第26話 多田場君

「先輩!」

 と、私を呼び止める声がしました。三階の空中歩廊でのことです。後輩の多田場君でした。

 彼は、あらかじめ歩廊の突き当たり、厚生施設棟の入口で、私を待ち受けていたようでした。一瞬、私は躊躇いました。なにしろ私は白いのです。ですが多田場君は、そんな私の外観がまるで気にならないようでした。

「ファイル持ってきました。凄い調査資料ですよ。今回の仕事に携われるのは、広告屋の誇りです!」

「多田場君。君はまだ本当の仕事を知らないんだよ」

 私はつい、そう呟いていました。一切の細かな点を省いて考えてみれば、今回の仕事には、やはり、課長補佐と、室田前室長との派閥争いが絡んでいたのに違いないのでした。

 部下なんて、どうせ自分たちを引き上げるための歯車に過ぎないのでしょう。神輿の位が高くなればなるほど、それを担ぎ上げる者も同じように登っていける、などという思い違いは、未だに蔓延しているらしいのです。

 私は今まで、どの派閥にも関わってはきませんでした。それは、誘いがかからなかった為でもあるのですが、今回の仕事には、何か「裏」があるのです。こちらの都合とあちらの都合。その狭間で、現場の人間はいつだって翻弄されて、消耗させられるのです。

 多田場君には、まだその事が分かっていない。いや私だって、昨夜からの経験があってこそ、始めて身に沁みた現実だったのです。

「手に持っているのは例のファイルだね」

「はい。そう言ってるじゃないですか」

「君が資料を?」

「え。何言ってるんですか。先輩ですよ。昨日残業なさってて、今日はその疲れもあるだろうからって、室田営業統括部長兼営業課長代理が、総務部勤怠管理課に、フレックス申請をしてくれていたんですよ。部下の事を大事にしてくださる良い上司です」

「君も…」

 いや、私には多田場君を責める事は出来ませんでした。

「有り難う。とにかく、今日が勝負だから」

「はい。お手伝い出来る事があれば、なんでも言ってください。僕は先輩のバックアップをするように指示を受けていますから」

 お目付役だろうな。と私は思いました。

「助かるよ。とりあえずは、厚生部のイルカチャンに回帰して方策を練るから、一人にしておいてくれないか。もし時間を持て余すようならば、そうだな…」

「はい。何でしょう」

 多田場君、目を輝かせて。これは私にたいする尊敬では無いのです。大きな仕事に携われるという事と、室田からの肝入りだという興奮の為なのでしょう。彼は仕事に、夢も希望も持っているのです。きっと、何がどうなっているのか皆目検討も付かない状態ででも、前進せざるを得ないなどという、雪の進軍じみた指示があるなどとは、夢にも思っていないのに違いありません。

「そうだな… 羊でも探してみてくれないか」

「はあ?」

「背中に黒い星型のついた羊なんだよ。」

 私がそう言うと、彼は回りを窺いながら身を擦り寄せて来ました。

「それが、釜名見氏の新作の暗号なんですね?」

 そういう事にしてしまおう。と私は思ったのです。

 この羊の話は、以前に何かの小説で読んだ事があったのでした。主人公の境遇が今の私に似ているのです。もっとも、その主人公は、ストイックな戦士、といった勇ましさを持っていて、喜劇的な私とは比べるべくもないのでしたが…

「そういうことだ。極秘だからね。それから、今月号の几螺果巳を手に入れて、一時間以内にカプセルサイドへ持ってきてくれないかな」

 ああ、それなら、と多田場君は、秘密めかした笑みを浮かべました。

「その本なら、課にありましたよ。今月号ですよね。すぐ持ってきます」

「一体誰が……」

 私がそう尋ねようとした時、多田場君はすでに、展望エレベーターの扉をすり抜けていました。

 活力がある。と私は思ったのでした。仕事に対するあの姿勢は、きっと彼に充足を与えることでしょう。しかし、それが会社の利益となり、かつ上司の為になったとして、果して自分の為になるのでしょうか。やりがいのある仕事が出来ても、勤めがいのある会社なのかどうかは分からない。

 私はそんな事を考えながら、ぼんやりと廊下の外を眺めました。

 街は、午前中の空をどんどん汚していきます。いや、汚す、と思ってはいけないのです。人が生きる為の活動を行う結果として、沢山の手垢がついていくのです。まっさらだった今日は、こうして人々の欲望に塗り固められ、硬直して落ちていくのでしょうか。

「ああ、ここから中庭は見えないんだな」

 ペシミステックな感慨とは別に、私は、そう呟いていました。呟いてしまってから、改めて、廊下の左右を見下ろしてみたのです。課長補佐と決裂したあの中庭を見下ろす事のできる窓を、私はいまだに知らないのだと思いました。

「会社には沢山の謎がある。それは上に上がれば上がる程クリアになっていく類の謎なのだろう。今の自分は、立て続けにそれらの謎にぶつかっている、身の程知らずなのだ」

 私は疲れていました。それに空腹でした。厚生部で何か食わして貰うことにしよう。いやに嵩張るファイルを宥めながら、私は厚生部のカウンターへ、歩きだしました。

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