第3話:蝶の奇襲

 オレンジ灯の切り取られたような空間からだんだんと離れていく。灯りになるものはもう周囲にはない。


 レウの足取りに迷いはなく、霞子はそれについて行くだけだった。


 霞子はレウの手を少し強く握りしめた。




 夏の夜のお外が、こんなにも寒いだなんて初めてしった。


 空気は刺すように冷え、歩を進めるたびに足や首筋を鋭くなでる。レウとつないでいる手だけは暖かい。




 ぽつん、と霞子の頭に冷たい滴が落ちる。うん? と空を見上げると、雨が降っていた。小雨がさあさあと二人をぬらす。


「ちょっと待ってて」


 レウは空いている手で着物の懐をさぐる。そこから、明らかにレウの華奢な体では隠しきれない大きさの傘が出てきた。器用に片手で傘を開いて、霞子と自分の頭上へぽんと浮かばせた。


「すごい……! ねえ、それって呪術? 傘が勝手に浮いてる!」


「うん。初歩的な術の一つを応用しただけだよ。大したことじゃない」


「大したことだよ! わたしにはできないもん! レウってすごい!」


「うん……ありがと、」


 レウは霞子から一瞬見えない顔を背けた。


 霞子はレウと一緒に、小雨の空間を歩いていく。雨に塗れた地面から、独特の匂いが霞子には感じられた。なんだかかいだことのあるような、つい先日見つけたような匂いだった。






「あ」


 霞子が声を上げた。


 十歩歩いた先に、白くぼんやりした光がいくつか舞っている。


 レウがそろりそろりと近づいていく。


 そこには光に包まれた色とりどりの蝶が飛んでいた。


「きれい」


「うん、色は鮮やかだ。


 だけどこれも異形」


 レウが灯りとなっていた蝶の一匹を片手で器用に捕まえる。握りしめたレウの拳から、白い光が漏れていた。


 きゅっと力を込めると、ぱきッと割れる音がした。


 レウがそっと手を開くと、粉々になったガラスの欠片が地面に落ちていった。光をまとっていた蝶ーーもとい擬態していた残りの異形は、瞬く間に空へと消えていった。


「蝶が」


「蝶に化けていた異形だ。ガラスに近い性質を持っていたみたいだね」


「そっか。……そういえば、さっきの蝶の柄、お屋敷で見た覚えがある」


「そう? ごめん、柄まではよく見てなかった」


「えっとね、黄色い羽に、黒いしましまだったよ」


「ふむ……。このあたりでよく見かける蝶の特徴と同じだね。外に出たことはなかったんだよね」


「うん。でもどこでいつ見たのか覚えてないんだ。きっと、お屋敷のお庭に飛んでるのをたまたま見つけたんだね」


「そう、かもしれないね」


 レウは手を指ですり合わせる。蝶の鱗粉が手にくっついていたらしかった。その鱗粉も光を帯びている。




 刹那。


 逃げたと思っていた蝶の異形が、突如空からまばゆい光を帯びて降ってきた。


「!」


 レウはすぐに反応したが、この奇襲を回避することができなかった。


 無数の蝶が土砂降りのごとく襲いかかり、レウの視界を奪う。隣にいた霞子は、レウの浮かばせていた傘のおかげで蝶の突撃をある程度かわすことができた。




「ぇっ?」


 霞子は後ろに引き寄せられる感覚におそわれる。襟首をぐっと引っ張られ、そのまま地面に倒される。受け身の取り方など知るはずもない霞子はなすすべもなく。


「げふっ」


 背中を強くたたきつけられ、喉にせり上がってくる痛みに耐えるしかない。




「しま……っ!!」


 レウの早口が離れた場所から聞こえた。


 霞子は起きあがろうとするが、それらはすべて妨げられる。誰に? 何が邪魔をしている? 


 上半身だけわずかに無理矢理起こした霞子は、その正体をしっかりと見つけた。




 植物の蔦が、自分の足に絡みついていた。レウの手よりも冷たい、黄緑色の細い細い蔦が、ざわざわと霞子の四肢にまとわりついてくる。表面は粘液でぬめっている。その感覚に霞子の背筋がふるえた。


「っな、に、これ」


 蔦は霞子の着物の下へ入り込み、彼女の肌を這っていく。


「い、いや……」


 がむしゃらに手足をばたつかせて逃げようとする。しかし蔦ーー触手に近いそれはなめらかな表面を生かして霞子の脱出を阻害する。もがいてもまとわりつく触手が滑るせいで、かえって状況が悪化している。


 光のない暗闇へと霞子が引きずり込まれる。


 必死にレウのもとへ戻ろうと踏ん張るが、純粋な力は蔦型の触手の方が勝っていた。


「霞子!」


 レウのせっぱ詰まった声が聞こえる。




 霞子はおそるおそる後ろを振り向く。そこには太い根を張った巨木が立っていた。さっきはこんなのなかったはずなのに?


 その巨木は藤の花を枝に咲かせている。薄紫の花たちは内からその実を輝かせていた。




 両手をまとめて縛り上げていた触手がぐんと上に上がり、小さな体が巨木へつり上げられていく。


 申し訳程度につま先は地面についた。ついた、というより巨木の太い根に足が触れた程度だ。




 触手はすでに霞子の全身をからめ取り、なまめかしくうごめいている。


「うぅ……」


 手首足首だけでは足りないのだろう。白い首筋をやさしく締め上げ、足の付け根や脇を触手の先端がつつく。


 体中這い回られている感覚に、霞子はふるえる。腹の奥底でなにかがうずき始め、顔が赤くなる。


 触手の一本が、足の付け根よりももっと深くをまさぐろうとして。




「霞子!!」




 レウの声が、再び聞こえた。




 レウは傘の胴部分を器用に投げる。鋭い音を発しながら回転し、それは霞子をとらえていた触手をぶっつりと切断した。


 霞子の手首を戒めていた触手が離れる。霞子はバランスを崩し前へ倒れそうになったところ、レウがすんでのところで抱き抱えた。


「むぎゅっ」


「じっとしてて」


 霞子が口を開くより早く、レウは早口でまくし立てた。弧を描いて飛ぶ傘の胴がレウの手へと戻ってきた。


 すっとそれを受け止めると、今度は霞子の足に絡みついていた触手を容赦なく断ち切った。


 斬られた触手はばたばたともがいている。レウが何度か踏みつぶすと、濃い緑の液体を地面にまき散らす。


「こっちへ」


 レウは霞子を両手に抱えて、巨木から距離をとる。レウの荒れた息づかいが霞子の耳に届いた。


「あれは殺すのに手間がかかる。いったん逃げるよ。いいね?」


 霞子が何か言う前に、レウはその場から一目散に逃げ出した。霞子を抱えているにも関わらず、その足取りになんの重みもなかった。 

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