愛を唄え♪銀座いなりの恋占おかし噺
青星明良
第一幕 吾輩はヒロインである。婚約者はまだない
第1話 笑美恵美子はとっても不幸
「待って……。待ってください! 私のお財布を返してぇぇぇ!」
明治三十九年(一九〇六)生まれ。花も恥じらうお年頃の十八歳。道行く人の十人中八人はハッと振り返るほど可憐な少女である。十五歳の秋まで通っていた名古屋の女学校では「お姉様になって欲しい美人の先輩ナンバー1」として後輩の女学生たちにきゃあきゃあ騒がれていた。
そんな美少女が、今、着物の
通行人たちは、謎の疾走美少女に驚き、十人中十人が振り返っていた。よく見ると、彼女はいがぐり頭の大男を追いかけている。どうやら、スリに財布を盗まれたらしい。
「泥棒さん、私の全財産を返してくださぁーい! ……ああ、もう。故郷を出奔して憧れの東京にやって来た矢先にスリに遭うなんて、やっぱり私は三国一の不幸者だわ!」
そう、恵美子は家出娘である。聞くも涙、話すのも涙な、とっても不幸な経験を経て、我が人生を悲観して故郷を飛び出して来た。憧れの東京で胃袋が破けるほど飲み食いし、さんざん遊び尽くした後、糞ったれなこの世とおさらばしてしまおう。そういう腹積もりだった。
ところが、人生はやっぱり糞である。そんな自殺志願の少女の計画は、一人のスリのせいで
銀座一丁目の
「痛いではないですか。謝ってください!」
恵美子が遠くまで響く大声で抗議すると、そのいがぐり頭の男は女に生意気な口を利かれたというのに何も言い返さず、脱兎のごとく走り出した。
もしや! と思って
「ええい、してやられた!」
恵美子は、江戸時代生まれの祖父みたいな口調で叫び、いがぐり頭を追いかけ始めたのであった。
* * *
「ようやく追いつめましたよ! 観念して私の財布を返してください! 東京にはスリが多いと流行歌(
銀座の北の端から始まった追いかけっこは、銀座の南側の竹川町(現在の銀座七丁目)でとうとう終わろうとしていた。いがぐり頭が、可愛らしい狐の絵が看板に描かれたカフェー店の横の細い路地に逃げこむと、恵美子もその薄暗い空間に臆することなく飛びこみ、男を路地の奥で追いつめたのである。
「はぁはぁ……。な、なんて女だ。『
いがぐり頭は、赤い前掛けを首に巻いた狐の石像にもたれかかり、ぜえぜえと息を乱しながらそう言った。
(こんな所になぜ狐の像が?)
と恵美子は思ったが、よく見るといがぐり頭の背後に小さな
「女だからって甘く見ないでくださいませ。新しい時代の女は男に負けずスポーツを
「護身術ぅ~? けっ、女だてらに武術を習っているのかよ。……でもよ、多勢に無勢じゃぁ、せっかくの護身術も役には立たないんじゃねぇのか? くっくっくっ」
「ほへ?」
恵美子が間の抜けた声でそう言い、首をちょこんと傾げると、背後から複数の足音が聞こえてきた。
驚いて振り向けば、いがぐり頭に負けず劣らず人相の悪い四人の男が。
男たちはいやらしい笑みを浮かべながら、恵美子に迫って来る。どうやら、いがぐり頭の仲間らしい。
「むむむ。せこいスリのくせして、徒党を組んで行動しているのですか。ますますせこい悪党ですね」
「せこい、せこい、うるせぇぞ小娘。俺だって去年の九月の大震災で銀座の店が丸焼けになるまでは、西洋料理店の
「たしかにこんな世の中生きていても馬鹿らしいですが、それこれとは話が別ですわ。善悪の問題ではありません。乙女のプライドを深く傷つけられて故郷を飛び出した、とても可哀想な私の財布を盗んだことが許せないのです。私は、幼少時よりコツコツと貯めてきたお小遣いで気が済むまで豪遊した後、自殺する予定なのですから。私が本気で怒る前に私のお金を返してください」
「ペラペラとうるさい女だぜ……。おい、お前ら。この女を黙らせろ」
いがぐり頭が口汚くそう怒鳴ると、彼の仲間の一人が「ひっひっひっ。久し振りの女だ。嫁に行けなくなるような顔になるまで殴られたくなかったら、ちょっとの間だけ大人しくしていな」といかにも小悪党らしい
「おいおい、お嬢ちゃん。さっきまでは威勢のいいことを言っていたのに、怯えているのか? なぁに、心配するな。じっと我慢していたらすぐに済む……んんん⁉」
ガシッ、と恵美子は背後の男の手首をつかんだ。可憐な見た目からは想像できないほどの握力に、男は驚いて目を大きく見開く。
「…………今、何と言いましたか?」
恵美子は、ゆぅ~っくりと首だけ振り向き、男にその美貌を見せた。男はハッと見惚れる。そして、
まさに
「私が……お嫁に行けないですって? ……ふ、ふふふ。うーふふのーふー♪ ええ、そうですよぉ~。私ぃ~、何を隠そう十二回も縁談が破談になっていますのぉ~。あなたがたに乱暴されて顔が醜く変形しなくても、私は誰にもお嫁にしてもらえないんですよ。私は……私は……残念無念な
「うぎゃぁぁぁ⁉」
恵美子が絶叫した直後、男の体は宙を浮いていた。
電光石火の早業。恵美子は男の
「うわぁぁぁん! 丙午生まれの女は縁起が悪いなんて迷信、いったい誰が言いだしたんやぁぁぁ‼ ああ無情ぉぉぉ‼」
「ひ、ひいぃぃぃ!」
「やめてくれぇぇぇ!」
恵美子は号泣しながら、父から教わった「護身術」で悪党たちを叩きのめしていった。
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