氈の上で、五段重ねの重箱のあっちをつつき、こっちをほじくりしていました。

「遅くなりました。アルビヤです」

「おお。来たか。まあ、やってくれたまえ」

「恐縮です」

 重箱の中身は、すべて稲荷寿司でした。五目ご飯入り、ただの酢飯、油揚を引っ繰り返して包んだ物、三角のもの、ゴマ入り、の五種類が、一つの重箱に16個づつ、計八十個あったのです。

「私は外で食べる重箱弁当というとこれに目がない。これは運動会の時にしか食べられなかったものだ。午前中に50メートル走や、ムカデ競争をして、裸足で、紅白帽をびっしょりにしてかけよった昼さがりの松林に吹いた涼風を、私は一生忘れないだろう」

「分かります。うちは、のり巻きと卵でしたが」

「いやいや。稲荷のいいところは、食べやすいところだ。ノリは口の中に張りつく。卵はシャリから卵が落下する恐れがある。稲荷はいい。袋になっているからね」

「大事なものは袋にしまうというのが鉄則です。いなりの中にはきっと、室田営業統括部長兼営業課長代理の思い出が、ぎっちりと詰まっているのでしょうね」

「ハハハハ」

 そんな話をしながら、我々は全てのいなりを平らげました。パック入りのお茶を飲みながら、仕事の事など忘れたかのように、日差しを浴び、風を受けていました。室田営業統括部長兼営業課長代理の髪が風に吹かれるとき、妙にこわばった撓り方をしするのが目に入りました。歳ですから、そういう事もあるでしょう。私は意識して頭を見ないように心がけました。


「さてと、アルビヤ君。仕事の進展を聞かせてくれないかな」

 さあ、来たぞ。と私は腹に力を入れました。

「はい。解決可能な問題と、近日中に糸口の見つかる問題とがありますが、これらは本日中に片づく予定です。しかし、問題は別のところにあります」

「ほほう。なかなか要点を付いているようだが…」

「はい。思いますに、今回の仕事における最大の障壁となっておりますのは、クライアントが特定されないという点に尽きます。いや、お聞きください。」

 私は嘴を挟もうとした室田営業統括部長兼営業課長代理を手で制しました。室田営業統括部長兼営業課長代理は目を白黒させて、髪を奇妙にはね上げたまま、口をすぼめました。笑いをこらえながら、私は続けます。

「だが、結局のところ、それ自体は大した問題ではありません。真のクライアントに、私はいまだに会っていません。それどころか、いざ会おうとすると、信じられない程に荒唐無稽な妨害に遭うのです。

 つまり、誰かが今回のプロジェクトを邪魔しているのです。それは誰でしょう? うちの業界のライバル会社でしょうか? いえ。主だった連中にその動きはありません。もし、そんな動きがあれば、四社協定に反するばかりでなく、これまでの顧客を失うという制裁を受ける事になるからです。第一、うちの広報部のその情報が入らない筈はないのです。ここまで、宜しいですか」

「これから、そのクライアントと打ち合わせなのだと、言っているだろう」

 室田営業統括部長兼営業課長代理はお茶を啜りながら、にべもなく言いました。ここからが正念場でした。

「クライアントが誰なのか、という問題は、実はそんな安易な問題ではないのです。今回のプロジェクトが何故これほど入り組んでいるのか。我が社の問題では無いとすれば、もちろんクライアント側を取り巻く状況に、このこんがらがった状況の理由があると考えるのが妥当です。したがって、自分がクライアントだといって、のこのことやって来る誰かを、クライアントだと認める事は、出来ないのです。なぜなら、我々と真のクライアントとが、アポイントメントによって顔を合わせることが出来るのなら、そもそもこんな状況は生じなかったはずだからです。この推論については?」

室田営業統括部長兼営業課長代理は、「いちいち聞くな」という風に邪険に手を振って先を促します。

「その全ての妨害を受けていたのが、私でした。つまり、今回の件に、いかなる人物、団体、思想が係わっているのか、私は全てを把握しているのです。いいですか、す・べ・て・ですよ。

 ですが、それは、社外の相関関係だけの話です」

「君は先ほど、我が社の問題ではないと言ったようだったが?」

「はい。私はここで、古典的探偵小説を思い出したのです」

「要点を言い給え」

「はい。つまり、ご存じでしょうか。『緋色の研究』というやつです」

「無論だ。事件というのは無数の白色の糸に絡みついた一本の緋色の糸のようなものだというテーゼのやつだろう。ホームズはアフガニスタンからの退役軍医ワトスンと初めて出会って…」

「はい。要約は結構です。問題はですね。現実は無数の糸の絡まりだという点は納得できたとしても、事件は、白色の糸にからまる一本の緋色の糸などという独立したものではないということです。様々な色や素材や長さの糸が、染料をぶっかけられて、もつれにもつれた巨大な毛玉となっているのが、この現実社会です。そこから緋色に染まった糸を解きほぐすには、毛玉の全てを解いてしまわなくてはならない、そんなふうに猥雑なのが現実なのです。この考えはいかがですか?」

「ふん。目新しくもない意見だね。そんな事は分かりきっている。だが仕事というのは、常に社会の毛玉、そんな物があったとしてだが、全体に絡んでいるわけではないし、またそんなことは不可能なのだということは、君も承知のはずだ。

 今の原子物理学、数学、が使用しているモデルはあくまでもモデルにすぎない。それで説明が付くから採用しているのであり、それで説明がつく範囲だけを取り扱っているのだ。

 いいかね。我々の仕事は、クライアントの意向を形にする、それだけのことだ。クライアントの意向を聞き出せない限り、仕事は進まない。君にその才覚がないというのなら、誰か他の者を担当させるだけだ」

 私は、わざと大きな伸びをして、眠たそうな顔で室田営業統括部長兼営業課長代理を凝視しました。

「もし、クライアントがいるとしたら、でしょう。室田さん。私は知っているんですよ…」

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